【11/25書籍発売予定】契約外溺愛 ~呪われ猫伯爵に溺愛宣言されたが、勘違いする乙女心は既にない。……いえ、取り戻さなくて結構です!~
12 鼻にご迷惑をおかけしました
「ステラ、大丈夫でしたか?」
 治癒院は既に営業を終えており、数人の薬師が残った作業をしているだけだ。
 ステラとグレンの姿を見つけた院長は薬師に指示を出すと、そのまま個室へと促した。

「院長がグレン様に連絡したと聞きました」
「ええ。万が一を考えて、ウォルフォード伯爵にお伝えしました。わざわざご足労いただき、ありがとうございます」
 院長が頭を下げようとすると、グレンはそれを手で制した。

「いや、かまわない。連絡がなければ危険だった」
 その言葉に、院長の顔がさっと曇る。

「貴族の手の者が部屋を荒らしたらしいが、大家が手引きをしているようだ。それに、ステラを侮辱した上に襲おうとしていた」
「……そうですか」

 院長の表情がスッと消え、その目には鋭い光が宿る。
 普段はまさに母というおおらかで優しい人だが、怒らせると怖い。
 それも静かに怒るから、倍怖い。


「あそこの大家は治療費をいくらか滞納していますね。うちのステラに手を出そうとしたからには、相応の対処を致しましょう」

「手を貸そう」
「ありがとうございます、ウォルフォード伯爵。カークランド公爵にも協力をお願いするつもりです」

 絵に描いたような悪い笑顔を交わす二人に、かける言葉が見つからない。
 ステラは被害者だが、ほんの少しだけあの大家がかわいそうな気がした。

「ええと。支払いは、修理代金がわかってからでいいのでしょうか?」
「まだ言っているのか。ステラは払わなくていいと言っただろう」

 呆れたとばかりにため息をつかれるが、ステラの部屋に関するものなのだから、自分で払うのが筋というものではないだろうか。

「……もしかして、契約の必要経費という形で処理してくださるのですか?」
「何だか違う気もするが。ステラが納得するのなら、そういうことで構わない」

 何と心が広い。
 懐事情が雲泥の差とはいえ、支払いを代わってくれるとは。

 申し訳ない気もするが、当のグレンがそれでいいと言っている。
 それに、これから新しい部屋を借りて、服を揃えることを考えれば、出費を抑えられるのはありがたい限りだ。

「それなら、お言葉に甘えます。ありがとうございます」
 深々と頭を下げると、ステラは扉に手をかけた。


「では、私は寝床を整えるので、ここで失礼します」
「待て。何だ、整えるって。どこに寝るつもりだ」
「倉庫の隅の荷物をどけて、箱を並べてベッド代わりにしますが」

 木箱そのままではさすがに背中が痛くなるが、毛布を重ねれば何とかなる。
 作業で遅くなった時に何度かそうして仮眠を取ったことがあるので、お手の物だ。
 だが、それを聞いたグレンの眉間には皺が寄った。

「今日はそれで良くても、明日はどうする? 大体、部屋を探したところで、また同じ目に遭わないとも限らないだろう」
「それはそうですが、いつまでも倉庫に寝泊まりするわけにはいきません」

 倉庫は、あくまでも倉庫だ。
 ステラが私的に使用し続けていいものではない。
 ただでさえ他の薬師に迷惑をかけることが多いのだから、そのあたりのけじめはしっかりとつけなければいけない。

「……なら、うちに来ればいい。部屋ならいくらでも空いているし、婚約者の身を守るためだから、問題ない」
「あら、それはいいお話ですね」
 ステラが問題しかないと答える前に、院長が笑みを向けてきた。

「ウォルフォード邸は治癒院からそこまで遠くありませんから、通勤も可能ですし。何よりも部屋を荒らされたり、物を盗まれたりする危険がありません。どうせ結婚すればお屋敷に住むのですから、同じことです。……ね?」

 勧めているように見えて、これは決定事項の報告だ。
 この笑顔の院長に逆らってはいけないという本能に押され、ステラはぎこちなくうなずくことしかできなかった。



 馬車でウォルフォード邸に着いた頃には、辺りは真っ暗になっていた。
 到着してすぐに使用人達に囲まれたステラは、そのまま入浴した……というか、させられた。

 コーネル男爵令嬢として生活していた時にも入浴は一人でしていたステラにとって、女性と言えど手伝われるということ自体が衝撃だった。

 だが断ろうにも勢いが凄く、これはもしかしてステラが臭いのだろうかという考えに至ってからは、おとなしくされるがまま。

 そうして体を清め、髪を洗い終えたステラが袖を通したのは、一目で上質な生地とわかる水色のワンピースだった。

「あの、このワンピースはどなたのものでしょう?」

 適当に持って来たにしてはサイズがピッタリだが、同じ背格好の女性がいるのだろうか。
 あるいは、恋人かそれ準じる女性のためのものか……いや、恋人はいないと言っていた気がする。
 首を傾げるステラに、グレンの乳兄妹だと言っていたシャーリーが笑った。

「もちろん、ステラ様のものですよ」
「……ええ⁉」

 確かにドレスを作るために採寸をしているので、ステラのサイズはわかっているだろう。
だが、それとこれとは話が違う。

 よくわからないままシャーリーに案内された部屋で、グレンはソファーに座って何やら書類に目を通しているところだった。


「お仕事中でしたか、失礼しました」
 慌てて退室しようとすると、いつの間にか立ち上がったグレンがステラの手を握る。
 動きを止められたので振り返ると、思いの外近くに紅玉(ルビー)の瞳があった。

「……あの、グレン様?」
「え? あ、いや、すまない」
 手を握ったまま急に固まってしまったグレンに声をかけると、今度は素早く手を離して一歩下がった。

「こちらこそ。今までグレン様の鼻にご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありません」
「いや。……鼻?」

「私が臭いから、急いで入浴させたのですよね?」
 その言葉にグレンは口をぽかんと開け、次いで険しい顔でシャーリーに視線を移した。

「シャーリー、どういうことだ」
「ありえません! ステラ様はもともといい香りです! たまりません!」
 擁護するにしてもおかしな言葉だが、何故かグレンがうなずいている。

「お疲れと伺いましたので、体を清めて寛いでいただければと思いまして。水色のワンピースもとてもお似合いです。お化粧せずにこの美しさですから、私共もやりがいとご褒美が一挙に襲来してきて、歓喜に打ち震えております」
 更にわけがわからないことを言いだしたが、何故かまたグレンがうなずいている。

「あ、あの。この服をご用意いただいたと聞きまして」
「ああ。これから必要になるだろう?」

 にこりと微笑まれ、ステラはようやく気が付いた。
 これから一年の間、仮初めとはいえウォルフォード伯爵夫人となるのだ。
 今までのような平民中の平民という質素な服では、さすがにグレンが恥ずかしいということか。

 曲がりなりにも妻に対して安っぽい服しか用意できないと思われれば、貴族としての体面もよろしくない。
 これはステラに対する施しではなく、グレンの伯爵としての最低限の面子を保つために必要なものなのだろう。


「わかりました。グレン様の名が傷付くことのないよう、注意します」
「……うん? 何でそうなった?」

 少し眉間に皺を寄せる姿も、客観的に見て麗しい。
 乙女心が消えていなければ、一度くらいときめいたりしたのかもしれない。
 業務上不都合しかないので、今は消えた乙女心に感謝を捧げたいが。

「明日も仕事がありますので、失礼させていただきます」
「え、ああ。ゆっくり休んでくれ。シャーリーはステラにつける……というか、勝手についているから、何かあれば遠慮なく言ってくれ」
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