【11/25書籍発売予定】契約外溺愛 ~呪われ猫伯爵に溺愛宣言されたが、勘違いする乙女心は既にない。……いえ、取り戻さなくて結構です!~
13 黒猫シュテルン
シャーリーに案内されたのは、淡い緑色を基調とした落ち着いた部屋だった。
コーネル男爵家の何倍も質の良い調度類や、見るからにフカフカなベッドが、逆に落ち着かない。
「何かあればお呼びください。……ところで、失礼ですがそのネックレスは……」
入浴して着替えたので服は変わっているが、グレンに貰ったネックレスはなくさないように身に着けていた。
ステラには分不相応とも言えるし、もしかして盗難疑惑をかけられているのだろうか。
「これは、ここに来る途中でグレン様が」
「旦那様がお選びに⁉ ――やはりですか」
グレンがくれたのだという間もなく、シャーリーの鋭い声が飛び込んできた。
「事情があるにせよ、あの旦那様が結婚を決意したのですから、可能性はあると思っていましたが。なるほど、これは有望です。期待大です」
とりあえず盗難疑惑ではなかったようだが、それにしても様子がおかしい。
何やらぶつぶつと呟きながらうなずいているが、一体どうしたのだろう。
ひとしきり呟いたかと思うと、シャーリーは姿勢を正し、ステラに満面の笑みを向ける。
「それでは、ステラ様。おやすみなさいませ」
「お、おやすみなさい」
スキップでもしそうなほど御機嫌な様子のシャーリーを見送ると、ステラは部屋を見渡し、窓の方へと近づく。
窓を開けて夜風を浴びると深いため息をつき、窓辺の椅子に腰かけた。
色々なことがいっぺんに起きて、何だか現実だとは思えない。
「……何故、グレン様は私をお屋敷に置いてくれたのでしょうか」
契約上、ここに来る予定ではあったが、まだ少し先の話だったはず。
やはり、一応は婚約者という肩書のステラが、揉め事に巻き込まれるのが面倒だからだろうか。
これだけ広いお屋敷だし、一人増えるくらい何ということもないのだろう。
何にしてもステラを信じてここに連れて来てくれたのだから、その恩に報いなければ。
窓を閉めようと立ち上がると、にゃーんという声が耳に届く。
辺りを見回すと、扉の隙間から黒猫が顔をのぞかせていた。
「この間の猫さんですね。……おいで」
ステラが手を伸ばすと、黒猫はとことこと歩いてきた。
相変わらず人に慣れた猫である。
抱き上げて椅子に座ると、夜風に揺れる毛を撫でる。
艶やかな黒い毛は、月の光を浴びて煌めいて見えた。
「さすが、伯爵家の猫は毛並みがいいですね。あなた、名前は何というのですか?」
おとなしくステラの膝に乗っていた黒猫は、ちらりとステラを見ると、再び元の姿勢に戻った。
「明日にでも、シャーリーさんに聞いてみましょう。今日はあなたのこと、シュテルンと呼んでもいいですか?」
もう一度振り返った黒猫は、小さくにゃーんと鳴いた。
「ありがとうございます。賢い子ですね。シュテルンは、異国の言葉で『星』という意味なのですよ。私の名前と同じです」
シュテルンの毛を撫でながら、今日のことを思い出す。
誤解されるのも、逆恨みされるのも、慣れている。
楽しいことではないが、どうにか心をなだめる術を会得している。
そうでなければ、とても生きてはいけなかったからだ。
だが今日失ったのは、この六年の努力の結果。
公爵にお願いをして、司書に嫌味を言われて、偽物のノートまで用意して一生懸命書き写したもの。
それが、すべて――ただのゴミになった。
シュテルンの毛に、ぽたぽたと水滴がこぼれる。
美しい黒い毛は水を弾き、月光を浴びたそれはまるで宝石のように煌めいていた。
「……ああ。シュテルンが濡れちゃいますね」
毛に落ちた水滴を払い落とすと、シュテルンを床におろす。
同時に床にもぽたぽたと水滴がこぼれ、ステラはそれが自分の涙であることに気が付いた。
「……泣いたって仕方ないのに、困りましたね」
その場に座り込んで苦笑すると、シュテルンがステラにスリスリと体を寄せた。
「優しいですね、シュテルンは」
床に座ったままのステラが手を伸ばすと、黒猫はおとなしく撫でられている。
撫でられることが好きなのだろうが、今は撫でているステラにとっても癒しだ。
「今日ね、人生六年分の大切なものをなくしました。色々言われたりはしてきましたが、今回はちょっと……」
そこまで言うと、再び涙が溢れて頬を伝う。
もう一度、調べ直せばいい……そう思うには、六年は長すぎた。
「……やっぱり、もう国外に出た方がいいかもしれません」
ぽつりとこぼした瞬間、ステラに撫でられていたシュテルンが急ににゃーにゃーと声を上げた。
「大丈夫ですよ。あなたの御主人様との契約がありますから、一年先の話です。……ああ、でも国外に出るのなら閲覧権も不要になりますね」
閲覧権は欲しいが、この国に残れるかは微妙なところだ。
だが、国外に出ると一口に言っても色々準備がある。
思い立ってすぐに行けるものではないだろう。
にゃーにゃーと鳴き続けるシュテルンの頭を撫でると、ステラは涙を拭った。
「シュテルンというのは、国外で名乗るつもりだった名前です。ステラという名前では、同じことを繰り返してしまうかもしれないので。……明日、シャーリーさんに名前を聞くまでの間、あなたに貸してあげますね」
ステラはシュテルンを抱き上げると、部屋の扉を開けて廊下に出た。
「さて。廊下に放していいのでしょうか」
きょろきょろと辺りを見回すと、ちょうど廊下に姿を現したシャーリーが慌てて駆け寄ってきた。
「ステラ様。何か御用が――その猫は⁉」
「お部屋に迷い込んできました。それで、シュテルンをどこに放したらいいのか、わからなくて」
驚愕の後に睨むように黒猫に視線を送っていたシャーリーが、何かに気付いたように顔を上げた。
「シュテルン、というのは……?」
「あ、すみません。この子に仮の名前をつけました。本当の名前は何というのですか?」
シャーリーは何度もステラと黒猫を交互に見ると、小さなため息をついた。
「シュテルンで結構です」
「え? でも、もともとの名前が」
「でなければ、破廉恥野郎で結構です」
「そ、それは。何だかちょっと……」
ステラの腕の中で黒猫も不満そうにジタバタともがいているのだから、猫としても嬉しくない名前なのだろう。
「何にしても、その不埒な猫は預かります。物事には順序というものがありますから。しっかりと説教をしておきますので、ご安心ください」
言うが早いか、ステラの手から黒猫をもぎ取ると、シャーリーは鋭い視線をシュテルンに送った。
「もしかして、特定のお部屋だけで飼っているのでしょうか?」
「そんなところです。ステラ様のお部屋に侵入した際には、すぐに私をお呼びください」
これは、見事な箱入り猫だ。
確かに美しい毛並みの美人猫なので、汚れるのも行方不明になるのも困るだろう。
……その割には、何故かシュテルンという名前を採用したり、シャーリーの猫への態度が荒っぽいのが不思議ではあるが。
「わかりました。……おやすみなさい、シャーリーさん。シュテルン」
「おやすみなさいませ、ステラ様」
部屋に戻って扉を閉めると、窓からは輝く月が覗いていた。
「とりあえずは、一年……ですね」
予定とは違う始まり方になってしまったけれど、まずはグレンとの契約をしっかりと果そう。
その上で、この国に残れるかどうかを見定め、必要なら国外に出る準備を始めよう。
六年ぶんのノートを失ったことは、つらいし、悲しい。
だが、いつまでもくよくよしてはいられない。
心機一転して頑張るいい機会だと思わなければ。
ステラは自分の頬を叩いて気合いを入れると、夜風が吹き込む窓を閉めた。
コーネル男爵家の何倍も質の良い調度類や、見るからにフカフカなベッドが、逆に落ち着かない。
「何かあればお呼びください。……ところで、失礼ですがそのネックレスは……」
入浴して着替えたので服は変わっているが、グレンに貰ったネックレスはなくさないように身に着けていた。
ステラには分不相応とも言えるし、もしかして盗難疑惑をかけられているのだろうか。
「これは、ここに来る途中でグレン様が」
「旦那様がお選びに⁉ ――やはりですか」
グレンがくれたのだという間もなく、シャーリーの鋭い声が飛び込んできた。
「事情があるにせよ、あの旦那様が結婚を決意したのですから、可能性はあると思っていましたが。なるほど、これは有望です。期待大です」
とりあえず盗難疑惑ではなかったようだが、それにしても様子がおかしい。
何やらぶつぶつと呟きながらうなずいているが、一体どうしたのだろう。
ひとしきり呟いたかと思うと、シャーリーは姿勢を正し、ステラに満面の笑みを向ける。
「それでは、ステラ様。おやすみなさいませ」
「お、おやすみなさい」
スキップでもしそうなほど御機嫌な様子のシャーリーを見送ると、ステラは部屋を見渡し、窓の方へと近づく。
窓を開けて夜風を浴びると深いため息をつき、窓辺の椅子に腰かけた。
色々なことがいっぺんに起きて、何だか現実だとは思えない。
「……何故、グレン様は私をお屋敷に置いてくれたのでしょうか」
契約上、ここに来る予定ではあったが、まだ少し先の話だったはず。
やはり、一応は婚約者という肩書のステラが、揉め事に巻き込まれるのが面倒だからだろうか。
これだけ広いお屋敷だし、一人増えるくらい何ということもないのだろう。
何にしてもステラを信じてここに連れて来てくれたのだから、その恩に報いなければ。
窓を閉めようと立ち上がると、にゃーんという声が耳に届く。
辺りを見回すと、扉の隙間から黒猫が顔をのぞかせていた。
「この間の猫さんですね。……おいで」
ステラが手を伸ばすと、黒猫はとことこと歩いてきた。
相変わらず人に慣れた猫である。
抱き上げて椅子に座ると、夜風に揺れる毛を撫でる。
艶やかな黒い毛は、月の光を浴びて煌めいて見えた。
「さすが、伯爵家の猫は毛並みがいいですね。あなた、名前は何というのですか?」
おとなしくステラの膝に乗っていた黒猫は、ちらりとステラを見ると、再び元の姿勢に戻った。
「明日にでも、シャーリーさんに聞いてみましょう。今日はあなたのこと、シュテルンと呼んでもいいですか?」
もう一度振り返った黒猫は、小さくにゃーんと鳴いた。
「ありがとうございます。賢い子ですね。シュテルンは、異国の言葉で『星』という意味なのですよ。私の名前と同じです」
シュテルンの毛を撫でながら、今日のことを思い出す。
誤解されるのも、逆恨みされるのも、慣れている。
楽しいことではないが、どうにか心をなだめる術を会得している。
そうでなければ、とても生きてはいけなかったからだ。
だが今日失ったのは、この六年の努力の結果。
公爵にお願いをして、司書に嫌味を言われて、偽物のノートまで用意して一生懸命書き写したもの。
それが、すべて――ただのゴミになった。
シュテルンの毛に、ぽたぽたと水滴がこぼれる。
美しい黒い毛は水を弾き、月光を浴びたそれはまるで宝石のように煌めいていた。
「……ああ。シュテルンが濡れちゃいますね」
毛に落ちた水滴を払い落とすと、シュテルンを床におろす。
同時に床にもぽたぽたと水滴がこぼれ、ステラはそれが自分の涙であることに気が付いた。
「……泣いたって仕方ないのに、困りましたね」
その場に座り込んで苦笑すると、シュテルンがステラにスリスリと体を寄せた。
「優しいですね、シュテルンは」
床に座ったままのステラが手を伸ばすと、黒猫はおとなしく撫でられている。
撫でられることが好きなのだろうが、今は撫でているステラにとっても癒しだ。
「今日ね、人生六年分の大切なものをなくしました。色々言われたりはしてきましたが、今回はちょっと……」
そこまで言うと、再び涙が溢れて頬を伝う。
もう一度、調べ直せばいい……そう思うには、六年は長すぎた。
「……やっぱり、もう国外に出た方がいいかもしれません」
ぽつりとこぼした瞬間、ステラに撫でられていたシュテルンが急ににゃーにゃーと声を上げた。
「大丈夫ですよ。あなたの御主人様との契約がありますから、一年先の話です。……ああ、でも国外に出るのなら閲覧権も不要になりますね」
閲覧権は欲しいが、この国に残れるかは微妙なところだ。
だが、国外に出ると一口に言っても色々準備がある。
思い立ってすぐに行けるものではないだろう。
にゃーにゃーと鳴き続けるシュテルンの頭を撫でると、ステラは涙を拭った。
「シュテルンというのは、国外で名乗るつもりだった名前です。ステラという名前では、同じことを繰り返してしまうかもしれないので。……明日、シャーリーさんに名前を聞くまでの間、あなたに貸してあげますね」
ステラはシュテルンを抱き上げると、部屋の扉を開けて廊下に出た。
「さて。廊下に放していいのでしょうか」
きょろきょろと辺りを見回すと、ちょうど廊下に姿を現したシャーリーが慌てて駆け寄ってきた。
「ステラ様。何か御用が――その猫は⁉」
「お部屋に迷い込んできました。それで、シュテルンをどこに放したらいいのか、わからなくて」
驚愕の後に睨むように黒猫に視線を送っていたシャーリーが、何かに気付いたように顔を上げた。
「シュテルン、というのは……?」
「あ、すみません。この子に仮の名前をつけました。本当の名前は何というのですか?」
シャーリーは何度もステラと黒猫を交互に見ると、小さなため息をついた。
「シュテルンで結構です」
「え? でも、もともとの名前が」
「でなければ、破廉恥野郎で結構です」
「そ、それは。何だかちょっと……」
ステラの腕の中で黒猫も不満そうにジタバタともがいているのだから、猫としても嬉しくない名前なのだろう。
「何にしても、その不埒な猫は預かります。物事には順序というものがありますから。しっかりと説教をしておきますので、ご安心ください」
言うが早いか、ステラの手から黒猫をもぎ取ると、シャーリーは鋭い視線をシュテルンに送った。
「もしかして、特定のお部屋だけで飼っているのでしょうか?」
「そんなところです。ステラ様のお部屋に侵入した際には、すぐに私をお呼びください」
これは、見事な箱入り猫だ。
確かに美しい毛並みの美人猫なので、汚れるのも行方不明になるのも困るだろう。
……その割には、何故かシュテルンという名前を採用したり、シャーリーの猫への態度が荒っぽいのが不思議ではあるが。
「わかりました。……おやすみなさい、シャーリーさん。シュテルン」
「おやすみなさいませ、ステラ様」
部屋に戻って扉を閉めると、窓からは輝く月が覗いていた。
「とりあえずは、一年……ですね」
予定とは違う始まり方になってしまったけれど、まずはグレンとの契約をしっかりと果そう。
その上で、この国に残れるかどうかを見定め、必要なら国外に出る準備を始めよう。
六年ぶんのノートを失ったことは、つらいし、悲しい。
だが、いつまでもくよくよしてはいられない。
心機一転して頑張るいい機会だと思わなければ。
ステラは自分の頬を叩いて気合いを入れると、夜風が吹き込む窓を閉めた。