【11/25書籍発売予定】契約外溺愛 ~呪われ猫伯爵に溺愛宣言されたが、勘違いする乙女心は既にない。……いえ、取り戻さなくて結構です!~
2 やましいのは私ではなく
「私がいない間に屋敷に上がり込んで。しかも、何度も! 図々しいにもほどがあるわ!」
美しいドレスを身に纏った貴婦人は、ステラのそばに寄ってくると嫌悪を隠さぬ表情で睨んでくる。
ステラの魔女としての顧客の妻なのだろうが、この様子ではステラの訪問治療を愛人との逢瀬だと思っているらしい。
治療内容が内容なので、その伴侶にも秘密にされていることが多く、結果こうして誤解をされることも多々ある。
愛人と罵られるのは初めてではないが、決して気持ちのいいものではない。
治癒院の同僚達は魔法の効果は知らずとも、ステラが魔女だと知っている。
治療を公にできないという事情を理解してくれているとはいえ、こうして仕事の邪魔になるのが申し訳なかった。
激昂する相手に感情で向かえば、ただの泥試合になる。
それに、万が一にも『ツンドラの女神』の魔力が影響してはいけない。
毛生え薬のような力として使用しているが、裏を返せば毛根を根絶やしにすることも可能なのだから、気をつけなければ。
ステラは努めて冷静に貴婦人に相対した。
ちらりと手元を見れば、紋章の入った指輪をしている。
どうやら、間違いなく現在治療中の貴族の妻のようだ。
「私はご主人に対して訪問治療を行っただけです。使用人の方にも同席していただきましたし、奥様が誤解するようなことは何ひとつありません」
「嘘をおっしゃい! だったら何故、夫はあなたの名前を出すのを渋ったの? やましいことがあるからでしょう⁉」
その夫の頭髪がやましい……いや、乏しいからステラは治療をしていたのだ。
ようやく成果が出て訪問治療も終わりが見え始めたところなのに、騒がれても困る。
ステラの名前を出すのを躊躇したのは、『ツンドラの女神』による治療は紹介による完全予約制だからだ。
下手に騒げば自分のハゲ具合と治療がバレる上に、紹介を担う公爵の不興を買いかねない。
騒ぐだけ自分の夫の首を絞めているのだが、ステラを愛人だと思い込んでいる貴婦人の興奮は止まらない。
グレンもこの騒ぎを見たら、契約を白紙撤回したくなるだろう。
結婚はどうでもいいが、閲覧権は欲しかったのに……残念である。
「何とか言ったらどうなの。この夫殺しの毒婦が!」
興奮のままに貴婦人が手を振り上げる。
叩かれてもたいして痛くなさそうだが、律儀に叩かれる義理もない。
避けようと思うステラよりも早く、背後から伸びたグレンの手が貴婦人の細い手を掴んだ。
「手を上げるのは感心しないな」
美青年に手を掴まれて声をかけられた貴婦人は、風船がしぼむかのようにおとなしくなる。
麗しい顔の効果は絶大だなと感心していると、グレンは何故か隣にやってきて、ステラの腰に手を回して自身に引き寄せた。
「それに、ステラは俺の婚約者だ。……俺がいて、他の男に浮気するとでも?」
――何を言い出すのか、この男は。
思わず声を上げそうになるのを、ぐっと堪える。
これはきっと、契約の一環としてステラを庇っているのだろう。
いや、仮にも自身の妻を名乗ろうとする存在が愛人と呼ばれるのが、腹立たしいだけかもしれない。
愛人を否定する理由が『自分がいれば浮気するはずがない』というのは、なかなか凄い発言だが、美貌の伯爵が言うと説得力があるのだから恐ろしい。
実際、貴婦人もちょっと納得している様子だから始末に負えない。
こうチャラついていると恋人達からの嫉妬問題は怖いが、とりあえずこの場をやり過ごすことに専念しよう。
「……そんなに信用できないのでしたら、訪問治療は中止します。家庭内不和になってまで続ける必要もないでしょう。そうお伝えください」
「何よ、偉そうに。たかが薬師が!」
その薬師……というか魔女のおかげで、夫の頭髪は死線を乗り越えたのだ。
感謝しろとは言わないから、さっさと帰ってほしい。
貴婦人の言葉に、後ろに控えていたらしい治癒院の院長がため息をついて前に出てきた。
「何か勘違いがあったようですが、ステラは治癒院の優秀な薬師です。間違っても愛人などではありません。それに、ここは薬師とそれを必要とする方が来る場所です。どうぞ、お引き取りを」
物腰穏やかな女性の微笑みではあるが、その威圧感はなかなかのもの。
さすがは治癒院の代表である。
院長に微笑まれ、グレンに凝視され、周囲の視線を集めに集めた貴婦人は、ばつが悪そうに建物から出ていく。
「……今に見ていなさい」
ステラを睨むのと捨て台詞を忘れないあたり、誤解は解けていないのだろうが、そのあたりは夫婦間でどうにかしてもらおう。
それから、治療が途中なので再び頭髪最前線は死闘になるかもしれないが、それも自力で頑張っていただくしかない。
「はいはい。仕事に戻りましょう!」
院長が手を叩くと、薬師達の空気が和みいつもの仕事風景に戻っていく。
毎度のことながら、薬師達は順応力が高いものだ。
「院長、お手数をおかけしました」
「いいのですよ。あの方は以前から支払いが滞りがちで、薬師に対する態度に問題がありましたから。それで、ウォルフォード伯爵との契約は済みましたか?」
「……ご存知だったのですね」
公爵の紹介だとグレンを引き合わせたのは他ならぬ院長だし、この口振りでは申し出の内容を知っていたのだろう。
「もちろん。ステラをそこらの怪しい男性には預けられませんから。それに、悪くない話でしょう?」
確かに住み込みでの中和業務を一年こなすだけで閲覧権が手に入るのだから、願ってもない話だ。
それに公爵と院長が話を通したのだから、グレンの人となりはそれなりに保証されるだろう。
まあ、今の騒ぎで白紙になる気もするが。
「……夫殺しというのは、先程の話の?」
「はい。誰が見ても身売り同然の結婚で即日未亡人ですから。気になるのでしたら、このお話はなかったことにしていただいても」
魔女の仕事で愛人と誤解している人は多いが、それ以前の未亡人や殺人疑惑に関してはさすがに知る者は少ない。
ということは、あの貴婦人はわざわざステラの素性を調べたのだろう。
ご苦労なことだが、それで元実家にステラの存在がばれる可能性があるのだけは、いただけない。
「いや、大丈夫だ」
不快そうに眉を顰める様子からして大丈夫とは言えない気もするが、よほど呪いの中和をしてほしいのだろう。
「では、契約書に伯爵が亡くなっても閲覧権以外の一切を求めず、関与しないと書き加えましょうか。その方が安心ですよね」
「そこまでは」
「疑われるのには慣れましたが、不快なことには変わりありません。一年だけとはいえ接する機会は多いのですから、不安要素は排除した方がいいでしょう。……できれば、伯爵の親しい女性達に変な憶測で治癒院に来ないようにお伝えくださると助かります」
見目麗しい独身の伯爵ともなれば当然女性達にモテるのだろうし、先程の様子からして女性にも慣れていそうだ。
ステラはあくまでも中和のための契約結婚をするだけなので、嫉妬に巻き込まれるのは勘弁してほしかった。
「それは……心配ない。それよりも、君のことをステラと呼んでもいいかな?」
「伯爵のご自由になさってください」
「ステラはウォルフォード伯爵夫人になるんだ。伯爵と呼ぶのはおかしい。グレンでいいよ」
「わかりました、グレン様」
美貌の伯爵を名前で呼ぶなんて、乙女なら一大事だろう。
だが幸いにもステラの乙女心は消えているので、何ら問題はない。
要は顧客の要望なのだから、応えるだけのことだ。
「院長、今日はステラを借りても平気だろうか」
「グレン様、私には仕事が」
「良ければ王立図書館に付き合うが……どうする?」
どうするって何だ。
どうもこうも、そんなもの――嬉しいに決まっている。
無言のまま深緑色の瞳を煌めかせるステラに、院長が笑った。
「今日は人数も十分だし、最近休暇を取っていなかったでしょう。せっかくだから、行ってらっしゃい」
「はい! ありがとうございます、院長、グレン様!」
前回図書館に行けたのはいつだっただろう。
公爵に迷惑をかけるからと自重していたが、やはり図書館で調べ物ができるのは嬉しい。
グレンと一緒でも面倒なことに変わりはないだろうが、今は嬉しさがすべてを凌駕している。
満面の笑みで支度を始める様子にグレンの頬が緩んだが、それに気付いたのは院長だけだった。
美しいドレスを身に纏った貴婦人は、ステラのそばに寄ってくると嫌悪を隠さぬ表情で睨んでくる。
ステラの魔女としての顧客の妻なのだろうが、この様子ではステラの訪問治療を愛人との逢瀬だと思っているらしい。
治療内容が内容なので、その伴侶にも秘密にされていることが多く、結果こうして誤解をされることも多々ある。
愛人と罵られるのは初めてではないが、決して気持ちのいいものではない。
治癒院の同僚達は魔法の効果は知らずとも、ステラが魔女だと知っている。
治療を公にできないという事情を理解してくれているとはいえ、こうして仕事の邪魔になるのが申し訳なかった。
激昂する相手に感情で向かえば、ただの泥試合になる。
それに、万が一にも『ツンドラの女神』の魔力が影響してはいけない。
毛生え薬のような力として使用しているが、裏を返せば毛根を根絶やしにすることも可能なのだから、気をつけなければ。
ステラは努めて冷静に貴婦人に相対した。
ちらりと手元を見れば、紋章の入った指輪をしている。
どうやら、間違いなく現在治療中の貴族の妻のようだ。
「私はご主人に対して訪問治療を行っただけです。使用人の方にも同席していただきましたし、奥様が誤解するようなことは何ひとつありません」
「嘘をおっしゃい! だったら何故、夫はあなたの名前を出すのを渋ったの? やましいことがあるからでしょう⁉」
その夫の頭髪がやましい……いや、乏しいからステラは治療をしていたのだ。
ようやく成果が出て訪問治療も終わりが見え始めたところなのに、騒がれても困る。
ステラの名前を出すのを躊躇したのは、『ツンドラの女神』による治療は紹介による完全予約制だからだ。
下手に騒げば自分のハゲ具合と治療がバレる上に、紹介を担う公爵の不興を買いかねない。
騒ぐだけ自分の夫の首を絞めているのだが、ステラを愛人だと思い込んでいる貴婦人の興奮は止まらない。
グレンもこの騒ぎを見たら、契約を白紙撤回したくなるだろう。
結婚はどうでもいいが、閲覧権は欲しかったのに……残念である。
「何とか言ったらどうなの。この夫殺しの毒婦が!」
興奮のままに貴婦人が手を振り上げる。
叩かれてもたいして痛くなさそうだが、律儀に叩かれる義理もない。
避けようと思うステラよりも早く、背後から伸びたグレンの手が貴婦人の細い手を掴んだ。
「手を上げるのは感心しないな」
美青年に手を掴まれて声をかけられた貴婦人は、風船がしぼむかのようにおとなしくなる。
麗しい顔の効果は絶大だなと感心していると、グレンは何故か隣にやってきて、ステラの腰に手を回して自身に引き寄せた。
「それに、ステラは俺の婚約者だ。……俺がいて、他の男に浮気するとでも?」
――何を言い出すのか、この男は。
思わず声を上げそうになるのを、ぐっと堪える。
これはきっと、契約の一環としてステラを庇っているのだろう。
いや、仮にも自身の妻を名乗ろうとする存在が愛人と呼ばれるのが、腹立たしいだけかもしれない。
愛人を否定する理由が『自分がいれば浮気するはずがない』というのは、なかなか凄い発言だが、美貌の伯爵が言うと説得力があるのだから恐ろしい。
実際、貴婦人もちょっと納得している様子だから始末に負えない。
こうチャラついていると恋人達からの嫉妬問題は怖いが、とりあえずこの場をやり過ごすことに専念しよう。
「……そんなに信用できないのでしたら、訪問治療は中止します。家庭内不和になってまで続ける必要もないでしょう。そうお伝えください」
「何よ、偉そうに。たかが薬師が!」
その薬師……というか魔女のおかげで、夫の頭髪は死線を乗り越えたのだ。
感謝しろとは言わないから、さっさと帰ってほしい。
貴婦人の言葉に、後ろに控えていたらしい治癒院の院長がため息をついて前に出てきた。
「何か勘違いがあったようですが、ステラは治癒院の優秀な薬師です。間違っても愛人などではありません。それに、ここは薬師とそれを必要とする方が来る場所です。どうぞ、お引き取りを」
物腰穏やかな女性の微笑みではあるが、その威圧感はなかなかのもの。
さすがは治癒院の代表である。
院長に微笑まれ、グレンに凝視され、周囲の視線を集めに集めた貴婦人は、ばつが悪そうに建物から出ていく。
「……今に見ていなさい」
ステラを睨むのと捨て台詞を忘れないあたり、誤解は解けていないのだろうが、そのあたりは夫婦間でどうにかしてもらおう。
それから、治療が途中なので再び頭髪最前線は死闘になるかもしれないが、それも自力で頑張っていただくしかない。
「はいはい。仕事に戻りましょう!」
院長が手を叩くと、薬師達の空気が和みいつもの仕事風景に戻っていく。
毎度のことながら、薬師達は順応力が高いものだ。
「院長、お手数をおかけしました」
「いいのですよ。あの方は以前から支払いが滞りがちで、薬師に対する態度に問題がありましたから。それで、ウォルフォード伯爵との契約は済みましたか?」
「……ご存知だったのですね」
公爵の紹介だとグレンを引き合わせたのは他ならぬ院長だし、この口振りでは申し出の内容を知っていたのだろう。
「もちろん。ステラをそこらの怪しい男性には預けられませんから。それに、悪くない話でしょう?」
確かに住み込みでの中和業務を一年こなすだけで閲覧権が手に入るのだから、願ってもない話だ。
それに公爵と院長が話を通したのだから、グレンの人となりはそれなりに保証されるだろう。
まあ、今の騒ぎで白紙になる気もするが。
「……夫殺しというのは、先程の話の?」
「はい。誰が見ても身売り同然の結婚で即日未亡人ですから。気になるのでしたら、このお話はなかったことにしていただいても」
魔女の仕事で愛人と誤解している人は多いが、それ以前の未亡人や殺人疑惑に関してはさすがに知る者は少ない。
ということは、あの貴婦人はわざわざステラの素性を調べたのだろう。
ご苦労なことだが、それで元実家にステラの存在がばれる可能性があるのだけは、いただけない。
「いや、大丈夫だ」
不快そうに眉を顰める様子からして大丈夫とは言えない気もするが、よほど呪いの中和をしてほしいのだろう。
「では、契約書に伯爵が亡くなっても閲覧権以外の一切を求めず、関与しないと書き加えましょうか。その方が安心ですよね」
「そこまでは」
「疑われるのには慣れましたが、不快なことには変わりありません。一年だけとはいえ接する機会は多いのですから、不安要素は排除した方がいいでしょう。……できれば、伯爵の親しい女性達に変な憶測で治癒院に来ないようにお伝えくださると助かります」
見目麗しい独身の伯爵ともなれば当然女性達にモテるのだろうし、先程の様子からして女性にも慣れていそうだ。
ステラはあくまでも中和のための契約結婚をするだけなので、嫉妬に巻き込まれるのは勘弁してほしかった。
「それは……心配ない。それよりも、君のことをステラと呼んでもいいかな?」
「伯爵のご自由になさってください」
「ステラはウォルフォード伯爵夫人になるんだ。伯爵と呼ぶのはおかしい。グレンでいいよ」
「わかりました、グレン様」
美貌の伯爵を名前で呼ぶなんて、乙女なら一大事だろう。
だが幸いにもステラの乙女心は消えているので、何ら問題はない。
要は顧客の要望なのだから、応えるだけのことだ。
「院長、今日はステラを借りても平気だろうか」
「グレン様、私には仕事が」
「良ければ王立図書館に付き合うが……どうする?」
どうするって何だ。
どうもこうも、そんなもの――嬉しいに決まっている。
無言のまま深緑色の瞳を煌めかせるステラに、院長が笑った。
「今日は人数も十分だし、最近休暇を取っていなかったでしょう。せっかくだから、行ってらっしゃい」
「はい! ありがとうございます、院長、グレン様!」
前回図書館に行けたのはいつだっただろう。
公爵に迷惑をかけるからと自重していたが、やはり図書館で調べ物ができるのは嬉しい。
グレンと一緒でも面倒なことに変わりはないだろうが、今は嬉しさがすべてを凌駕している。
満面の笑みで支度を始める様子にグレンの頬が緩んだが、それに気付いたのは院長だけだった。