【11/25書籍発売予定】契約外溺愛 ~呪われ猫伯爵に溺愛宣言されたが、勘違いする乙女心は既にない。……いえ、取り戻さなくて結構です!~
30 溺愛とは、何でしょう
「あの。部屋を荒らされた件で、グレン様が動いてくださったと伺いました。ありがとうございます。それから、お花もありがとうございました」
よくわからないまま馬車に乗り込むと、とりあえずお礼を伝える。
正面に座ったグレンは表情からして御機嫌のようだが、仕事が上手くいったのだろうか。
「いいよ。当然のことをしただけだ。それに、本当は俺が送ってあげたかったけれど、仕事があってね」
「お仕事が優先なのは、当然のことです。それよりも、わざわざお花を用意しなくても結構です。馬車での送迎だけでも十分にありがたいですし、お花の有無は人目に触れませんから必要ないと思います」
すると、グレンはきょとんとしてステラを見ている。
美貌の伯爵の気の抜けた表情も可愛らしいが、今はそんなことを言っている場合ではない。
律儀なグレンは、このままでは毎日花束を用意しかねない。
無駄な出費を減らすため、ステラの平穏な生活のためにも、不要なのだということをしっかり伝えなければ。
「迷惑だった?」
「そうではなく、もったいないので」
「もったいない?」
グレンの眉間に皺が寄るが、怒っているという感じではなく、よくわからないという顔だ。
「契約上の仮初めの妻に、無用な出費はどうかと思います」
「うーん。そこからか」
頭をかきながら困ったと言わんばかりだが、今困っているのはステラなのだが。
グレンは小さくため息をつくと、紅玉の瞳をステラに向けた。
「俺とステラは正式に夫婦だって言ったよね? 夫が妻に花を贈るのは、ごく普通のことだよ」
「それは、夫婦ならばそうかもしれませんが」
「だから夫婦だよ」
つまり、仮初めとはいえ夫婦である以上は、それらしくしようとしているのだろう。
思った以上に律儀な人間である。
本来ならば好ましいことなのだろうが、今は少しばかり面倒くさい。
「私は一年だけの契約関係です。夫婦としてのあれこれは、未来の本物の奥様にして差し上げてください」
すると、グレンはがっくりと肩を落としてため息をついた。
「ステラ。俺は君を溺愛すると言ったよね。迷惑?」
「迷惑というか、意味がわかりません」
「酔っていたとか、偽物だって言いたいの?」
「それもありますが」
「他にもあるのか」
呆れたとばかりに目を丸くするグレンの様子に、何だか言いづらくなり、ステラは少しうつむいた。
「ええと。その……溺愛というのが、わからないです」
「は?」
「ああ、いえ、言葉自体は知っています。溺れるように愛する、ですよね」
グレンの眉間に皺が寄るのを見て、ステラは慌てて首を振る。
だが、ステラにわかるのは、そこまでだった。
「ただ、実際にそれがどういうものなのか、とか。何故そうなるのか、とか。見たこともなければ経験もありませんので」
なので、何が溺愛なのかと考えても、見当がつかなかった。
「グレン様がそれをすると公爵にまで伝えるのですから、きっと貴族として夫婦として必要なのですよね。一年間の仮初めの間柄とはいえ、グレン様にはお世話になっていますし、評判を下げることのないよう努力したいのですが……何をしたらいいのか、わからないのです」
ステラの言葉を聞いたグレンは、唖然として口を開けている。
これはきっと、貴族として当然のことを知らないステラに驚いているのだろう。
申し訳ないし、恥ずかしい。
「お役に立てなくて、すみません」
罪悪感のせいで、頭を下げたまま上げることができない。
ステラの役割は中和であり、伯爵夫人という立場は王立図書館の閲覧権のための副産物だ。
それでも、親切なグレンに恩を返したかったのだが……貴族としての教養のなさがこんなところで足を引っ張るとは思わなかった。
何とも、情けない話である。
「いや。……そうか、そういう段階なのか。とりあえず、顔を上げて」
グレンの手に促されて頭を上げると、紅玉の瞳が優しくこちらを見つめている。
「ええと。ご両親のように、とか」
「父が母に花を贈るのを見たことはありません。そもそも屋敷にいませんでしたし。継母の方ですと、浪費しながら継子いじめをして、父は見て見ぬふりです。私、使用人を叩いたりいじめるなんて嫌ですし、それを止めないグレン様も嫌です」
あれが溺愛ではないというのはわかるが、仮にそうだとしてもあんな人間にはなりたくない。
「もっと、ステラを大切にしてくれた人は?」
「実母以外ですか? 師匠と院長とカークランド公爵でしょうか。……なるほど、そこを参考にすればいいのですね」
確かに師匠以外は結婚しているし、夫婦仲睦まじい。
「――それ以外は」
鋭い声にびっくりして見てみると、グレンが悲しそうな瞳でステラを見ている。
「親しい友人とか、恋人とか」
「いない、ですね。たまに好きだとか結婚してほしいと言ってくる男性もいましたが、断ると愛人だ何だと罵られました。要は、そういう風に私を見ているのでしょう」
ステラは一度望まぬ結婚をして、即日死別して追い出され、実家にも勘当されている。
好きだの結婚だのに夢を見るような乙女心は、既に消えて久しかった。
「ステラは、それでいいのか」
「よくはありませんよ。でも、仕方がないです。……なので、乙女心なんて復活しなくていいのです」
そんなものがあっても、無駄に傷つくだけだ。
平民として一人で生きていくためには、乙女心などない方がよほど都合がいい。
グレンは突然立ち上がったかと思うと隣に座り、そのまま手を伸ばしてステラを抱きしめた。
「グ、グレン様?」
急な行動に困惑していると、ステラを抱きしめる手に力がこもる。
「ステラの乙女心は消えていない。……押し殺しているだけだ」
「あの?」
仮にそうだとしても、現在それが存在しないことに変わりはない。
一体、何を言いたいのだろうか。
ゆっくりと腕が緩められ顔を上げると、そこには美しい紅玉の瞳があった。
「溺愛がわからない、と言ったな。言葉としては、ステラの言った通りだ。盲目的に愛することを指す」
「はい」
とりあえず言葉の定義は間違っていなかったのだと安心するステラを見て、グレンは悲しげに目を細める。
「でも、ステラにそれは少し早い。まずは、大切にされることに慣れてもらう」
「慣れる、ですか。私は何をすればいいのでしょう?」
「何も。受け入れてくれればいい」
そう言いながら、グレンは片方の手でステラの頭をゆっくりと撫でる。
シュテルンを撫でた時に仕返しとして撫でられたことはあるが、その時とは何かが違う気がした。
「俺がステラを大切にすることに慣れて、受け入れて、それを当たり前だと思って」
「……何だか、難しそうですね」
大切にされるのを当然だと思うなんて、なかなか傲慢だと思うのだが。
溺愛というものは、かなり高度な技術を要するようだ。
いや、まだ早いと言っていたので、これはあくまでも練習か準備段階。
となると、本当の溺愛は一体どれだけ困難なものか……考えるのも恐ろしい。
悩み始めたステラの頭上から、微かな笑い声が降り注ぐ。
グレンは容姿も美しいが、声も心地良かった。
「それができたら、俺からの愛を受け取って。盲目的に、愛されて」
ステラの頭を撫で続けていた手が止まったかと思うと、そのまま手が頬に滑り落ち、額にそっと唇を落とされた。
「ひゃあ!」
びっくりして離れようとするのだが、抱えられているので動くことができない。
どうしようもなくて顔を上げると、紅玉の瞳が優しく細められている。
「好きだよ、ステラ。――俺が、大切にするから」
「はあ。……よろしくお願いします」
仮とはいえウォルフォード伯爵夫人という立場である以上は、グレンの溺愛に協力するのが筋というものだろう。
未知の世界だし、難しそうではあるが、頑張らなければ。
気合いと共に返事をするステラに、グレンはただ笑みを返した。
よくわからないまま馬車に乗り込むと、とりあえずお礼を伝える。
正面に座ったグレンは表情からして御機嫌のようだが、仕事が上手くいったのだろうか。
「いいよ。当然のことをしただけだ。それに、本当は俺が送ってあげたかったけれど、仕事があってね」
「お仕事が優先なのは、当然のことです。それよりも、わざわざお花を用意しなくても結構です。馬車での送迎だけでも十分にありがたいですし、お花の有無は人目に触れませんから必要ないと思います」
すると、グレンはきょとんとしてステラを見ている。
美貌の伯爵の気の抜けた表情も可愛らしいが、今はそんなことを言っている場合ではない。
律儀なグレンは、このままでは毎日花束を用意しかねない。
無駄な出費を減らすため、ステラの平穏な生活のためにも、不要なのだということをしっかり伝えなければ。
「迷惑だった?」
「そうではなく、もったいないので」
「もったいない?」
グレンの眉間に皺が寄るが、怒っているという感じではなく、よくわからないという顔だ。
「契約上の仮初めの妻に、無用な出費はどうかと思います」
「うーん。そこからか」
頭をかきながら困ったと言わんばかりだが、今困っているのはステラなのだが。
グレンは小さくため息をつくと、紅玉の瞳をステラに向けた。
「俺とステラは正式に夫婦だって言ったよね? 夫が妻に花を贈るのは、ごく普通のことだよ」
「それは、夫婦ならばそうかもしれませんが」
「だから夫婦だよ」
つまり、仮初めとはいえ夫婦である以上は、それらしくしようとしているのだろう。
思った以上に律儀な人間である。
本来ならば好ましいことなのだろうが、今は少しばかり面倒くさい。
「私は一年だけの契約関係です。夫婦としてのあれこれは、未来の本物の奥様にして差し上げてください」
すると、グレンはがっくりと肩を落としてため息をついた。
「ステラ。俺は君を溺愛すると言ったよね。迷惑?」
「迷惑というか、意味がわかりません」
「酔っていたとか、偽物だって言いたいの?」
「それもありますが」
「他にもあるのか」
呆れたとばかりに目を丸くするグレンの様子に、何だか言いづらくなり、ステラは少しうつむいた。
「ええと。その……溺愛というのが、わからないです」
「は?」
「ああ、いえ、言葉自体は知っています。溺れるように愛する、ですよね」
グレンの眉間に皺が寄るのを見て、ステラは慌てて首を振る。
だが、ステラにわかるのは、そこまでだった。
「ただ、実際にそれがどういうものなのか、とか。何故そうなるのか、とか。見たこともなければ経験もありませんので」
なので、何が溺愛なのかと考えても、見当がつかなかった。
「グレン様がそれをすると公爵にまで伝えるのですから、きっと貴族として夫婦として必要なのですよね。一年間の仮初めの間柄とはいえ、グレン様にはお世話になっていますし、評判を下げることのないよう努力したいのですが……何をしたらいいのか、わからないのです」
ステラの言葉を聞いたグレンは、唖然として口を開けている。
これはきっと、貴族として当然のことを知らないステラに驚いているのだろう。
申し訳ないし、恥ずかしい。
「お役に立てなくて、すみません」
罪悪感のせいで、頭を下げたまま上げることができない。
ステラの役割は中和であり、伯爵夫人という立場は王立図書館の閲覧権のための副産物だ。
それでも、親切なグレンに恩を返したかったのだが……貴族としての教養のなさがこんなところで足を引っ張るとは思わなかった。
何とも、情けない話である。
「いや。……そうか、そういう段階なのか。とりあえず、顔を上げて」
グレンの手に促されて頭を上げると、紅玉の瞳が優しくこちらを見つめている。
「ええと。ご両親のように、とか」
「父が母に花を贈るのを見たことはありません。そもそも屋敷にいませんでしたし。継母の方ですと、浪費しながら継子いじめをして、父は見て見ぬふりです。私、使用人を叩いたりいじめるなんて嫌ですし、それを止めないグレン様も嫌です」
あれが溺愛ではないというのはわかるが、仮にそうだとしてもあんな人間にはなりたくない。
「もっと、ステラを大切にしてくれた人は?」
「実母以外ですか? 師匠と院長とカークランド公爵でしょうか。……なるほど、そこを参考にすればいいのですね」
確かに師匠以外は結婚しているし、夫婦仲睦まじい。
「――それ以外は」
鋭い声にびっくりして見てみると、グレンが悲しそうな瞳でステラを見ている。
「親しい友人とか、恋人とか」
「いない、ですね。たまに好きだとか結婚してほしいと言ってくる男性もいましたが、断ると愛人だ何だと罵られました。要は、そういう風に私を見ているのでしょう」
ステラは一度望まぬ結婚をして、即日死別して追い出され、実家にも勘当されている。
好きだの結婚だのに夢を見るような乙女心は、既に消えて久しかった。
「ステラは、それでいいのか」
「よくはありませんよ。でも、仕方がないです。……なので、乙女心なんて復活しなくていいのです」
そんなものがあっても、無駄に傷つくだけだ。
平民として一人で生きていくためには、乙女心などない方がよほど都合がいい。
グレンは突然立ち上がったかと思うと隣に座り、そのまま手を伸ばしてステラを抱きしめた。
「グ、グレン様?」
急な行動に困惑していると、ステラを抱きしめる手に力がこもる。
「ステラの乙女心は消えていない。……押し殺しているだけだ」
「あの?」
仮にそうだとしても、現在それが存在しないことに変わりはない。
一体、何を言いたいのだろうか。
ゆっくりと腕が緩められ顔を上げると、そこには美しい紅玉の瞳があった。
「溺愛がわからない、と言ったな。言葉としては、ステラの言った通りだ。盲目的に愛することを指す」
「はい」
とりあえず言葉の定義は間違っていなかったのだと安心するステラを見て、グレンは悲しげに目を細める。
「でも、ステラにそれは少し早い。まずは、大切にされることに慣れてもらう」
「慣れる、ですか。私は何をすればいいのでしょう?」
「何も。受け入れてくれればいい」
そう言いながら、グレンは片方の手でステラの頭をゆっくりと撫でる。
シュテルンを撫でた時に仕返しとして撫でられたことはあるが、その時とは何かが違う気がした。
「俺がステラを大切にすることに慣れて、受け入れて、それを当たり前だと思って」
「……何だか、難しそうですね」
大切にされるのを当然だと思うなんて、なかなか傲慢だと思うのだが。
溺愛というものは、かなり高度な技術を要するようだ。
いや、まだ早いと言っていたので、これはあくまでも練習か準備段階。
となると、本当の溺愛は一体どれだけ困難なものか……考えるのも恐ろしい。
悩み始めたステラの頭上から、微かな笑い声が降り注ぐ。
グレンは容姿も美しいが、声も心地良かった。
「それができたら、俺からの愛を受け取って。盲目的に、愛されて」
ステラの頭を撫で続けていた手が止まったかと思うと、そのまま手が頬に滑り落ち、額にそっと唇を落とされた。
「ひゃあ!」
びっくりして離れようとするのだが、抱えられているので動くことができない。
どうしようもなくて顔を上げると、紅玉の瞳が優しく細められている。
「好きだよ、ステラ。――俺が、大切にするから」
「はあ。……よろしくお願いします」
仮とはいえウォルフォード伯爵夫人という立場である以上は、グレンの溺愛に協力するのが筋というものだろう。
未知の世界だし、難しそうではあるが、頑張らなければ。
気合いと共に返事をするステラに、グレンはただ笑みを返した。