【11/25書籍発売予定】契約外溺愛 ~呪われ猫伯爵に溺愛宣言されたが、勘違いする乙女心は既にない。……いえ、取り戻さなくて結構です!~
32 乙女心が顔を出し始めたようです
夜会の会場では以前のように厳しい視線にさらされるのかと思いきや、意外にもそんなことはなかった。
これは正式に夫婦となったからだろう。
ステラ自身は悪評のある平民だとしても、今はウォルフォード伯爵夫人。
グレンの不興を買ってまで、ステラを貶める者はいないようだ。
少し離れたところでこちらを見てヒソヒソと何か言っている人もいるので、表立っては言えないというだけのようだが。
どちらにしても契約が終われば会うこともない人達だから、気にしても仕方がない。
それよりも問題は、グレンだ。
「よそ見をしないで、ちゃんと俺を見て」
「……ダンスに集中しろ、では?」
「同じことだよ」
整った容姿でにこりと微笑むものだから、周囲の女性たちが悩まし気なため息をついている。
それに気付いているのかいないのか、グレンの紅玉の瞳にはステラしか映っていない。
「気のせいか、以前よりも体が近くありませんか?」
「そうか? まあ、夫婦だからな。問題ない」
ダンスに未婚と既婚の違いがあったのか、それは知らなかった。
ということは、やたらと密着しているのも普通なのか。
「そうなのですね。すみませんでした」
「謝らなくていいよ、嘘だから」
「ええ⁉ 何のための嘘ですか」
「ステラと、もっと近づきたいから」
そう言うなり、ぐいっと引き寄せられ、ほとんど抱きしめられている状態になる。
周囲の女性達から悲鳴に似た歓声が上がったが、どちらかと言えばステラの方が悲鳴を上げたいし、何だか胸が苦しい。
しかし、公の場で夫と踊っているのに悲鳴を上げるのはおかしい。
ウォルフォード伯爵夫人という立場の名誉のためにどうにか必死に耐えるステラを見て、グレンは手を緩めて顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 疲れた?」
「原因は誰ですか」
顔が近づいたせいで、周囲の悲鳴が更に強くなっている。
曲がりなりにも妻がいる男性に、よくもまあそこまで歓声をあげられるものだ。
これが貴族というものなのだとしたら、ステラには到底合わない世界である。
「ごめん。楽しくて、調子に乗った。少し休もうか」
グレンに連れられて庭に出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。
今はその冷気が心地良かった。
「疲れたみたいだね」
「すみません。グレン様が近くて。あと、笑顔なもので」
「それで疲れるのか。少し傷つくな」
苦笑するグレンを見て、言い方が悪かったのだと気付いたステラは首を振った。
「いえ、嫌だという意味の疲れたではなくて。その、何と言いますか。近づいていると胸のあたりに疲労が溜まりまして。……病気なのでしょうか」
病気という言葉に、一気にグレンの表情が険しくなる。
呪いの中和のために結婚しているのだから、役目を果たせないようならばさっさと契約解除してグレンを自由にしなければいけない。
本当はあまり言いたくないが、契約相手である以上、嘘はつきたくなかった。
「それは、どんな感じだ? 痛いのか?」
「いえ、痛いわけでは。何と言いますか、動悸が激しくなり、若干の呼吸困難を伴う場合もあり。こう、ぎゅっと苦しい感じの」
そういってステラが胸に手を当てると、グレンの表情が少し変化する。
「どういう時に起こる症状だ? 今は?」
「平気です」
先程踊っている時には苦しかったから、運動時に出る症状だろうか。
「これは?」
そう言うと、グレンはステラの手を握った。
「いえ、何ともないと思います」
「なら、これは?」
次にグレンはステラの手を自身の両手で包み込んだ。
「ええと。少しモヤっとします」
「じゃあ、これは?」
手を引かれたと思うと思う間もなく、そのままグレンの腕の中にすっぽりと収まる。
抱きしめられているのだと気付いた瞬間から、何だか胸の奥がおかしい。
「何となく、胸がムズムズします」
「これは?」
グレンの手がステラの頬を滑るように撫で、間近で紅玉の瞳に見つめられる。
「す、少し、動悸が」
「なるほど。そうか」
頬に触れていた手を下ろして腕を緩めてステラを開放すると、グレンは何かに納得したようにうなずいている。
「うん、わかった。押さえ込まれていたものが、少し顔を出し始めているんだ。病気じゃない。いいことだよ」
「押さえ込まれた……まさか、乙女心ですか?」
グレンが笑顔でうなずくのを見た瞬間、ステラは背筋がすっと寒くなるのを感じた。
――それは、駄目だ。
グレンとステラは契約しているだけ。
呪いの中和に対する礼として、乙女心を取り戻す手伝いをすると言ってくれただけ。
だが、取り戻してどうするのだ。
グレンにときめいて、契約上の親切を勘違いしてしまったらどうする。
契約が終われば、もう顔を合わせることすらないのに。
もしも本当に乙女心を取り戻してしまったら、平民として生きていくのがつらくなるだけではないか。
襲い掛かる恐怖に、ステラは知らず首を振る。
「ステラ、どうした。顔色が悪いぞ」
「――駄目です」
「え?」
「いらない。いらないです」
「ステラ?」
少し震えているステラに気付いたらしいグレンが、手を伸ばして抱きしめてきた。
逃げたいのに、腕の中から逃げられない。
どうにもならなくて、苦しくて、ステラはとっさにグレンの耳に触れた。
ステラを包み込んでいた大きな腕は消え、足元には艶のある黒い毛の猫がちょこんと座っていた。
ほっとしたのもつかの間、すぐに事態の危険性に気付く。
ここは屋敷の中ではないのだから、誰かに見られたら大変だ。
何と愚かなことをしてしまったのだろう。
「すみません、すぐに元に」
慌てて黒猫を抱き上げると、そこに人影が近付いてきた。
「声がすると思ったら、ウォルフォード伯爵夫人ですか。お一人で?」
誰だかよくわからないが、ステラを伯爵夫人と呼び、この場にいるのだからこの男性は貴族なのだろう。
この人がいては、グレンを元に戻すことはできない。
何とか人のいない場所に行かなければ。
「いえ。連れがおりますので、失礼します」
シュテルンを抱えたまま礼をして通り過ぎようとすると、男性に腕をつかまれた。
じっと見られて気分が悪かったが、ここで声をあげれば人が集まってしまう。
とにかく、素早く静かに立ち去らなければいけない。
「へえ。噂の伯爵が見初めた平民というから、どんなものかと思えば。なかなかの美女ではありませんか。せっかくお会いしたのですから、話でもしましょう」
そう言うと、男性はつかんでいた腕を乱暴に引き寄せる。
危うく転びそうになりながらもどうにか踏ん張って耐えると、男性はにやりと笑みを浮かべた。
「結構です。放してください」
「そう言わず。仲良くいたしましょう」
夜会会場の人気のない庭で人妻に対してこんなことを言っている時点で、ろくでもない男性であることは確定だ。
男性は表情こそ笑顔だが、その奥にステラに対する侮蔑の色が見える。
過去にいた男性達のように、ステラのことを愛人かそれに類する人間だと軽んじているのだろう。
嫌悪感から魔力が漏れたのか、男性の髪がゆらりと揺れて少し伸びた。
いけない、この場で髪の毛が大爆発すれば、とても言い逃れはできない。
どうにか魔力を押さえようと集中するが、黙っていたことで抵抗できないとでも思ったのか、男性が口角を上げた。
いっそ、そのにやけた顔をぶん殴ってやりたいが、今のステラはウォルフォード伯爵夫人だ。
何かあれば、グレンと伯爵家に迷惑がかかる。
それに今はシュテルンを抱えているのだから、無理はできない。
唇を噛みしめるステラの手を、男性が再び引っ張る。
今度はさすがに抗えず、腕から黒猫が滑り落ち、ステラは男性の胸に飛び込みそうになる。
このままでは、男性に抱きしめられてしまう。
……嫌だ。
――グレン以外は、嫌だ。
だが、急に腕にかかっていた力が消えたかと思うと、背後から伸びた手に抱き寄せられた。
「この手は、何だ」
鋭い声に顔を上げると、そこには紅玉の瞳の美青年の姿があった。
これは正式に夫婦となったからだろう。
ステラ自身は悪評のある平民だとしても、今はウォルフォード伯爵夫人。
グレンの不興を買ってまで、ステラを貶める者はいないようだ。
少し離れたところでこちらを見てヒソヒソと何か言っている人もいるので、表立っては言えないというだけのようだが。
どちらにしても契約が終われば会うこともない人達だから、気にしても仕方がない。
それよりも問題は、グレンだ。
「よそ見をしないで、ちゃんと俺を見て」
「……ダンスに集中しろ、では?」
「同じことだよ」
整った容姿でにこりと微笑むものだから、周囲の女性たちが悩まし気なため息をついている。
それに気付いているのかいないのか、グレンの紅玉の瞳にはステラしか映っていない。
「気のせいか、以前よりも体が近くありませんか?」
「そうか? まあ、夫婦だからな。問題ない」
ダンスに未婚と既婚の違いがあったのか、それは知らなかった。
ということは、やたらと密着しているのも普通なのか。
「そうなのですね。すみませんでした」
「謝らなくていいよ、嘘だから」
「ええ⁉ 何のための嘘ですか」
「ステラと、もっと近づきたいから」
そう言うなり、ぐいっと引き寄せられ、ほとんど抱きしめられている状態になる。
周囲の女性達から悲鳴に似た歓声が上がったが、どちらかと言えばステラの方が悲鳴を上げたいし、何だか胸が苦しい。
しかし、公の場で夫と踊っているのに悲鳴を上げるのはおかしい。
ウォルフォード伯爵夫人という立場の名誉のためにどうにか必死に耐えるステラを見て、グレンは手を緩めて顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 疲れた?」
「原因は誰ですか」
顔が近づいたせいで、周囲の悲鳴が更に強くなっている。
曲がりなりにも妻がいる男性に、よくもまあそこまで歓声をあげられるものだ。
これが貴族というものなのだとしたら、ステラには到底合わない世界である。
「ごめん。楽しくて、調子に乗った。少し休もうか」
グレンに連れられて庭に出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。
今はその冷気が心地良かった。
「疲れたみたいだね」
「すみません。グレン様が近くて。あと、笑顔なもので」
「それで疲れるのか。少し傷つくな」
苦笑するグレンを見て、言い方が悪かったのだと気付いたステラは首を振った。
「いえ、嫌だという意味の疲れたではなくて。その、何と言いますか。近づいていると胸のあたりに疲労が溜まりまして。……病気なのでしょうか」
病気という言葉に、一気にグレンの表情が険しくなる。
呪いの中和のために結婚しているのだから、役目を果たせないようならばさっさと契約解除してグレンを自由にしなければいけない。
本当はあまり言いたくないが、契約相手である以上、嘘はつきたくなかった。
「それは、どんな感じだ? 痛いのか?」
「いえ、痛いわけでは。何と言いますか、動悸が激しくなり、若干の呼吸困難を伴う場合もあり。こう、ぎゅっと苦しい感じの」
そういってステラが胸に手を当てると、グレンの表情が少し変化する。
「どういう時に起こる症状だ? 今は?」
「平気です」
先程踊っている時には苦しかったから、運動時に出る症状だろうか。
「これは?」
そう言うと、グレンはステラの手を握った。
「いえ、何ともないと思います」
「なら、これは?」
次にグレンはステラの手を自身の両手で包み込んだ。
「ええと。少しモヤっとします」
「じゃあ、これは?」
手を引かれたと思うと思う間もなく、そのままグレンの腕の中にすっぽりと収まる。
抱きしめられているのだと気付いた瞬間から、何だか胸の奥がおかしい。
「何となく、胸がムズムズします」
「これは?」
グレンの手がステラの頬を滑るように撫で、間近で紅玉の瞳に見つめられる。
「す、少し、動悸が」
「なるほど。そうか」
頬に触れていた手を下ろして腕を緩めてステラを開放すると、グレンは何かに納得したようにうなずいている。
「うん、わかった。押さえ込まれていたものが、少し顔を出し始めているんだ。病気じゃない。いいことだよ」
「押さえ込まれた……まさか、乙女心ですか?」
グレンが笑顔でうなずくのを見た瞬間、ステラは背筋がすっと寒くなるのを感じた。
――それは、駄目だ。
グレンとステラは契約しているだけ。
呪いの中和に対する礼として、乙女心を取り戻す手伝いをすると言ってくれただけ。
だが、取り戻してどうするのだ。
グレンにときめいて、契約上の親切を勘違いしてしまったらどうする。
契約が終われば、もう顔を合わせることすらないのに。
もしも本当に乙女心を取り戻してしまったら、平民として生きていくのがつらくなるだけではないか。
襲い掛かる恐怖に、ステラは知らず首を振る。
「ステラ、どうした。顔色が悪いぞ」
「――駄目です」
「え?」
「いらない。いらないです」
「ステラ?」
少し震えているステラに気付いたらしいグレンが、手を伸ばして抱きしめてきた。
逃げたいのに、腕の中から逃げられない。
どうにもならなくて、苦しくて、ステラはとっさにグレンの耳に触れた。
ステラを包み込んでいた大きな腕は消え、足元には艶のある黒い毛の猫がちょこんと座っていた。
ほっとしたのもつかの間、すぐに事態の危険性に気付く。
ここは屋敷の中ではないのだから、誰かに見られたら大変だ。
何と愚かなことをしてしまったのだろう。
「すみません、すぐに元に」
慌てて黒猫を抱き上げると、そこに人影が近付いてきた。
「声がすると思ったら、ウォルフォード伯爵夫人ですか。お一人で?」
誰だかよくわからないが、ステラを伯爵夫人と呼び、この場にいるのだからこの男性は貴族なのだろう。
この人がいては、グレンを元に戻すことはできない。
何とか人のいない場所に行かなければ。
「いえ。連れがおりますので、失礼します」
シュテルンを抱えたまま礼をして通り過ぎようとすると、男性に腕をつかまれた。
じっと見られて気分が悪かったが、ここで声をあげれば人が集まってしまう。
とにかく、素早く静かに立ち去らなければいけない。
「へえ。噂の伯爵が見初めた平民というから、どんなものかと思えば。なかなかの美女ではありませんか。せっかくお会いしたのですから、話でもしましょう」
そう言うと、男性はつかんでいた腕を乱暴に引き寄せる。
危うく転びそうになりながらもどうにか踏ん張って耐えると、男性はにやりと笑みを浮かべた。
「結構です。放してください」
「そう言わず。仲良くいたしましょう」
夜会会場の人気のない庭で人妻に対してこんなことを言っている時点で、ろくでもない男性であることは確定だ。
男性は表情こそ笑顔だが、その奥にステラに対する侮蔑の色が見える。
過去にいた男性達のように、ステラのことを愛人かそれに類する人間だと軽んじているのだろう。
嫌悪感から魔力が漏れたのか、男性の髪がゆらりと揺れて少し伸びた。
いけない、この場で髪の毛が大爆発すれば、とても言い逃れはできない。
どうにか魔力を押さえようと集中するが、黙っていたことで抵抗できないとでも思ったのか、男性が口角を上げた。
いっそ、そのにやけた顔をぶん殴ってやりたいが、今のステラはウォルフォード伯爵夫人だ。
何かあれば、グレンと伯爵家に迷惑がかかる。
それに今はシュテルンを抱えているのだから、無理はできない。
唇を噛みしめるステラの手を、男性が再び引っ張る。
今度はさすがに抗えず、腕から黒猫が滑り落ち、ステラは男性の胸に飛び込みそうになる。
このままでは、男性に抱きしめられてしまう。
……嫌だ。
――グレン以外は、嫌だ。
だが、急に腕にかかっていた力が消えたかと思うと、背後から伸びた手に抱き寄せられた。
「この手は、何だ」
鋭い声に顔を上げると、そこには紅玉の瞳の美青年の姿があった。