【11/25書籍発売予定】契約外溺愛 ~呪われ猫伯爵に溺愛宣言されたが、勘違いする乙女心は既にない。……いえ、取り戻さなくて結構です!~
8 分不相応な婚約の代償
「分不相応な婚約は、身を滅ぼしますよ」
見ず知らずの男性はそう言うと、底意地の悪そうな笑みを浮かべる。
身なりからして、それなりの貴族の使用人といったところか。
ステラは小さく息をつくと、営業スマイルを浮かべた。
「薬のお申し込みは、カウンター左手の用紙に仔細ご記入の上、整理券を取ってお待ちください」
男性は一瞬固まると、咳払いをする。
「あなたには相応しくない話だとは思いませんか」
「体に合わない薬草などがあれば、用紙に記入をお願いいたします」
「おとなしく辞退してはどうです?」
「使用済みの薬の容器を持参していただくと、次回の料金から容器代を割引させていただきます」
「身の程を知った方がよろしいと思いますが」
「症状によって整理券の番号と呼び出し順が前後しますが、ご理解とご協力をお願いいたします」
伊達に六年も治癒院で働いていないので、ステラの営業スマイルは崩れない。
対して男性の表情はどんどんと曇っていく。
「……強がっていられるのも、今のうちですよ」
「お大事にどうぞ」
お手本のような捨て台詞と共に去ってく後ろ姿を見送ると、ステラは小さく息をついた。
なかなかしつこい相手だった。
最初は普通に応対していたのだが、どうにも話が進まない上に、通じない。
イライラしてうっかり『ツンドラの女神』の力が負の方向に働けば、公開ハゲのショータイムが始まりかねない。
ハゲ自体はどうでもいいが、その力がばれるのは困るということで、対応を営業スマイルに切り替えた。
すると男性の方がイライラしだしてああなったのだが……まあ、帰ってくれたので良かった。
男性は分不相応な婚約と言っているのだから、グレンとの婚約のことだろう。
今までの様子からしてグレンは女性達に人気のようだし、相手が評判の悪い平民となれば文句を言いたい気持ちもわからないでもない。
仕立て屋の話では女遊びが激しいということもなさそうだったが、あれも顧客だからやんわりと表現しただけかもしれない。
ステラは一応グレンの妻になるという設定だったので、さすがに夫となる男性が女性と遊んでいますとは言えないだろう。
どちらにしてもグレンが美貌の伯爵だからであって、そのツケをステラが払うというのは何だかしっくりこない。
契約解消でもいいのだが……そうすると閲覧権がなくなってしまう。
王立図書館の閲覧権は努力すれば手に入る類のものではないので、非常にもったいないし諦め難い。
カウンターでうんうん唸っていると、いつの間にか目の前には院長が立っていた。
「ステラ。大丈夫ですか?」
「はい。グレン様との婚約を良く思わない方がいるみたいですね。いっそ御本人に訴えればいいと思うのですが」
何故かああいった輩は、男性ではなくて平民のステラの方に文句を言いに来る。
男性に言えない理由があるのかはわからないが、ステラに言われてもどうしようもないことが大半なので、どうにかしてほしいものだ。
「ウォルフォード伯爵にお伝えした方がいいでしょうね」
「グレン様も、言われたところで困るだけだと思いますが」
どこの誰の差し金かもわからないし、対応しようもないだろう。
「伯爵がご存知だというだけで、相手も怯むでしょう。言って損はありません」
ステラを心配してくれるのはありがたいが、面倒な人間だと思われて契約解消されるのも困る。
婚約も結婚もどうでもいいが、閲覧権は欲しいのだ。
「――ああ、ちょうどいいところに。ウォルフォード伯爵」
院長の声に入口を見てみれば、グレンが入って来るところだった。
「どこぞの貴族の使用人が訪ねてきて、ステラに文句というか……脅しのようなことを言ったらしいな」
個室に入るなりそう言うと、グレンは紅玉の瞳をステラに向ける。
「はい。グレン様の恋人か、慕っている方のようですね。分不相応な婚約は身を滅ぼすと言われました」
ありのままを伝えると、グレンの眉間に皺が寄っていく。
「随分と勝手な発言だな。大体、俺に恋人はいない」
「そうなのですね。では、片思いの女性でしょうか。容姿が整っているというのも大変ですね」
「大変なのはステラの方だろう。大丈夫だったのか?」
脅しのようなことを言われはしたが、正直あの程度ならばよく言われているので慣れがある。
『ツンドラの女神』としての仕事は、愛人疑惑と切っても切り離せない。
先日のように顧客の妻が文句を言いに来るのも珍しくはなかった。
うなずくステラを見て安心した様子のグレンは、小さく息をつく。
「まあ、その件は気に留めておくとして。……先日の夜会のドレスや装飾品をすべて屋敷に置いて行ったのは何故だ?」
「何故と言われましても。平民の家に置くには物騒ですし、邪魔です」
シンプルな作りとはいえ、ドレスはドレスだ。
ステラが着るワンピースの何倍も生地を使っているし、置いておくにも場所を取る。
それにあんなに上質なものを放置しておくのは、防犯上よろしくない。
「自由にしていいと伝えさせたはずだ。何なら、売ってくれても構わない」
グレンは厚意で言ってくれているのかもしれないが、やはり貴族は貴族。
平民やステラの事情は想像できないのだろう。
「普通の服ならともかく、一流のドレスを私が売りに行けば盗んだと思われかねません」
ステラの悪評を信じている人も多いし、無駄な諍いを起こす気にはなれない。
「盗んだ? ステラが?」
心底驚いた様子からすると、グレンはステラのことをそういう目では見ていないらしい。
疑われた状態で一年間の中和作業はさすがに気まずいので、ありがたい限りだ。
「実際に私が何をしたかなんて、どうでもいいのです。世間は悪い噂の方を好みます。……それで、グレン様の御用は終わりですか?」
「ああ。ドレスのことを確認したくて。……気に入らなかったのかと」
思いもかけない言葉に、ステラはきょとんとして目を瞬かせた。
「気に入るも何も。私にはもったいない、素晴らしいドレスでしたよ?」
ドレスに詳しくないステラでも、あの滑らかで美しい生地には感心したくらいだ。
気に入らないなんてことがあるはずもない。
すると、グレンの紅玉の瞳が細められる。
「そうか。それならいいんだ。……それで、今日の仕事は? 何なら、また図書館に付き合おうか?」
「いいえ。今日はもう少し仕事が残っていますし、そう何度もグレン様の手を煩わせるわけにはいきません」
確かにグレンが一緒なら調べ物は格段に効率がいいが、仕事をおろそかにするわけにはいかない。
ただでさえ先日の貴婦人襲来に、今日も使用人が悪態をついたせいで遅れが生じているのだ。
「……そうか。じゃあ、今度また出かけよう」
「お気遣いありがとうございます」
グレンを見送ると、ステラは遅れを取り戻すべく仕事に励んだ。
薬草を仕分けし、必要な薬を調合し、受付業務も行う。
ひと段落して帰宅したステラが扉を開けると、そこに見慣れた光景はなかった。
散乱するノート、破られた窓とボロボロのカーテン、床にこぼれた大量の水。
嵐が通り過ぎたかのような様子に、ステラは目を瞠り、動くことができなかった。
見ず知らずの男性はそう言うと、底意地の悪そうな笑みを浮かべる。
身なりからして、それなりの貴族の使用人といったところか。
ステラは小さく息をつくと、営業スマイルを浮かべた。
「薬のお申し込みは、カウンター左手の用紙に仔細ご記入の上、整理券を取ってお待ちください」
男性は一瞬固まると、咳払いをする。
「あなたには相応しくない話だとは思いませんか」
「体に合わない薬草などがあれば、用紙に記入をお願いいたします」
「おとなしく辞退してはどうです?」
「使用済みの薬の容器を持参していただくと、次回の料金から容器代を割引させていただきます」
「身の程を知った方がよろしいと思いますが」
「症状によって整理券の番号と呼び出し順が前後しますが、ご理解とご協力をお願いいたします」
伊達に六年も治癒院で働いていないので、ステラの営業スマイルは崩れない。
対して男性の表情はどんどんと曇っていく。
「……強がっていられるのも、今のうちですよ」
「お大事にどうぞ」
お手本のような捨て台詞と共に去ってく後ろ姿を見送ると、ステラは小さく息をついた。
なかなかしつこい相手だった。
最初は普通に応対していたのだが、どうにも話が進まない上に、通じない。
イライラしてうっかり『ツンドラの女神』の力が負の方向に働けば、公開ハゲのショータイムが始まりかねない。
ハゲ自体はどうでもいいが、その力がばれるのは困るということで、対応を営業スマイルに切り替えた。
すると男性の方がイライラしだしてああなったのだが……まあ、帰ってくれたので良かった。
男性は分不相応な婚約と言っているのだから、グレンとの婚約のことだろう。
今までの様子からしてグレンは女性達に人気のようだし、相手が評判の悪い平民となれば文句を言いたい気持ちもわからないでもない。
仕立て屋の話では女遊びが激しいということもなさそうだったが、あれも顧客だからやんわりと表現しただけかもしれない。
ステラは一応グレンの妻になるという設定だったので、さすがに夫となる男性が女性と遊んでいますとは言えないだろう。
どちらにしてもグレンが美貌の伯爵だからであって、そのツケをステラが払うというのは何だかしっくりこない。
契約解消でもいいのだが……そうすると閲覧権がなくなってしまう。
王立図書館の閲覧権は努力すれば手に入る類のものではないので、非常にもったいないし諦め難い。
カウンターでうんうん唸っていると、いつの間にか目の前には院長が立っていた。
「ステラ。大丈夫ですか?」
「はい。グレン様との婚約を良く思わない方がいるみたいですね。いっそ御本人に訴えればいいと思うのですが」
何故かああいった輩は、男性ではなくて平民のステラの方に文句を言いに来る。
男性に言えない理由があるのかはわからないが、ステラに言われてもどうしようもないことが大半なので、どうにかしてほしいものだ。
「ウォルフォード伯爵にお伝えした方がいいでしょうね」
「グレン様も、言われたところで困るだけだと思いますが」
どこの誰の差し金かもわからないし、対応しようもないだろう。
「伯爵がご存知だというだけで、相手も怯むでしょう。言って損はありません」
ステラを心配してくれるのはありがたいが、面倒な人間だと思われて契約解消されるのも困る。
婚約も結婚もどうでもいいが、閲覧権は欲しいのだ。
「――ああ、ちょうどいいところに。ウォルフォード伯爵」
院長の声に入口を見てみれば、グレンが入って来るところだった。
「どこぞの貴族の使用人が訪ねてきて、ステラに文句というか……脅しのようなことを言ったらしいな」
個室に入るなりそう言うと、グレンは紅玉の瞳をステラに向ける。
「はい。グレン様の恋人か、慕っている方のようですね。分不相応な婚約は身を滅ぼすと言われました」
ありのままを伝えると、グレンの眉間に皺が寄っていく。
「随分と勝手な発言だな。大体、俺に恋人はいない」
「そうなのですね。では、片思いの女性でしょうか。容姿が整っているというのも大変ですね」
「大変なのはステラの方だろう。大丈夫だったのか?」
脅しのようなことを言われはしたが、正直あの程度ならばよく言われているので慣れがある。
『ツンドラの女神』としての仕事は、愛人疑惑と切っても切り離せない。
先日のように顧客の妻が文句を言いに来るのも珍しくはなかった。
うなずくステラを見て安心した様子のグレンは、小さく息をつく。
「まあ、その件は気に留めておくとして。……先日の夜会のドレスや装飾品をすべて屋敷に置いて行ったのは何故だ?」
「何故と言われましても。平民の家に置くには物騒ですし、邪魔です」
シンプルな作りとはいえ、ドレスはドレスだ。
ステラが着るワンピースの何倍も生地を使っているし、置いておくにも場所を取る。
それにあんなに上質なものを放置しておくのは、防犯上よろしくない。
「自由にしていいと伝えさせたはずだ。何なら、売ってくれても構わない」
グレンは厚意で言ってくれているのかもしれないが、やはり貴族は貴族。
平民やステラの事情は想像できないのだろう。
「普通の服ならともかく、一流のドレスを私が売りに行けば盗んだと思われかねません」
ステラの悪評を信じている人も多いし、無駄な諍いを起こす気にはなれない。
「盗んだ? ステラが?」
心底驚いた様子からすると、グレンはステラのことをそういう目では見ていないらしい。
疑われた状態で一年間の中和作業はさすがに気まずいので、ありがたい限りだ。
「実際に私が何をしたかなんて、どうでもいいのです。世間は悪い噂の方を好みます。……それで、グレン様の御用は終わりですか?」
「ああ。ドレスのことを確認したくて。……気に入らなかったのかと」
思いもかけない言葉に、ステラはきょとんとして目を瞬かせた。
「気に入るも何も。私にはもったいない、素晴らしいドレスでしたよ?」
ドレスに詳しくないステラでも、あの滑らかで美しい生地には感心したくらいだ。
気に入らないなんてことがあるはずもない。
すると、グレンの紅玉の瞳が細められる。
「そうか。それならいいんだ。……それで、今日の仕事は? 何なら、また図書館に付き合おうか?」
「いいえ。今日はもう少し仕事が残っていますし、そう何度もグレン様の手を煩わせるわけにはいきません」
確かにグレンが一緒なら調べ物は格段に効率がいいが、仕事をおろそかにするわけにはいかない。
ただでさえ先日の貴婦人襲来に、今日も使用人が悪態をついたせいで遅れが生じているのだ。
「……そうか。じゃあ、今度また出かけよう」
「お気遣いありがとうございます」
グレンを見送ると、ステラは遅れを取り戻すべく仕事に励んだ。
薬草を仕分けし、必要な薬を調合し、受付業務も行う。
ひと段落して帰宅したステラが扉を開けると、そこに見慣れた光景はなかった。
散乱するノート、破られた窓とボロボロのカーテン、床にこぼれた大量の水。
嵐が通り過ぎたかのような様子に、ステラは目を瞠り、動くことができなかった。