【11/25書籍発売予定】契約外溺愛 ~呪われ猫伯爵に溺愛宣言されたが、勘違いする乙女心は既にない。……いえ、取り戻さなくて結構です!~
9 六年が霧散しました
「部屋が荒らされた⁉ それで、怪我はありませんか?」
治癒院に戻って事情を伝えると、院長は慌てた様子でステラの手を取った。
結婚して即日未亡人になって勘当されたステラを救ってくれたのは、師匠とこの院長だ。
師匠は旅に出ることも多いので、実質母親代わりのようにステラを見守ってくれている。
その大切な人に心配をかけているのが、心苦しかった。
「大丈夫です。帰宅したら部屋の中がめちゃくちゃで……明日には出て行ってもらうと言われました。少しの間、治癒院に寝泊まりしてもいいでしょうか」
ステラの世間に知られる評判は悪い。
普通に関わっている人は噂を信じないでいてくれるが、部屋を借りるとなると悪評は大きな足枷だった。
今住んでいる部屋も、一生懸命探してようやく見つけたというのに。
「それはもちろん、かまいませんが」
「ありがとうございます。時々こういうことがあるからと、院長にお金を預かってもらっていて良かったです。……まあ、泥棒という感じではありませんでしたが」
最後の一言に、院長の表情が曇る。
「まさか、先日の?」
「わかりません。……私、そろそろ国外に出た方がいいのかもしれませんね」
薬師見習いの時点では到底食べていける給料ではなかったので、『ツンドラの女神』としての報酬が必須だった。
できれば老後に備えて蓄えたいところだが、このままでは治癒院にも大きな迷惑をかけてしまうだろう。
そうなる前に、誰もステラのことを知らない土地で一からやり直すのもいいかもしれない。
「それでも、顧客の整理があります。突然音信不通にするわけにはいきませんし、グレン様との契約を解消するなら説明して謝罪しなければいけないでしょう。……しばらくの間、寝泊まりすることをお許しください」
頭を下げるステラの肩に、そっと手が乗せられる。
「それなら、うちに来なさい。ステラは何も悪くありません。治癒院に必要な、優秀な薬師です」
じっと見つめられ、危うく涙腺が緩みそうになるが、泣くわけにはいかない。
院長の家には小さい子供も夫もいるし、万が一ステラへの嫌がらせが院長やその家族にまで向かっては一大事だ。
「ありがとうございます。少し、部屋を探してみます。とにかく、部屋を片付けなければいけないので、一度戻りますね」
ステラはそのまま急いで部屋に戻ると、荒れに荒れた部屋の片付けを始めた。
割れた窓ガラスを拾ってまとめながら、あらためて室内を確認する。
盗まれたものはないし、これはただの嫌がらせなのだろう。
あるいは、忠告……警告か。
『分不相応な婚約は、身を滅ぼしますよ』
今朝の男性の言葉が、脳裏に響く。
グレンとの婚約に対する嫉妬かもしれないし、ステラの悪評に由来するものかもしれない。
何にしても、随分と恨まれたものである。
ガラスを片付け終えると、床に散乱しているのはノートの切れ端だ。
金目のものがなかったから沢山あるノートに目をつけたのか。
あるいはステラを多少観察すれば、王立図書館で調べ物をしているのはわかっただろうから、それで狙ったのか。
一ページ残らず破かれたノートの切れ端には、ご丁寧に水がぶちまけられていた。
――六年、だ。
公爵の力を借り、嫌味を言われ、ノートを奪われつつ、どうにか調べて書きとめたノート、六年分。
それが、ただのゴミになってしまった。
悔しさから視界がぼやけるが、泣いてもどうしようもない。
それに、犯人はステラが悲しむなり怒るなりするのを望んでいるのだろう。
ならばその思惑通りにしてやる義理はないし、今は片付けをしなければいけない。
涙を拭うのと同時に扉のノック音が聞こえ、大家である男性が顔を出した。
「早く片付けてくれるかな。今日中に出て行ってもらいたいんだ」
「でも、さっきは明日までと」
「そんなことは知らないな。それよりも、修理代を払ってもらおうか。窓ガラスに、カーテンに、床。ベッドも使えそうにないな」
確かにそうだが、これはステラが汚したわけでも壊したわけでもないのに。
理不尽だとは思うが、ステラのせいでこの部屋が狙われたと言われれば、否定はできなかった。
「見ての通りです。今ここにお金はありませんので、明日にでも」
「いや、駄目だ」
「わかりました。用意してきます」
問答を続けても無駄だろうと部屋を出ようとすると、すれ違いざまに腕を掴まれる。
「逃げる気か。……それよりも、今支払えるものがあるだろう?」
何を言われたのかわからず男性を見上げると、下卑た笑いをステラに向けた。
――これは、良くない。
何度もこういう目で見られたことはあるが、大抵良くない前触れだ。
距離を取ろうとするが、男性は腕を放してくれず、舐めるようにステラを見た。
「貴族の愛人をしているんだって? 確かに、見た目も悪くないな」
その言葉に怒りが湧くと同時に、男性の特に豊かでもなかった髪がパラパラと抜けていく。
――これも、良くない。
ステラの感情に反応して、魔力が作用している。
気持ちだけで言えば、こんな男性は存分にハゲ散らかせばいいと思う。
だが、ここで突然ツルッとハゲれば、ステラも無関係を装うのは難しい。
巡り巡って『ツンドラの女神』の存在と能力が知れ渡れば、顧客にも迷惑をかけるし、信用も地に落ちる。
ステラがどうにか必死に男性の髪の復活を願うと、地肌が見えていた部分にフサフサと毛が現れた。
本来、こうやって急に生やすのは負担が大きいので良くないが、男性の今後の毛髪事情など知ったことではない。
「そんなことはしていません。放してください」
とにかくこの状況では再び男性の毛が消えゆくのも時間の問題なので、離れなければ。
力を入れて手を振りほどこうとするが、反対に腕を引っ張られて男性に引き寄せられた。
「――その手を放せ」
鋭い声に顔を向けると、そこには黒髪の美青年――グレンが立っていた。
治癒院に戻って事情を伝えると、院長は慌てた様子でステラの手を取った。
結婚して即日未亡人になって勘当されたステラを救ってくれたのは、師匠とこの院長だ。
師匠は旅に出ることも多いので、実質母親代わりのようにステラを見守ってくれている。
その大切な人に心配をかけているのが、心苦しかった。
「大丈夫です。帰宅したら部屋の中がめちゃくちゃで……明日には出て行ってもらうと言われました。少しの間、治癒院に寝泊まりしてもいいでしょうか」
ステラの世間に知られる評判は悪い。
普通に関わっている人は噂を信じないでいてくれるが、部屋を借りるとなると悪評は大きな足枷だった。
今住んでいる部屋も、一生懸命探してようやく見つけたというのに。
「それはもちろん、かまいませんが」
「ありがとうございます。時々こういうことがあるからと、院長にお金を預かってもらっていて良かったです。……まあ、泥棒という感じではありませんでしたが」
最後の一言に、院長の表情が曇る。
「まさか、先日の?」
「わかりません。……私、そろそろ国外に出た方がいいのかもしれませんね」
薬師見習いの時点では到底食べていける給料ではなかったので、『ツンドラの女神』としての報酬が必須だった。
できれば老後に備えて蓄えたいところだが、このままでは治癒院にも大きな迷惑をかけてしまうだろう。
そうなる前に、誰もステラのことを知らない土地で一からやり直すのもいいかもしれない。
「それでも、顧客の整理があります。突然音信不通にするわけにはいきませんし、グレン様との契約を解消するなら説明して謝罪しなければいけないでしょう。……しばらくの間、寝泊まりすることをお許しください」
頭を下げるステラの肩に、そっと手が乗せられる。
「それなら、うちに来なさい。ステラは何も悪くありません。治癒院に必要な、優秀な薬師です」
じっと見つめられ、危うく涙腺が緩みそうになるが、泣くわけにはいかない。
院長の家には小さい子供も夫もいるし、万が一ステラへの嫌がらせが院長やその家族にまで向かっては一大事だ。
「ありがとうございます。少し、部屋を探してみます。とにかく、部屋を片付けなければいけないので、一度戻りますね」
ステラはそのまま急いで部屋に戻ると、荒れに荒れた部屋の片付けを始めた。
割れた窓ガラスを拾ってまとめながら、あらためて室内を確認する。
盗まれたものはないし、これはただの嫌がらせなのだろう。
あるいは、忠告……警告か。
『分不相応な婚約は、身を滅ぼしますよ』
今朝の男性の言葉が、脳裏に響く。
グレンとの婚約に対する嫉妬かもしれないし、ステラの悪評に由来するものかもしれない。
何にしても、随分と恨まれたものである。
ガラスを片付け終えると、床に散乱しているのはノートの切れ端だ。
金目のものがなかったから沢山あるノートに目をつけたのか。
あるいはステラを多少観察すれば、王立図書館で調べ物をしているのはわかっただろうから、それで狙ったのか。
一ページ残らず破かれたノートの切れ端には、ご丁寧に水がぶちまけられていた。
――六年、だ。
公爵の力を借り、嫌味を言われ、ノートを奪われつつ、どうにか調べて書きとめたノート、六年分。
それが、ただのゴミになってしまった。
悔しさから視界がぼやけるが、泣いてもどうしようもない。
それに、犯人はステラが悲しむなり怒るなりするのを望んでいるのだろう。
ならばその思惑通りにしてやる義理はないし、今は片付けをしなければいけない。
涙を拭うのと同時に扉のノック音が聞こえ、大家である男性が顔を出した。
「早く片付けてくれるかな。今日中に出て行ってもらいたいんだ」
「でも、さっきは明日までと」
「そんなことは知らないな。それよりも、修理代を払ってもらおうか。窓ガラスに、カーテンに、床。ベッドも使えそうにないな」
確かにそうだが、これはステラが汚したわけでも壊したわけでもないのに。
理不尽だとは思うが、ステラのせいでこの部屋が狙われたと言われれば、否定はできなかった。
「見ての通りです。今ここにお金はありませんので、明日にでも」
「いや、駄目だ」
「わかりました。用意してきます」
問答を続けても無駄だろうと部屋を出ようとすると、すれ違いざまに腕を掴まれる。
「逃げる気か。……それよりも、今支払えるものがあるだろう?」
何を言われたのかわからず男性を見上げると、下卑た笑いをステラに向けた。
――これは、良くない。
何度もこういう目で見られたことはあるが、大抵良くない前触れだ。
距離を取ろうとするが、男性は腕を放してくれず、舐めるようにステラを見た。
「貴族の愛人をしているんだって? 確かに、見た目も悪くないな」
その言葉に怒りが湧くと同時に、男性の特に豊かでもなかった髪がパラパラと抜けていく。
――これも、良くない。
ステラの感情に反応して、魔力が作用している。
気持ちだけで言えば、こんな男性は存分にハゲ散らかせばいいと思う。
だが、ここで突然ツルッとハゲれば、ステラも無関係を装うのは難しい。
巡り巡って『ツンドラの女神』の存在と能力が知れ渡れば、顧客にも迷惑をかけるし、信用も地に落ちる。
ステラがどうにか必死に男性の髪の復活を願うと、地肌が見えていた部分にフサフサと毛が現れた。
本来、こうやって急に生やすのは負担が大きいので良くないが、男性の今後の毛髪事情など知ったことではない。
「そんなことはしていません。放してください」
とにかくこの状況では再び男性の毛が消えゆくのも時間の問題なので、離れなければ。
力を入れて手を振りほどこうとするが、反対に腕を引っ張られて男性に引き寄せられた。
「――その手を放せ」
鋭い声に顔を向けると、そこには黒髪の美青年――グレンが立っていた。