リモート
「えっと……とりあえず私物の確認していい?」

彼の声がぎこちなく聞こえる。
それと同じくらい強ばった表情の自分が微かに画面に反射して、彼の顔に重なって見える。

「歯ブラシは」
「いらない」
「パジャマはどう」
「捨てちゃっていいよ」
「メガネはどうしようか」
「うーん、捨てて」

メガネも捨てていいんだ、と彼はふっと柔らかく笑った。

旅行先で買った猫の置物、
おそろいで買ったお守り、
部屋で一緒に使っていた茶碗……。

「直接見ると惜しくなるけど、画面越しなら全部捨てられる気がする」

彼は少し寂しそうに「全部いらないのな」と言った。


ううん、全部、必要だったよ。


そう言いかけて私は涙がこぼれないように微笑んだ。


一つ一つ私の物を画面越しに私に見せていく彼を見ていると、ふと思い出す。

一年記念日に指輪を買ってくれると言ってくれたこと。
彼が見せてきたデザインが全部好みではなくて、渋い顔をして彼を困らせたこと。

あの頃は若かったな。

憎まれ口を叩いても、彼に愛されている自信があった。
だんだん困っている彼が可愛く見えてきて、結局最初に出してきたデザインに決めた。
好みではないハートのモチーフがついた指輪は、不思議と似合っていて周りにもよく褒められた。

そんな指輪も今日、外すことになる。


「何急に笑ってるの?何かあった?」

今も彼は変わらないように見える。
画面が隔たっているだけで、あの頃から仲が悪くなった訳じゃない。
他の誰かが私たちを邪魔している訳でもない。

でも、確実に変わっているのだろう。
いつか私のことも忘れて、誰かと一緒に指輪を選ぶのか。
その人は文句も言わずに彼からもらった指輪が好みではなくても大事そうに見つめるに違いない。
起こってもいない未来につい嫉妬した。


彼の大きい骨張った手が、私との思い出を優しくつかんで、妙に大事そうにごみ袋に入れていく。

「ねぇ」
「ん」

ふいにこちらに向けられた目が優しくて、胸が苦しい。

「やっぱり、その今右手に握ってるぬいぐるみ送ってよ」

彼の右手に握られている目付きの悪いキリンのぬいぐるみを指差した。

「え、これ?」
「うん、それ気に入ってたから」

嘘だ、存在すら忘れていた。

「どこで買ったんだっけ?」
「覚えてないけど、いいの」

そう、覚えていないくらいたくさんある思い出の中のどこかで手にいれた。

「本当に?」

「うん。あ、でも着払いでいいから。いや、むしろまた帰省した時とかに……」

ここまで持ってきてくれたら。

「送料くらい出すよ」

彼は少し苦しそうに笑った。

そうだ、帰省してももう会うことはない。
私は言葉が出なかった。

本当は分かっていた。
私はちゃんと整理できていないって。
本当はそれが欲しい訳ではない。
自分がいたたまれない気持ちになって、カメラをオフにした。

「あのさ、」

今度は彼がそう切り出して、私は静かに視線を上げた。
私の姿は見えないはずなのに、彼は画面越しに私をまっすぐに見つめていた。

「俺たち、気づいたらずっと会ってなかったし内容のない会話ばかりしてたよね」

私は返す言葉が見当たらなくて黙っていた。
その声は優しかった。

「君が、俺の言うことに全部同調してくれるようになってたこともわがまま言わなくなっていたことも、本当は気付いてた。
ありがたかったけど、合わせてくれるようになったことが怖かった。自分のせいだって言われているみたいで」

「自分勝手……」

「分かってる。でも、今でも君が嫌になった訳じゃない」

『嫌いになった訳じゃない』は、『今でも好き』とは違う。

「あなたが好きだから寂しいのも我慢してたのに」

本当は寂しかった。
でも、寂しいって言って困らせることが怖かった。

「でも、俺はちょっとわがままでも自分の意見をはっきり言える君がよかったんだ」

彼が目の前にいたら縋り付いて泣いて取り乱してしまうことは分かっていた。

長らく自分に嘘をついていたことを知る。
本当は、彼に会いたくて、大好きで、でも自分の愛が重すぎて、彼が遠退いてしまう。
だから、自分の心を殺した。
我慢することで、彼といられるならそれはもはや我慢ではなくて努力だと思っていた。

でも、それじゃダメなのだと。
彼が好きになってくれた『私』じゃないのだと。
それも本当は、ずっと、分かっていた。

「俺は、君が君らしくいられる存在にはなれなかった」

「それでもよかった」

「良くないよ」

彼が画面の下の方をコツコツと叩いた。
私は促されるようにカメラをオンにする。
きっと泣き腫らしたひどい顔をした私が映されているだろう。

「大切にできなくてごめん」

涙が溢れて言葉にならない。
やっぱり私はこの人が好きなのだ。

残り時間が5分を切っていることを、画面上部にある時計が教えていた。
私たちにはもう5分しか残されていなかった。
また繋げて話す、とは考えられなかった。

「やっぱり、別れたくない」

「ありがとう、でも別れよう」

すがりたいのにすがれないことが苦しかった。

「……私のこと好きだった?」

彼が息を吸う音がして、ふっと吐き出した。

「まぁ……」

こんな時ですら『好きだった』と言葉にしない彼が憎い。
最後くらい言ってほしかった。
でもそんな彼が好きだった。
言葉にしなくても、たくさん愛してくれたことは分かっていた。

「そうだね、」

少し彼の声が小さくなって、私は画面に耳を寄せた。

「君が思うより、」

勢いよく画面に目を向けると、ちょうど時間切れになって真っ暗になった。

本当に好きだった。

私は画面に抱き付いて泣くことしかできなかった。
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