どこまでも
 笑みで男性を見送った禄朗がふいに視線を流した。火花が散るように視線がぶつかり合う。

 彼の動きが一瞬止まり、声を発さないまま口は「優希」と形作られた。

「……あ」
 
 ふらりと足元から崩れ落ちていく。心臓がおかしいくらい鳴っている。

「きゃあ」

 突然倒れた優希に、明日美が悲鳴を上げた。
 
「大丈夫かよ」

 慌てて駆け寄り、体を支えてくれる力強さを知っている。これが欲しくて、どうしようもなくて、でも手放してしまったもの。その熱が今、優希に触れている。

 どうしよう。今すぐにでも縋りついてしまいたい。

「パパだいじょうぶ?」

 我に返してくれたのは、愛娘の声だった。まだ小さなモミジの手が、優希の背中を撫でている。

「花……」
「パパぐあいわるいの?びょういんいく?」
「大丈夫だよ」

 傍らの花を抱きしめて立ち上がった。ぐっと責任の重さが体にかかる。

「すみません。ありがとうございました」

 目の前にいる、愛してやまない男に向き合い頭を下げた。互いに他人のふりをするこの距離が、今の二人を示している。

「ちょっとめまいがして」
「いや、大丈夫ならいいんだけど、さ」

 抱っこされた花と心配そうに寄り添う明日美に視線を送り、禄朗は笑みを浮かべた。

「幸せそうなご家族ですね」
「……ありがとうございます」

 声をかけられた明日美は一瞬つまり、でもにこやかに答えた。

「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、大事がなければ結構です」

 今までも散々人を虜にしてきた魅力的な笑みを浮かべられると、明日美はぽっとしたように頬を赤らめ頭を下げた。

「お礼は、また」
「それには及びませんよ。お大事に」

 禄朗は艶やかに笑うと、優希へ視線を向けた。その視線が物語る意味を深く考えちゃだめだ。一瞬でも気を許したら消せない欲望に負けてしまう。

「それじゃ……」

 もう一度頭を下げ、禄朗のそばを通り過ぎた。瞬間懐かしい香りが鼻に届く。優希の愛した彼の匂いだ。

 戻れない過去。捨ててしまった未来。優希が選んだのは今、隣にいる家族の形で、禄朗とは道が過ぎてしまった。

 もう一度並んで歩きだすと、我に返ったように明日美は声をかけてきた。

「ひゃー、びっくりした!ゆうちゃん、大丈夫?」
「パパもうくるしくない?」

 かわるがわるの心配に「大丈夫だよ、心配かけてごめん」と謝りながら振り返らないと心に決めていた。

 決めたのに__こんなにも心が痛い。
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