どこまでも
 どのくらい歩き続けていたのか。いつの間にか夕暮れの空は濃紺に染まり、ビルの間の細い隙間に小さな星が瞬いていた。

 いつまでもこうやっているわけにはいかない。手持ちのショッピングバッグがずしりと重みを増した。

「ただいま」
 
 玄関を開けると花の楽しげな笑い声が聞こえてきた。おいしそうな夕食のにおい、明るいリビングの明かり。幸福な風景がそこにあるというのに、心は暗く沈んだまま。


 完全に禄朗がいない人生をどう歩んでいけばいいのかわからなかった。途方に暮れ、迷子になった気分だ。

「あ、ゆうちゃんおかえり!」

 リビングのドアをあけると、エプロンをつけた明日美が優希に微笑みかけてくる。

「パパー、おかえりなさい」

 花が満面の笑みで飛びついてくる。抱きとめて「ただいま」と答えるいつもの景色が色を失っていることに気づいた。まるで自分だけ切り取られてしまった、別世界のような足元のおぼつかなさ。

 それを気どられるわけにはいかないと、優希はわざとらしいくらい声のトーンと上げた。

「お待たせ、花のワンピースだよ」
「わあ!花の!」

 ピョンと勢いよく飛び降りて、可愛くラッピングされたワンピースを取り出した。

 桃色の清楚(せいそ)なタイプのワンピース。ウエストにはベルトがマークされ大人っぽさを醸し出している。赤ちゃんだったのはつい最近だったのに、いつのまにか女の子になってしまった。

「着てみたら?」
「うん!」

 一丁前の女の人のように恥じらいを持ち始めた花は優希の前から姿を消し、隠れて着替えをし現れた。もうパパに裸を見せるのは嫌だと怒られたのは、つい最近のことだ。

「どう?かわいい?」
「かわいいよ、花。お嬢様みたい」

 さっきまで足を踏み入れていた画廊での淫靡(いんび)さとは全く違うベクトルに存在する優希の選んだ世界。桃色で明るくて華やかで清潔で__だけどさみしい。

「ありがとう、パパ。これで花は小学生になれるのね」

 もう少ししたらランドセルを背負って学校に通い始める花。きっとあっという間に優希の手を離れて行ってしまうのだろう。そのうち誰かを好きになって、その人と歩む道をみつけていく。

 花がいなくなったその時、優希には何が残っているのだろうか。禄朗がいなくなった今、ぽっかりと開いてしまった穴を埋めるものは何もないような気がした。
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