どこまでも
 しばらく茫然と携帯を握り締めていたが、ふと我に返り急いで明日美にメールを送った。約束を反故することに申し訳ないと思う間もなかった。

『ごめん。仕事で急用が入って今日行けなくなりました』

 すぐさま返ってきた返事にも上の空にならないように答える。

『どうしても抜けられなくて。申し訳ありませんがレストランへは、お母さんと行ってきてください』

 近くに住む明日美の母親とは懇意にしているのだから、たまには2人で美味しいものを食べてきてもらえればいい。

 ほんの少し間があって『仕方ないね。母と行きます』と返事が来た。ほ、と胸を撫でおろす。







 さっきの受話器越しの禄朗の声がいつまでも耳の奥に残っていた。

「優希」と名前を呼ぶときにほんの少し甘くなるのは昔と変わらない。

 その甘い声で呼ばれるだけで、消したはずの体の奥のおきびに火がともる。じんと心が熱くなる。





 禄朗、と小さく呟いてみる。

 それは優希の心を動かすには十分な響きを持っていた。
< 5 / 107 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop