硝子の琴
 男は初めて笑った。愉快そうに声を立てて。
 その笑い声が、空に消える直前に(きし)んで割れる。

 (よど)んだ一滴の墨を垂らしたように、決定的な歪みが後に残され。
 男は囁く。地深く、ひたすら落ちていくような声音で。

「……ならば永遠にここにいるがよい。時の止まったこの場所で、音の鳴らぬその竪琴を抱いて、魂が朽ち果てるまで」

 娘の腕の中、透明な色を持つ竪琴が光を弾く。

 娘は無言で、立ち上がる男を見ていた。すうと逞しい背を伸ばせば先ほどまでの弱々しさはどこにも見えぬ。全てを射抜く怜悧(れいり)な魂を、若々しい体躯に漲らせて。

 この世に特別な存在というものがあったなら、それはおそらくこの男を指すのであろう――

 男は王者となるべく生まれた者。
 だがあまりにも力に満ち溢れていたがために、王者になることすら放棄した者。

 この世の全てが男の思うがまま。思い通りにならぬことはない。思い通りにならぬものはない。

 たったひとつのことを除いて。

 動きひとつで存在を生み出し、また存在を消し去るその指が、娘の視線の先でぴくりと動く。
 何かをこらえるようにそのまま、拳の形を取り。

 男は娘に背を向けた。

「また来る」
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