硝子の琴
 数度の足音ののち、その姿がかき消える。

 ――本当は一瞬で望む場所へと行ける男が、それでも足音を響かせるのは、言葉に出来ぬ心がそこにはあるからなのかもしれぬ。

 娘は男の消えた空間を見つめ、やがて目を伏せた。麗しい睫が震える。けれど涙を流すことはない。

 愛しいあなたさま。誰も聞くことのない、甘やかな囁きが、静かな世界に落ち出でた。

「我らの命さえ意のままに操るあなたさま。この世の全てがあなたさまのもの。ゆえに永遠に孤独なあなた。……わたくしはあなたさまの隣には参りませぬ。それがわたくしの、わたくしたちの魂の祖の望んだこと。わたくしたちが唯一あなたさまにしてさしあげられること……」

 細くしなやかな指が、膝の上にある竪琴の弦に添う。

 たったひとつあの男が娘に与えた、この透き通るような楽器。音を奏でることのない、硝子の竪琴。

 膝から落ちただけでたやすく砕けるその脆く儚い物体で、男は娘の心を試す。かつて豊穣の大地に生まれし頃、竪琴を爪弾くことを何より愛した娘の腕に、それのみを与えることで。

 ――閉じられた、この時を刻まぬ世界。
 ただただ清浄な銀色だけが続くこの場所に一人きり、娘は硝子の竪琴を抱く。
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