意地悪な副社長との素直な恋の始め方


(しばらくは、朔哉のことも芽依のことも忘れ、月子さんを撮ることだけを考えようと思っていたのに……)


つい最近まで、日常に朔哉のいない生活が当たり前だった。
それが、いつの間にか、彼がいるのが当たり前になっていたのだと痛感する。

目の前にいる月子さんに朔哉の面影が重なって見えて、唐突に込み上げた寂しさに俯いてしまった。


(家出一日目で、すでに挫折しそう……)


引き留めようとした朔哉を振り払って出て行くことを選んだのは、自分なのに。


「偲月さん? コーヒーが冷めちゃうわよ?」


月子さんに指摘され、我に返る。


「す、すみません」

「あのね、お腹が空いている時に考え事をするのは、よくないのよ? マイナス思考が増大しちゃうから。考え事は、お腹が満たされた状態でするのが、オススメ」


月子さんにチャーミングなウインクを送られて、思わずドキッとしてしまう。

昨夜、朔哉の部屋からわたしを連れ出した月子さんは、何があったのか、訊かなかった。
芽依が朔哉を兄以上の存在だと見ていることに感づいていたから、彼を巡って、彼女とわたしの間に何かあったと想像が着いたのだろう。

そのうち、きちんと何がどうなっているのか説明しなくてはと思うけれど、いろんなことに整理がついていない状態では、上手く言葉にできる気がしない。

いまは、何も訊かずにいてくれるのが、ありがたかった。


「ね、ラジオ聴いてもいいかしら? お芝居に没頭すると、あっという間に世の中から置き去りにされちゃうから、最低限、朝のニュースだけはチェックすることにしているの」


テレビよりラジオ派だという月子さんは、リビングの片隅にいたレトロなラジオのスイッチを入れた。
彼女がお気に入りだというパーソナリティの落ち着いた美声で語られる世界情勢、国内経済、事件や事故、地域のイベント情報、天気予報などに耳を傾けつつ、朝食を終える。

とても張り切って仕事をする気分ではなかったけれど、休もうとは思わなかった。
何かしていなくては、余計なことを考えてしまう。
サヤちゃんのおしゃべりや受付嬢たちの来客番付辛口批評、課長のオヤジギャグなどが、いつも通りに過ごすための特効薬になるだろう。

月子さんにここの住所を聞いて、会社までの出勤ルートを調べた結果、あと二十分で身支度を整えなくては遅刻すると判明。
のんびりしている暇はない。「今日の撮影は午後からだから、後片付けは任せてね」と言う月子さんに甘え、腫れた目元をできるだけカバーする化粧を施し、着替えようとして愕然とした。


(しまった……スーツ、入れ忘れた)


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