意地悪な副社長との素直な恋の始め方
「中途半端な覚悟で、始めようと思ったのか?」
「そうじゃない、けど」
「いまの職を辞めて、カメラを仕事にするんだろ? どっちを優先すべきか考えるまでもない。円満退職が理想的だけどな、そうもいかない場合だってある。非常識だ、恩知らずだと言われて、折れるくらいの覚悟なら、最初からやめた方がいい」
流星の言うとおりだ。
誰にも迷惑をかけることなく辞めるなんて不可能だし、何をしたって、何をしなくたって、アレコレ言うひとはどこにでもいるものだ。
(つい、波風立てずに済む方法、楽なやり方を選ぼうとしてしまう癖は、いい加減改めなくちゃ……)
「やめない。もし、チャンスがもらえるなら、ありがたく受ける」
「そうしろ。ひとを蹴落とす必要はないが、チャンスを与えられるのを待つんじゃなく、自分から取りに行くくらいの気力と体力がなけりゃ、生き残れない世界だ。それは、どんな仕事でも一緒だけどな」
いまとなっては、もう遅いけれど、総務部での仕事も、そういう姿勢で取り組んでいたら、もっとちがった風景を見られたのかもしれない。
あらかじめ、決まっている範囲でだけ仕事をするんじゃなく、積極的に他の部署の社員たちと関わり、もっといろんなことができたのかもしれない。
「流星さんて……見かけによらず、熱い」
「見た目がイケメンなのは、俺のせいじゃねーだろ!」
「イケメンだとは言ってないけど」
「おい、ずいぶん余裕だな?」
「余裕なんか、ないし」
昼間は、ようやく電話番から解放されたものの、今度は溜まっていた通常業務に追われ、忙しすぎて考える暇がなかった。
しかし、更衣室で着替えた途端、とてつもない緊張に襲われて、メイクを直す手が震え、あやうくとんでもない場所にアイラインを引きそうになった。
「ま、月子さんのようなカリスマなんて、そうそういるもんじゃない。まずは、やる気が大事だ」
「うん」
タクシーが停まったのは、二世代は前から建っていそうな年季の入ったビルの前。
看板には、『吉田ビルヂング』の文字がある。
(だ、大丈夫……なの?)
にわかに不安が増したが、流星はさっさとレトロなドアを押し開ける。
いまにも止まりそうなエレベーターで三階へ。
ワンフロア一室らしく、ドアは一つだけ。
何の表札もないドアは普通のお宅のようだ。
ノックもせず、チャイムも鳴らさず、流星はいきなりドアを開け放った。
「所長! 偲月、連れて来たぜ!」
引き返すには、遅すぎる。
ごくりと唾を飲み込んで、恐る恐るモデルへの第一歩を踏み出した。