意地悪な副社長との素直な恋の始め方
花夜さんのアドバイスを受け入れて、朔哉は「今日のところはこの辺で」と話を切り上げた。
結局、わたしが聞き逃がし、見逃したプロジェクトの詳細は不明なままだ。
(何はともあれ、オファーを取り消されずに済んだことに、感謝しなくちゃ……)
普通なら、やる気がないと判断され、「この話はなかったことに」と言われて終わり。
それが、わたしを口説き落としても、契約を結びたいと言ってくれるなんて、奇跡だ。
そんな奇跡のようなチャンスを逃したくない。
花夜さんと並んでエレベーターホールを目指す朔哉の広い背を見つめ、今後、仕事でも芽依とかかわるならば、今日のような失態を犯さないよう冷静さを保たなければと思う。
(芽依は、わざと、わたしの不安や疑心を煽るような言い回しをして来る。そうまでして、わたしを朔哉から引き離したいのは、なぜ? 彼の気持ちが自分にあると信じ切れずにいるから? それとも……)
もしかして、と都合のいいことを考えかけたが、ポンと後ろから肩を叩かれて、ハッとする。
振り返ると、流星がいた。
口パクで『この件、知ってたの?』と訊いてみると、首を振る。
花夜さんの予想通り、朔哉は極秘で準備していたらしい。
流星は、朔哉の背中を指さし、肩を竦めて『わけがわからない』と言ったあと、『大丈夫か?』と訊いた。
酷いことにはならないだろうと思い、軽く頷く。
仕事の面では大丈夫とは言い難いが、朔哉から芽依のようなむき出しの憎悪や敵意は感じない。
あの時は、ものすごく怒っていたと思うけれど、ひと月経ち、時間と距離を置いたことで、怒りも治まったのだろう。
もしくは、わたしがプライベートで何をしようと、もう気にならないだけかもしれないが。
自嘲的な理由をつい想像してしまう。
「望月所長。では、明槻さんからお返事をもらい次第、改めて契約内容の精査に入るということで、かまいませんか?」
「もちろんです、夕城副社長。しっかり話を聞いて、よく考えて、返事をしなさいね? 偲月」
「え? は、はい。そうさせていただきます」
考え事をしていたせいで、一瞬反応が送れたものの、花夜さんの意向に逆らえるはずもない。
すると、すかさず朔哉は次の要求を持ち出した。
「明槻さんの連絡先を教えてもらってもいいでしょうか? 今日のような堅苦しい雰囲気ではなく、食事でもしながら、ざっくばらんに今回のプロジェクトについて説明したいので。事務所を通して連絡してもいいのですが、スケジュールの変更で、急に約束をキャンセルしなくてはならない場合もありますし、お互いの連絡先を交換しておいた方が何かと便利かと」
「もちろんかまいません。偲月!」
「え、」
この流れで「イヤだ」と言えるはずもなく、渋々スマホを取り出して、朔哉と電話番号やその他諸々を交換する。
再び、わたしのアドレス帳に追加された朔哉の連絡先は変わっていない。
しかし、以前のように『朔哉』と登録するのは違う気がして、『夕城副社長』としようとしたら、視界に割り込んで来た手にスマホを奪われた。
「ちょ、」
「社内に夕城が三人もいるから、親しい取引相手は下の名前で呼ぶ」
勝手に自分のアドレスを『朔哉』と登録してしまう。
以前と同じように。
「でも、わたしとはまだ親しくな……」
「これから親しくなるんだから、問題はない。こちらも下の名前で呼ばせてもらうし。呼び捨てはさすがに馴れ馴れしすぎるだろうから……、偲月さん?」