偽装結婚のはずが、天敵御曹司の身ごもり妻になりました
「ごめんなさい。今は、話せません」


「これが藍の意思だ。それじゃ失礼するよ」


鮮やかに会話を切り上げて、貴臣くんは櫂人さんをその場に置き去りにする。

視界の片隅に苦渋の表情を浮かべる彼の姿が入り、心が軋む。

それでも今は戻れない。

せめてもう少しだけ時間がほしい。

たとえ嫌な現実を先送りにして逃げている弱虫だと言われても。

駐車場に向かう足取りは重い。



「……斎田さん?」


ふいに呼ばれた名字に周囲を見渡す。


「白坂、さん……」


ああ、どうして。


一番会いたくない人に会ってしまうのだろう。


彼をあきらめなさいと神様に言われているのだろうか。


「買い物に来たら、斎田さんらしき人の姿を見かけた気がして……」


白坂さんの視線がどこか不思議そうに私と貴臣くんの間を行ったり来たりする。

その意図を貴臣くんが明確にくみ取る。


「藍が体調を崩したので保護者代わりとして迎えに来ただけですよ」


にっこりと口角を上げて貴臣くんが言う。

穏やかな口調だが、その響きにはそれ以上の問いかけを許さない雰囲気が漂っていた。


「あら、それなら栗本副社長にお知らせすべきでは?」


「彼は知っていますから、大丈夫です」


「えっ?」


「急ぎますので失礼します。藍、行こう」


そう言って貴臣くんは再び鮮やかに会話を終了する。

私は小さく頭を下げてその場を離れる。

社会人としてこの態度は非礼だとよくわかっている。

でもどうしても今、白坂さんと明るく会話できる自信はないし、平静を保てない。

もう少し気持ちの整理がついたらきちんと白坂さんともお話したい。


「まったく次から次へと……」


貴臣くんがイラ立った様子で呟く。

そんな兄代わりの背中を私はただ黙って見つめていた。
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