偽装結婚のはずが、天敵御曹司の身ごもり妻になりました
囁くような低い声が耳に響く。

紡ぐ言葉はとても物騒なのに、視線は誘惑するかのように甘い。

ゆっくりと彼が私の髪に口づけた瞬間、私の胸がキュウッと締めつけられた。

名残惜しむかのように私の髪を解放する骨ばった指先が微かに首元に触れると、そこだけがピリッと甘く痺れる。

数秒にも満たない時間のはずなのに、とてつもなく長く感じてしまう。


――こんなのはおかしい。


瞬きすら忘れてしまったかのように目を見開く私に、彼は口元を綻ばせる。


「責任って……本気で私とお見合いをするつもりですか?」


「ああ。嘘は嫌いだ」


「形だけ、ですよね……?」


掠れた声で確認すると副社長が鷹揚にうなずく。


「それでお前が白坂さんを逃がした件はチャラにする」


「わ、わかりました」


とりあえず彼の体面を保てばいいのだろう。

きっとすぐに解放される。

そう考えて了承の言葉を口にする。

彼の要求を拒否すれば後々、面倒な事態になりそうだし、なによりこの人のそばにいると心が落ち着かない。

こんな得体のしれない感情は初めてで戸惑いを隠せない。

厄介事に巻き込まれるくらいならさっさと収拾をはかったほうが楽だ。




このときは自分の選択が正しいと信じていたのに。


その決断が大きな間違いだったと気づくのは、数十分後だった。
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