偽装結婚のはずが、天敵御曹司の身ごもり妻になりました
「藍」


甘く、誘惑するような声が耳に響く。

こんな風に異性に名前を呼ばれた経験なんてない。

心臓がトクンとひとつ大きな音を立てた。


「俺のものになれ」


どうしてそんな言い方をするの?


胸の中に巣くう、小さな駆け引きと葛藤。

仕事を続けていいし、浮気もしないと言ってくれた。

なにより私の勤務先も彼の立場も、結婚さえすればすべてが丸く収まる。

今、私には恋人はおろか好きな人もいないし、恋に落ちる予定もまったくない。

いつかは誰か、将来をともに歩む伴侶を見つけたいと思っていた。

まさか外見が極上の、好条件すぎる王子様が相手とは思いもしなかった。

だけど、これがひとつのタイミングなら、断るべきではないのかもしれない。


「……よろしく、お願いします」

 
頭で納得するよりも先に、声が出ていた。


「こちらこそ、よろしく」


初めて向けられた優しい笑顔に心が乱れる。

整いすぎて冷たく見えがちな面差しに浮かぶ、柔らかな表情に私を本気で望んでくれたのかと期待しそうになる。


「それじゃ、早速今後の話を是枝社長としなければいけないな。共同開発の件も含めて」


求婚を了承した途端に切り替わった、事務的な副社長の口調にハッとする。

甘い雰囲気など微塵も感じられない現実に直面して、僅かに抱いていた期待が粉々に砕け散るのを感じた。

なぜか小さなショックを受けている自分を必死に誤魔化す。

無理やり上げた口角が痛い。


なにを期待したの? 


この結婚はただお互いの利益を優先するためのものなのに。
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