偽装結婚のはずが、天敵御曹司の身ごもり妻になりました
「――俺の名前を呼んで」


「……か、櫂人、さん」


唇が震える。

誰かの名前を呼ぶのにここまで緊張した経験はない。

どうしてこんなに意識してしまうんだろう。

貴臣くんに初めて会ったときはまるで違う。


「なに、藍?」


ふわりと相好を崩した彼の優しい声に胸が詰まった。

まるでとても大切に想われているかのような錯覚に陥る。

今までと違う姿に驚きを隠せない。

本当の彼はもしかしたらとても優しい人なのかもしれない。


「これからはずっとそう呼べよ」


“ずっと”という響きがくすぐったい。

意識しているのは私だけだとわかっているのに、頬が熱くなるのを止められない。


「藍?」


黙り込んだ私を訝しむかのように、顔を覗き込まれる。

近すぎる距離に、心が悲鳴を上げる。


「どうかしたか?」


すっと頬に骨ばった指が触れ、ビクリと肩が揺れる。

伝わる体温に、ますます頬が熱くなる。


「……素直すぎて、心配になるな」


小さな呟きが耳を掠めて、整った面差しがさらに近づく。


「斎田様を心配されるお気持ちはわかりますが、無理強いはおやめください」


「――真木(まき)、タイミングが悪いな」


突如割り込んできた冷静な男性の声に、副社長が不機嫌そうに返答する。

その瞬間、私は慌てて副社長から離れる。

婚約者との近い距離に今さらながらドキドキする。

しかもそんな情けない姿を見られていたなんて恥ずかしすぎる。
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