私だけを愛してくれますか?

真夏の今は、夜でもムッとした熱気が消えない。
ちょっと歩いただけで、汗が噴き出そうだった。

散歩をしていると気分は紛れるが、途中にある副社長のマンションがどうしても気になる。偶然会えないかなぁという気持ちが湧くのはどうしようもなかった。

お気に入りのパン屋さんに差し掛かった時、一台の車が横を通り過ぎ、副社長のマンションの前に停車した。

運転席から、副社長の秘書の結城さんが降りてくるのが見える。

えっ!本当に会えた。

別に隠れる必要はないのに、とっさにパン屋さんの駐車場に隠れる。

会えたらいいなとは思っても、実際に会えたら恥ずかしい。

すみません、面倒くさいアラサーで。

誰にともなく謝りたい気分だ。

結城さんが車の後部座席の扉を開けると、女の人が降りてきた。小さな男の子を抱いている。

あれ?副社長が乗ってるんじゃないの?

困惑しながら見ていると、車道側の扉が開いて、副社長が降りたのが見えた。

男の子が「パーパ」と言って、女の人の腕の中から副社長に手を伸ばす。

副社長は慣れた様子で男の子を受け取り、高い高いをするように抱き上げた。

キャッキャッと笑う男の子の声が聞こえる。

傍らにいる女の人は、微笑みながら二人を見守っていた。

そのまま、三人がマンションの入り口に入っていくのを、私は呆然と見つめる。

結城さんが再び車に乗り込み、走り去った後、どれくらいそこに立ちすくんでいたのだろう。

「なぁーご」

ドンちゃんの鳴き声で、ハッと我に返った。

「ご、ごめん。帰ろうか」

速足でその場を後にする。胸が痛い位にドキドキしていた。

副社長、結婚してたの? お子さんまでいる?

いや、副社長が結婚したら、社内報に載るよね。

混乱したまま、必死に記憶を辿る。

私が気づかなかったのかも。なんせ、ついこの間まで副社長に全く興味がなかったんだし。

ふと、あることに思い至った。

そう言えば、神戸に行ったとき、パンダの顔のパン買ってた。動物好きなのかと勝手に思ってたけど、あれはお子さんへのお土産だった?

考えだしたら、もう止まらない。

さっきの女の人。すごく可愛い感じの人やった。『いわくら』の志乃さんに雰囲気が似てたよね。

『夏・京都』のとき、やたら志乃さんに親切やったのは、奥さんに似てるから?

どうしよう。知らなかったとはいえ、一緒に神戸に出かけてしまった。

副社長は一体どういうつもりで神戸になんか…

動揺しながらも、副社長の言葉を思い出した。

『現場調査の帯同』

確かそう言ってた。だから、一緒に行ってやると。

クロワッサン食べた後も、勉強になったって真面目な顔で言ってたし。

本当に仕事でついてきてくれたんやわ。たまたま、私の誕生日が重なっただけで。

全てが、すとんと理解できた。

そうか。なんの深い意味もなかったのか…

優吾の件を気にかけてくれていたのは、私がお兄ちゃんの妹だから?

頑なな私を何とかしようとしてくれたのは、和菓子屋の若旦那の件で会社の代表として責任を感じていたから。

そうか、そうか…

気づくと家に戻っていた。ドンちゃんが心配そうに見ている。

ドンちゃんの足を拭いて、自室に戻る。

「ドンちゃん、私アホやわ。なんか一人で舞い上がってたみたい」

私のそばに寄り添うように、ドンちゃんは座ってくれた。

「〝どうこうするつもりない〟なんて言い訳しながら、実際は〝もしかしたら…〟なんて甘いこと考えてたんやわ。だからこんなに動揺して…」

フフっと笑う声がかすれてきた。涙があふれて止まらない。

『これからはどんどん笑って、怒って、泣いてもらおう』

副社長の言葉を思い出す。あの言葉通り、最近は怒ったり笑ったりすることも多くなっていた。

大丈夫。ほら、ちゃんと泣くこともできた。

「なぁーご」

ドンちゃんは今までの中でいちばん優しく鳴いてくれた。

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