私だけを愛してくれますか?

*◇*◇*


「すみません。何か用事があるみたいですわ」

大きな体を縮めて謝る大将は、童話に出てくる熊のようだ。

「いや、全然かまへん」内心は残念だが仕方ない。

「仕事が忙しいのかもしれないですね」

いや、そんなはずはないけどな。確か、いま美織が抱えている仕事で急ぎのものはないはず。

でも、そうとは言えないので、曖昧に頷いた。

大将が去った後、「美織って誰や?」興味深々で聞いてくるのは、岩倉仁だ。

今日は、初めて『蓮華』に仁を連れてきた。

きっと気に入るだろうと思って連れてきたのだが、案の定、とても気に入ったみたいで「今度、志乃を連れてくる」と張り切っている。

コイツの頭の中は、いつも可愛い妻のことでいっぱいなのだ。


「お前も知ってるやろ。吉木美織」そう答えると、驚いたような顔が返ってきた。

「お前、あの吉木さんに手出したんか!」

「まだ、出してない」ムスッとして答えると、「まだってなんやねん」と呆れられた。

「言ってなかったが、あいつは織人の妹や。ここでは、『くらき』のことは言ってない。〝友人の妹〟っていう関係だけになってるから頼むぞ」

仁は飲んでいたビールを吹き出しそうになった。

「織人の妹!?この前のイベントのときに、なんで言わへんねん!」

「従業員の個人情報をベラベラいうわけないやろ」

個人情報とは違うやろ、とさらに呆れたように呟いた。

「で、織人の妹とここでこっそり会ってるわけか」

腹の立つ言い方をしてくる。あかん、絡まれる情報を渡してしまった…

「別にこっそり会ってるわけじゃない。ここの大将と女将は美織の友だちで、偶然ここで会っただけや」

「いま呼び出してもらってたくせに」

おもちゃでも見つけたかのように、嬉々として仁は食い込んでくる。

「今、二号店のことが忙しくて会社で全然会ってない。ちょっと顔が見たいなと思っただけや」

「顔が見たいと思っただけ!?なんやそれ。中学生か!」

ゲラゲラ笑っている仁がムカついたので、おしぼりをぶつけてやった。

三十半ばの男二人が、学生のようにじゃれ合っている。
仁も俺も日々仕事のことで忙殺されているので、肩の力が抜けるこんな時間はお互い貴重だ。こんなに絡まれるとムカつくこともあるが…

最近、美織を社内で見かけなくなった。例のクロワッサンのイベントは、もう大筋が決まったので進捗会議もあまりない。定期的に顔を合わす機会がないのはしょうがないが、前からこんなに会わなかっただろうか。

『蓮華』に来たときには大将が連絡を取ってくれるが、ことごとく断られていているし…

「もしかして、避けられてる?」

仁が横にいるのに、口に出してしまった。

「なんや。百戦錬磨の大が苦戦してんのか」

仁はさらにニヤニヤしながら絡んでくる。

「お前、いい加減にしろよ」

頭にきたので、地を這うような声で脅しをかけた。

短くククッと笑うと、からかうことに飽きた仁は普通に話し始めた。

「偶然会う機会を待っててもしょうがないやろ。食事ぐらい普通に誘ったらあかんのか?」

「俺の立場で声を掛けたら、断りにくいやろうからな。無理やりになったら悪い」

「お前は真面目すぎる。嫌そうにしたら引いたらいい。もちろん無理やりはあかんが、食事に誘うのにそこまで遠慮することないやろ」

意外と普通のアドバイスをされた。女性のことを話題にするなんて、いつぶりだろうか。妙に気恥ずかしい。

「そう思うか?」

「俺も志乃と結婚するために、仕事の立場を利用したからな。断られへんような状況作って〝うん〟と言わせたようなもんや。結婚した後、志乃はこれで幸せなんだろうかと悩んだこともあったが、今は、俺を選んでくれたことを後悔させへんように、ただ志乃を幸せにしたいと思ってる」

静かに語る仁には、確固とした覚悟が見えた。いつのまにか友は、俺の数歩前を行っていたらしい。

「お前、大人になったな」

しみじみと感動したように言うと、上から言うなと叱られた。

「吉木さん、いいやないか。まあ精々がんばれ」

仕返しとばかりに、余裕のある先輩面で檄を飛ばされた。

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