ミニトマトの口づけ
新川さんは小さなお弁当箱を広げた。
中には彩りもきれいなおかずが詰まっている。
「お弁当、毎日作るの大変ですね」
「こんなの何も大変じゃないよ。これは昨日の残り、こっちとこっちは冷凍食品。卵とミニトマトが入ってると、きれいに見えるだけ」
「いや、お弁当箱に詰めるだけでもすごいです」
本心からの言葉だったけれど、新川さんは苦笑いで受け流した。
「お弁当より、離乳食の方が数倍面倒くさいよ。何回経験しても本当に面倒くさい。早く終われ」
芹菜ちゃんは年明けから保育園に通っているもののまだ慣れず、毎日泣いてしがみつくらしい。
「どんなにお腹がすいても、私以外の人間から離乳食食べないのよ。絶対口開けないの。おかげで全然すすまなくってねぇ」
冷凍食品だというシューマイを苦々しい顔で飲み込んだ新川さんは、行儀悪く頬杖をついた。
「考えてみれば当たり前よね。芹菜にしてもひまりちゃんにしても、知らない人が口に物を入れてくるって怖いもの」
「はい」
口の中は脳に直結しているし、とても敏感なところだ。
「口開けるって、信頼関係あってこそよね。時間かかって当然」
飲んだ紙パックの緑茶は、思っていた味と違って、ざらりと苦かった。
「新川さん、よろしくお願いします」
「ひまりちゃんの場合、進行も抑えられてるし、寺島先生には慣れてきたから大丈夫」
「はい」
紙パックの緑茶は冷蔵庫にしまって、急須にほうじ茶のティーバッグを放り込む。
「寺島先生はいい人だと思うよ」
唐突に新川さんは言った。
「先生が、何か言ってましたか?」
ポットから勢いよく注がれたお湯が、ティーバッグで跳ねて手の甲まで飛んできた。
「ううん。特に何も。でも、ずっと紀藤さんのこと心配してるでしょ? あの人」
「新川さんこそ、心配してくれてますよね」
ありがとうございます、とふたり分のお茶を淹れて差し出した。
少し微笑んで、新川さんがひと口飲む。
私も飲もうとして、やっぱりテーブルに戻した。
湯気がとても熱かった。
寺島先生は、モーニングセットを頼むたび、私の口元にミニトマトを持ってくる。
雨が降ったから傘を差した、というように当たり前の顔をして。
そのくせ目だけ真剣に。
そっと唇に触れ、つるりとトマトを中に入れてから、ゆっくりとフォークを引き抜く。
グサリと新川さんがミニトマトに箸を差した。
「寺島先生はいい人だよね」
「わかってます」
「いい人過ぎて、ちょっとダメよね」
私はいつも先生のトマトを食べる。
けれど、自分のグラスには手をつけない。
一度だけ先生は言った。
頑なだなぁ、って。
笑顔でため息をつきながら、紀藤さんは頑なだなぁ。
胸ポケットに刺さった紺色のペンは、季節はずれになりつつある。
「そうですね」
細く開けた窓から、埃っぽい風が入り込んで、壁にかけてあるカレンダーがぱらりとめくれた。
中には彩りもきれいなおかずが詰まっている。
「お弁当、毎日作るの大変ですね」
「こんなの何も大変じゃないよ。これは昨日の残り、こっちとこっちは冷凍食品。卵とミニトマトが入ってると、きれいに見えるだけ」
「いや、お弁当箱に詰めるだけでもすごいです」
本心からの言葉だったけれど、新川さんは苦笑いで受け流した。
「お弁当より、離乳食の方が数倍面倒くさいよ。何回経験しても本当に面倒くさい。早く終われ」
芹菜ちゃんは年明けから保育園に通っているもののまだ慣れず、毎日泣いてしがみつくらしい。
「どんなにお腹がすいても、私以外の人間から離乳食食べないのよ。絶対口開けないの。おかげで全然すすまなくってねぇ」
冷凍食品だというシューマイを苦々しい顔で飲み込んだ新川さんは、行儀悪く頬杖をついた。
「考えてみれば当たり前よね。芹菜にしてもひまりちゃんにしても、知らない人が口に物を入れてくるって怖いもの」
「はい」
口の中は脳に直結しているし、とても敏感なところだ。
「口開けるって、信頼関係あってこそよね。時間かかって当然」
飲んだ紙パックの緑茶は、思っていた味と違って、ざらりと苦かった。
「新川さん、よろしくお願いします」
「ひまりちゃんの場合、進行も抑えられてるし、寺島先生には慣れてきたから大丈夫」
「はい」
紙パックの緑茶は冷蔵庫にしまって、急須にほうじ茶のティーバッグを放り込む。
「寺島先生はいい人だと思うよ」
唐突に新川さんは言った。
「先生が、何か言ってましたか?」
ポットから勢いよく注がれたお湯が、ティーバッグで跳ねて手の甲まで飛んできた。
「ううん。特に何も。でも、ずっと紀藤さんのこと心配してるでしょ? あの人」
「新川さんこそ、心配してくれてますよね」
ありがとうございます、とふたり分のお茶を淹れて差し出した。
少し微笑んで、新川さんがひと口飲む。
私も飲もうとして、やっぱりテーブルに戻した。
湯気がとても熱かった。
寺島先生は、モーニングセットを頼むたび、私の口元にミニトマトを持ってくる。
雨が降ったから傘を差した、というように当たり前の顔をして。
そのくせ目だけ真剣に。
そっと唇に触れ、つるりとトマトを中に入れてから、ゆっくりとフォークを引き抜く。
グサリと新川さんがミニトマトに箸を差した。
「寺島先生はいい人だよね」
「わかってます」
「いい人過ぎて、ちょっとダメよね」
私はいつも先生のトマトを食べる。
けれど、自分のグラスには手をつけない。
一度だけ先生は言った。
頑なだなぁ、って。
笑顔でため息をつきながら、紀藤さんは頑なだなぁ。
胸ポケットに刺さった紺色のペンは、季節はずれになりつつある。
「そうですね」
細く開けた窓から、埃っぽい風が入り込んで、壁にかけてあるカレンダーがぱらりとめくれた。