「みえない僕と、きこえない君と」
咲さんには、弥凪と共に手話を伝授して

もらっているし、町田さんの頼みとあれば

僕が断れるはずもない。不意に、つんつん、

と弥凪が僕の腕を突いた。その合図に隣

を向けば、彼女は(頑張って)と、手話で

言って笑いかけている。僕は力強く頷いた。

「そうと決まれば、いつまでも休んでいら

れませんね。高校時代の参考書とって

あるんで、退院したらすぐに始めましょう。

僕は厳しいですよ?いいんですか?」

「もちろん、そのつもりだからビシバシ

頼むわ。これから職場では会えなくなる

けど、羽柴クンちが俺の予備校になるからな。

見返りは咲の“手話教室”ってことで」

町田さんがそう言うと、咲さんは誇らしげに

僕にピースサインを送った。



----手話に点字に、町田さんの受験勉強。



考えただけで、僕らの日常はとても多忙で、

すごく楽しいものになりそうだ。




それから、僕たちは陽が暮れるまで取りとめ

のない話で盛り上がった。

もし、ここが一般病棟だったら、こんなにも

楽しい入院生活を送ることは出来なかった

だろう。一泊の宿泊料を考えると、弥凪の

父親には申し訳ない限りだけれど……

このお礼は、いつか必ず僕の口から伝え

よう。そう心に誓った僕は、帰り際、

「万事がうまくいくといいな」

と、囁いた町田さんに淡く笑んだのだった。








「じゃあ、荷物の整理が出来たらナース

ステーションに声をかけてくださいね。

退院の手続きは11時までに入退院セン

ターでお願いします。次回の診察予約は、

さっき伝えましたっけ?」

夕食後、退院証明書や請求書を手にやってきた

看護婦さんが、僕の顔を覗く。

「はい。一週間後の10時半ですよね。診察を

終えたら、そのままリハビリに来るようにと」

看護婦さんの質問にきっちりそう答えると、

彼女はにこりと笑って頷いた。

「場所は総合診療棟の3階です。ちょっと、

わかりにくい場所なので、エレベーター乗る時、

間違えないように気を付けてくださいね」

「わかりました」

それじゃ、と、ベッド横に備え付けられている

細長いテーブルに書類を置いて、部屋を出ていく。

僕はドアの向こうに白い背中が消えるのを見届け

ると、応接セットの椅子から立ち上がり、窓の

外を眺めた。

紺青の空の下に、ぽつぽつと街灯りが見える。

地上12階建ての病棟の最上階から見る夜景は

美しく、ここが病室だということも忘れてしま

いそうになる。



あの夜から2週間以上続いた入院生活も、

今日で終わりだ。だから、この夜景もこれで

見納めとなる。僕は夜空の中に淡く浮かび上が

る自分を見つめると、小さく息を吐いた。
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