「みえない僕と、きこえない君と」
「ものすごく美味しいです。こんなカレー

コロッケ、初めて食べました」

思ったままを口にすると、父親は満足そう

に頷いた。そのまま、僕は二つ目のコロッ

ケもペロリと平らげる。その様子を静かに

見やりながら、父親は緑茶のペットボトル

に口を付けていた。



あれほど騒がしかった心臓は、いつの間

にか静かに鼓動を刻んでいる。僕は、

食べ終えた包み紙を手の中で握りしめる

と、姿勢を正し、頭を下げた。

「あの、僕のためにこんな立派な部屋を

用意してくださって、本当にありがとうござ

いました。お陰で、ゆっくり養生することが

出来ました」

その言葉に、父親は緑茶を飲む手を止め、

いいや、と首を振る。

実は数日前、弥凪の母親が病室を訪れた

際に、僕は入院費が入った封筒を渡さ

れていたのだ。“こんな大金は受け取れ

ない”、と、僕は返そうとしたのだが……

「そう言わずに、受け取ってくださる?

羽柴さんの都合も聞かずこの部屋を

用意したのは主人ですし、絶対にあなた

に渡すように、って主人から言い使って

いるんです。それに、しばらくお仕事も

休まなければならないでしょう?少しの

間、これで凌げるかしら?」

そう言って、母親に押し返された分厚い

封筒は、いまもセーフティーボックスに

入っている。

「……礼を言わなければならないのは、

わたしの方だ。君は命がけで娘を守って

くれた。『ありがとう』なんて言葉じゃ

とても足りないが……本当に、ありがとう」

そう言って、深々と頭を下げた父親に、

僕は慌てて顔の前で手を振る。

「そんな、やめてください。僕が弥凪さん

を庇うのは当たり前のことですし、それに、

僕が無理に連れて帰ろうとしなければ、

あんなことには……だから……」

そこで僕は言葉に詰まってしまう。



----あの夜は、きっと混乱していたのだ。



僕も、弥凪も、弥凪の父親も、母親も、

みんなが混乱し、どうするべきか正解が

わからなかった。

「確かに……」

頭を上げ、そう呟いた父親を僕は食い

入るように見つめる。

「死亡事故の多くは交通量や人通りが

減る、夜10時以降に発生する。ドライ

バーの心に、油断が生じるんだよ。

しかも、あの日は雨だった。君たちを

轢いたあの青年も、スピードの出し過ぎ

によるスリップ事故だ。まだ、運転操作

に不慣れな初心者がスピードを出して

いたことも解せないが、事故現場から

立ち去ってしまったことはどうにも赦し

がたい。彼の行為は危険防止措置義務

違反に該当する。然るべき刑罰が科さ

れるだろう」

そう語った父親の顔は、多くの部下を

統率する警察組織の上層部にいることを、

改めて感じさせる。
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