「みえない僕と、きこえない君と」
「あの、ひとつ聞いていいですか?」

おずおずとそう切り出した僕に、男性は

僅かに表情を動かした。

「いつも一人でこの場所に座っています

よね。奥さまは、いまどちらに?」

そう口にした瞬間、彼の目が少し揺れた

ように感じて、どきりと胸が鳴る。

まさか……

そんなことはあって欲しくはないけれど。

不安の色を目に宿し、じっと男性の顔を

覗き込んだ僕に、男性は、ふっ、と頬を

緩めると前を向いた。

「待っているんですよ。ここで。妻が、

帰ってくるまでね」

「帰ってくる。それは、どこからですか?」

彼の言わんとしていることがわからず、

僕が首を傾げた、その時だった。

「お父さん!!」

突然、園路の向こうから女性の声がして、

僕はその方向に目を向けた。すると、

こちらに向かって2人の女性が歩いてくる。

一人は、高校生くらいだろうか?同じ

背格好の隣の女性よりも少し若く見える。

「えっ?……もしかして娘さん、ですか?」

こちらに向かってにこやかな笑みを浮かべ、

歩いてくる二人を見やりながらそう言った

僕の声は、少し上擦っていた。

「はい。娘と、妻ですよ」

ふふっ、と悪戯っ子のように口元を歪め、

男性は二人に手を振った。

「なんだ、良かった。僕はてっきり……」

男性が微妙な表情を見せたので、僕は

悲しい結末を勝手に想像し、肩に力を

入れてしまった。

「いや、失礼。実はね、この公園の近くの

ガラス工芸教室に、二人が通っている

んです。僕は散歩がてら毎週付き添って、

このベンチで二人が終わるのを待って

いるんですよ」

「そうだったんですか。だから、一人で

このベンチに……」

僕は、ほぅ、と胸を撫でおろした。

「お父さん。お母さん、またあそこのカレー

コロッケ買って来たのよ。わたし、もう

飽きちゃ……あれ、そちらは?……」

男性の傍らに歩み寄った娘さんが隣りに座る

僕に気付き、言葉を止める。

彼は僕を見、少し思案してから答えた。

「ああ、こちらはね、さっきお友達になった

ばかりの散歩仲間、ということでいいかな?」

サングラスの向こうで目を細め、僕に

そう問いかける。彼が口にした言葉を

同時通訳しているのだろうか?娘さんは

母親に向かって手話で話していた。

「はい。散歩仲間ということで」

彼の言葉に笑って頷くと、娘さんの隣に立って

いた奥さんが、ぺこりと頭を下げる。

母子というよりも、姉妹といった方がしっくり

くるほど、彼女は若々しかった。

「それじゃあ、そろそろ行こうかな」

そう言って男性が立ち上がったので、

僕もベンチから腰を上げる。

陽は落ち、体はすっかり冷えてしまったが、

帰り道をぐるりと走れば、また、温まるだろう。

「じゃあまた」

軽く手を振ってそう言った彼に、僕も同じ

ことを口にして手を振った。




3人が肩を並べ、夕暮れの公園を歩き出す。

その後ろ姿は、どこにでもいる幸せな親子

のそれで、僕はいましがた彼から聞かされ

た話を思い出し、ほっこりと胸を温かくした。



そう言えば、細胞移植手術や遺伝子治療

の発展によって、この病が治る病気へと

変わりつつある、というニュースをどこかで

見かけたことを思い出す。そう遠くない未来、

彼が大切な人たちの笑顔を取り戻す日が

来るのではないだろうか?



-----いや、きっと来るに違いない。



さわ、と、夜の匂いを含んだ風が通り過ぎる。

ふと、あの杖を転がした風は、伯父の仕業

なのではないかと、そんな気がして知らず、

空を見上げる。



-----ありがとう。いい休日になったよ。



空の向こうにいるはずの伯父に心の中で

そう呟くと、僕はふたたび夕暮れの園路を

走り始めた。




             ===完===





※拙作「みえない僕と、きこえない君と」を、
最後までお読みいただき、ありがとうござい
ます。本作を読んで感じたこと、ご意見、
アドバイス等、ひと言でもいただけると嬉し
いです。ご縁をいただけましたこと、心より
感謝致します。

                弥久莉

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