「みえない僕と、きこえない君と」
両手の4本指を甲側で合わせ、ゆっくり左右に離す。

そのまま、両手で拳を握って肘を張り、2度下へ

押すようにして見せる。

(久しぶり。元気だった?)

簡単な手話の挨拶だ。にこりと笑って頷くと、

彼女も(元気)、と同じ仕草をして見せた。

僕はさっそく筆談用の紙を取り出し、彼女に

ペンを渡した。残念だが、ここからは筆談となる。

あらかじめ、仕事を辞めた経緯(いきさつ)はメールで

聞いておいたから、今日は彼女の希望を聞き

ながら個別指導カリキュラムを作成する予定だ。

以前は人事部の事務補助として月末提出書類の

作成や、データ入力、資料の仕分けなどを

やっていたので、基本的なパソコンスキルは

身についている。退職前に有給消化で2週間

休めるということだから、カリキュラムに

よっては明日から通所することも可能だけれど……

まずは、彼女がどんな職場を探していて、どんな

ことを身に付けたいのか。僕はひとつひとつ、

希望を聞いていくことにした。




(次はどんな仕事をしてみたいとか、具体的な

希望はある?)

ペンを紙に走らせ、顔を覗き込む。

彼女は小首を傾げ、数秒考えて頷いた。

(絵を描くのが好きなので、そういうのを

活かせる仕事に就きたいです。中学、高校は

美術部に所属していたので)

へぇ~、と、感心したように2度頷く。

僕は芸術面がからきしだから、絵を描くのが

得意と聞いただけで、ひたすら尊敬してしまう。

高校の時、全国書道コンクールで入選した

ことはあるけれど……

そのことを伝えると、僕の字を覗き込んで

彼女は微妙な笑顔を見せたのだった。

(じゃあ、イラストレーターやフォトショップ

を身に付けて、制作関係の仕事を探してみると

いいかも知れないね。クリエイター能力認定試験

を受けるつもりで、パソコン研修を入れようか)

そう言うと、彼女は少し緊張した面持ちで頭を

下げた。

その他にも、安心して長く働ける職場を探したい

とか、口話が苦手なのでコミュニケーションは

筆談をメインにしてもらいたいとか、彼女の希望

を拾い上げてゆく。

安心して働ける、というのは、福利厚生などの面

ではなく、主に人間関係や職場の雰囲気を指して

言っているようなので、実習先にそのまま就職

できない企業実習よりも、企業側の試験雇用を

活かしたトライアル雇用で彼女が納得できる

仕事先を見つけた方がいいかも知れない。

そんなことを念頭に置きながらカリキュラムを

作成し、その後は筆談用の小さなホワイトボードを

片手に事業所内を一通り案内して歩いた。

僕の話を聞きながら指導の様子を眺める彼女の

横顔は真剣そのもので、必ず希望に合った仕事先

を見つけてあげよう、と、僕は密やかに誓っていた。

< 14 / 111 >

この作品をシェア

pagetop