「みえない僕と、きこえない君と」
(じゃあ、また)

入り口まで彼女を送り、手を振る。

彼女は笑顔で頭を下げると、くるりと踵を返した。

遠ざかってゆく白い背中を、しばらく見つめる。

次に彼女に会えるのは、明後日だ。

それからは、毎日通所するので、事業所の中で

顔を合わせる機会は増えるだろう。

そんなことを頭の片隅で思っていた時、不意に

彼女が振り返った。

そして、「バイバイ」と手を振った。

無防備に彼女を見つめていた顔を見られた

恥ずかしさから、僕は片手で口元を覆い隠す。

ひらひら、と手を振り返すと、今度こそ彼女は

帰路についた。

トクリ、トクリ、と、

ひとつの想いが胸の中で形になってゆく。

それは、いままでも、幾度となく他の誰かに

感じてきた想いと似ているようで、どこかが

違っていた。

僕は気持ちを切り替えるように首を振ると、

その場を離れた。

明るい日差しを見つめていたからか、

視界は微かに白んでいた。

 



僕の勤める事業所には彼女の他にもう一人、

聴覚障がいを持った利用者さんがいる。

長山さんと言う40代の女性で、彼女も手話が

話せる。彼女、市原さんはその長山さんと

コミュニケーションスキルや模擬職場体験

など、聴覚障がいに特化したトレーニングを

受けることになっていた。

さっそく、企業訪問からの帰りがけに、

それとなく指導の様子を覗く。

カリキュラムでは朝9時45分から朝礼、

10時からそれぞれの指導、昼食をはさみ、

午後の指導と掃除を終えて帰宅するのは

16時ごろだ。今日は午前中がパソコン研修で、

午後はビジネスコミュニケーションだから……

僕はドアに備え付けられた四角いガラス窓

越しに、彼女を見た。

講師がホワイトボードに何かを書き込みながら、

ゆっくりと、大きな口を開けて話している。

「自分の聞こえの程度を相手に伝えること、

サポートして欲しいことを上手く伝えることが、

長く働いていく上で大切なんです!」

講師の言うことに頷きながら、彼女はノートに

メモを取っている。



-----補聴器を付けているから、聞こえるだろう。



そう勘違いをしてしまう健常者は結構いて、

それが意思疎通の障害となり、誤解を生む結果

にもなっている。

社会に出て働いていく上で一番大切なのは、

円滑なコミュニケーションと人間関係だ。

それは、障がいがあっても、なくても、

きっと変わらない。

だから、あまり実用性が感じられないかもしれない

けれど、こういったソーシャルスキルトレーニング

(対人関係や集団行動を上手に営むための練習)

のような研修は大切なのだ。

僕は娘の授業参観を見守るお父さんのような

心持で、うん、うん、と頷いた。その時だった。

ポン、と誰かの手が肩にのせられ、僕は、びくぅ、

と肩を震わせた。

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