「みえない僕と、きこえない君と」
「なに覗き見してるの?羽柴クン」

この声は、町田さんだ。

ギギギ、と擬音が聞こえそうな動作で振り向くと、

案の定、町田さんが好奇の眼差しを向けている。

僕は声を潜めて言った。

「ちょっと、新しい利用者さんの様子を見ていた

だけですよ。町田さんこそ、何やっているんですか」

「何って、トイレ行った帰りだけど」

まだ、水の滴る手をハンカチで拭いながら、彼が

首を伸ばす。僕は中を覗かせまいと、ガラス窓の

前に立ちはだかったが、どきなさい、と言わん

ばかりに肩を押され、あっさりどかされてしまった。

「なになに、新しい利用者って、あの子?

おっ……可愛いじゃん。ああいう清楚な感じ、

いまどき珍しいな」

ちらちら、と、僕と彼女を交互に見ながら、

揶揄うような目を向ける。

次に、彼の口から飛び出す言葉が予想できた

僕は、それ以上喋らせないための方法を慌てて

考えた。が、遅かった。

町田さんの口から、すらすらと予想通りの

言葉が出てくる。

「もしかして、好みのタイプ?合コンには

ああいう感じの子、来なかったもんな。

あれ、でも、あの講師って確か……」

さらに首を伸ばして中を覗き出す。

彼が言わんとしていることは、考えなくても

わかる。僕は思いきり仏頂面をして、答えた。

「聴覚障がいコースの先生ですよ。

彼女、難聴なんです」

「……ああ、そっか。聴覚コースの……」

「ほら、もういいでしょう?行きましょう!」

声を潜めたままで口調を強くした、

その時だった。

ガラッ、と引き戸の開く音がして、僕と町田さんは

同時に声を発した。

「あ」

目の前に怪訝な顔をした講師が立っている。

きらりと銀縁眼鏡が光り、その奥の眼差しが、

すぅ、と細められる。

町田さんは素早く僕の背中に隠れてしまった。

「何か御用でも?」

御用など何もないことを百も承知で、そう訊ねる。

「あ、いえ……ちょっと、その、偶然ここを

通りかかったので……」

僕は適当な言い訳を見つけることも出来ず、

あはは、と、ぎこちなく笑った。

教室の中からこちらを見ていた彼女と目が合う。

小首を傾げている彼女に、遠慮がちに手を振ると、

彼女は面映ゆい表情をしながら手を振り返して

くれた。隣に座る長山さんの冷やかすような

眼差しが視界に入り、瞬時に真顔に戻る。

いまは業務中だ。

早いところ、町田さんを連れて退散しなければ……

「あの、順調そうでよかったです。

ご指導中、失礼しました!」

そう言うが早いか、僕は彼の二の腕をむんずと

掴み、そそくさとその場を離れていった。

「積もる話は、そのうちじっくり聞かせて

もらうよ。羽柴クン」

いつの間にか肩を並べ、大股で歩いていた

町田さんは、不敵な笑みを浮かべながら、

ポンと肩を叩いたのだった。
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