「みえない僕と、きこえない君と」
それからも、彼女とは毎日のように顔を合わせた。

朝、事業所へ来れば彼女は僕のいるフロアの前を

通る。その時、利用者さんの対応中で声をかけら

れなくても、アイコンタクトをしたり、互いに

手を振ったりもする。

廊下で会えば立ち話をすることもあるけれど、

僕がメモ帳を持ち合わせていない時などは、

簡単な手話で挨拶をするにとどまった。



------毎日、僕の狭い視界に彼女が映る。



それだけで、気持ちは弾んで、弾んで、仕方ない。

また明日も会える。そう思えば、嫌なこと

があってもケロリと忘れられる。

まるで、彼女の笑顔は心の栄養剤だ、なんて、

そんなポエムのようなことを心の中で思って

いることは、僕だけの秘密だった。

大きなコップが少しずつ満たされてゆくように、

僕の中も彼女で満たされてゆく。

こんな気持ちになるのは初めてのことで、

僕はその頃からもっと彼女と話せるように

なりたい、と思い始めていた。

だから、僕はまず「指文字」を覚えることにした。

聴覚障がいを持つ人とのコミュニケーション方法

は、いくつかある。

代表的なものは「手話」や「口話」、「筆談」

で、その他にも「指文字」や「手の平書き」

という、手のひらに文字を書く方法もあった。

もちろん、一番円滑にコミュニケーションを

取れるのは手話だけど、手話は難しく、とても

一朝一夕で覚えられるものではない。

その点、指文字なら文字の数だけ手の形を

覚えればいいから、ハードルは低い。

多くの人が指文字と聞くと、盲ろう者で有名な

ヘレン・ケラー女史を思い浮かべるだろうけど、

彼女がサリバン先生から教え込まれたのは、

アルファベットの指文字をローマ字表記で表し、

手の平で触らせるものだ。 

僕が覚えるのは、日本語の50音式。

これも、相手に手の形を見せて話すだけでなく、

手の平で触れさせて言葉を伝えることが出来る。

幸い、僕は暗記が得意なので、指文字は一晩で

覚えることが出来た。



-----翌日。



さっそく、覚えた指文字を使うチャンスが訪れた。

ビジネス文書研修を終えた彼女が、長山さんと

二人で教室から出てきたのだ。

彼女たちは、手話で談笑しながらこちらに歩いてくる。

僕は廊下の向かい側から彼女たちに手を振り、

そして、覚えたばかりの指文字で話しかけた。

(お、つ、か、れ、さ、ま。 

が、ん、ば、っ、て、る、ね)

手の形を思い出しながら、ゆっくりと指文字を

作って見せる。

昨夜はちゃんと覚えたつもりだったけれど、

実際にやってみると、促音(そくおん)と呼ばれる

小さな「っ」などは、形作った手の動かし方が

微妙に難しかった。

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