「みえない僕と、きこえない君と」
アパートから彼女の家までは、歩いて20分

程だった。自転車通勤をやめてから数カ月経つが、

あのころは、まさか、彼女を迎えに行くために

この道を歩くことになるとは、思ってもみなかった。

両手をパーカーのポケットに突っ込み、早足で歩く。

どきどきと胸を打つ鼓動はいつもより速く、

あと数十分もすれば彼女に会えると思うだけで、

さらに速さを増してしまう。早く会いたい。

その想いのまま、僕は彼女の家を目指した。




約束の時間よりも15分以上早く着いてしまった

が、家の前に立ち、彼女の部屋らしい出窓を見上げ

ると、すぐに窓の向こうから彼女が顔を出した。

(お、は、よ、う)

唇の形だけで言葉を伝える。

にこりと笑って、彼女が手を振る。

まるで、ロミオとジュリエットのように、密やかに、

窓越しにやり取りをすると、まもなく、彼女は

僕のところへとやって来た。

(おはよう)

薄紅色のシフォンのスカートを風に靡かせながら、

彼女が手話で言う。

いつもより、少し雰囲気が違って見えるのは、

スカートと同じ色のアイシャドウが薄く瞼に塗られて

いるからか。普段、彼女はあまり化粧を施さない

方なので、ちょっと新鮮だった。

(行こうか)

右手の人差し指で、進む方向を指し示すと、彼女は

にこりと頷いて僕の隣を歩き始めた。






「のどかだなぁ……」

入り口近くの陸上競技場を抜け、園内の中ほどまで

進むと、すでに、芝生広場は休日を楽しむ人たちで

いっぱいだった。

真っ青な空の下を駆け回る子供たち。

バドミントンを楽しむ恋人たち。

そして、ぐるりと芝生を囲む歩道をジョギング

する人たち。

それぞれが、思い思いに休日を満喫している。

僕は足を止め、新鮮な空気を吸い込んだ。

緑に囲まれているだけあって、空気が美味しい。

朝食を抜いて来たお腹が、くぅ、と小さく鳴った。

不意に、つんつん、と、彼女が僕の腕を突いた。

その合図に彼女を向くと、遠くを指差している。

サングラス越しに目を凝らしてみれば、芝生広場

の向こうに、黄色の移動販売車が見えた。

どうやら、あそこでコッペパンが売っているらしい。

僕は指文字で言った。

(お腹空いたね。買いに行こうか)

その言葉に、彼女は嬉しそうに頷く。

ここに来るまでも、僕たちは「携帯」や「指文字」、

時には「口話」を使って言葉のやり取りをしていた。

あまり余所見をしていると危ないから、長い会話は

出来なかったけれど……

ベンチに座ればもっとゆっくり話せる筈だ。

薄く敷いてある砂利を踏みしめながら、僕たちは

移動販売車へ向かった。

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