「みえない僕と、きこえない君と」
-----秋時雨だろうか。
10月は陰暦で時雨月とも呼ばれるほど、
通り雨が多いことを思い出したが、残念ながら
傘は持ち合わせていない。駅から彼女の家まで
は10分ちょっとなので、僕はパーカーを脱いで
彼女の頭を覆った。突然のことに驚いて、
彼女が僕を見上げる。
(濡れないように)
そう、ゆっくり唇を動かすと、彼女はオロオロし
ながらも、頬を染めてこくりと頷いた。
ぽつ、ぽつ、と、肩を濡らす雨粒は大きく冷た
かったが、帰路を急ぐ気にはなれなかった。
家に着いてしまえば、彼女との時間が終わって
しまう。帰るまでに伝えようと思っていた言葉
も、家が近づくごとに焦りが増して、どう伝え
ればいいかわからなくなる。
そんなことを思いながら、彼女と肩を並べて
歩いていた僕の耳に、突然、背後からアスファ
ルトの水たまりを弾く音が聞こえた。車だ。
咄嗟に、彼女の肩を抱いて僕の方に引き寄せた。
歩道のない、住宅街の細い道路を、ざぁ、と
一台の車が通り過ぎる。
「危ないな」
遠ざかってゆく車を見やりながら、そう呟いた
僕を、腕の中から彼女が覗いた。
二人、立ち止まったままで、視線が絡み合う。
抱き寄せた肩を離さなければと思うのに、
腕は固まってしまったように動かない。
やがて、パーカーで覆われたままの肩を
引き寄せると、彼女は静かに目を閉じた。
彼女の唇に、自分のそれを重ねる。
空と同じ灰色の空気が辺りを包んでいて、
周囲に人影はなかった。
僕は、一度やさしく重ねた唇を離し、彼女
の目を覗き込むと、ふたたび、深く、唇を
重ねた。冷たい雨が互いの頬を濡らしていた
が、唇だけは雨に濡れることなく、やわらか
な温もりを残していった。
-----何をやっているんだ、僕は。
誰もいない事業所の廊下で。
僕は雨の中で暴走してしまった自分を思い出
し、ひとり顔を覆って壁に頭を打ち付けていた。
あの日、キスをした僕たちは、ふたたび横を
通り過ぎた車に我に返り、夢から醒めたよう
に、ぎこちなく笑いあった。
(行こうか)
と、また歩き出した僕の手は、彼女の肩から
離れることはなかったけれど……
彼女を家に送り届けるまでの時間はとても
短く、伝えたかった言葉はひと言も伝えられず。
ついに、辿り着いてしまった玄関の前で彼女が
振り返っても、僕は笑って(またね)と、手を
振ることしかできなかった。
そのまま、逃げるように雨の中を駆け出して
しまった僕の携帯には、彼女からのメールが
届いていたけれど……