「みえない僕と、きこえない君と」
いまでこそ携帯メールやFAX、電光掲示板など、

目で見てわかるツールが普及しているが、

それでも一歩外に出れば、病院や銀行窓口などの

呼び出し、美容院や店でのふとした会話など、

聴覚障がい者が困るようなシーンは多い。

筆談で対応出来る場面は思ったより少ないし、

110番や119番など、緊急時の連絡も電話に

よる音声に限られてしまう。

僕も聴覚障がいを持つ利用者さんと接してきて、

不便はわかっているつもりだったが、実際に弥凪

と日常生活を共にしてみることで、よりリアルに

彼らの苦労を知ることが出来た。





だから、僕は彼女の“耳”になるつもりで、

いつも側にいる。

弥凪も僕の“目”になると言ってくれたのだから、

僕たちは正真正銘、“二人で一人”だった。





家に着き、キッチンの窓を見る。

灯りが漏れている。

弥凪は僕の部屋で待っているようだった。

もしかして、眠っているのかな?

僕は鞄から鍵を取り出し、ドアを開けた。

「……ただいまぁ」

控え目の声でそう言って部屋へ上がると、

案の定、弥凪は僕のベッドでスヤスヤと

眠っていた。手に携帯を握っているが、

眠っていて僕のメールに気付かなかったの

だろう。ベッドの壁側に新しく買った

ホワイトボードには、可愛らしい落書きが

してある。しょんぼりしている弥凪の似顔絵

と、その横に(おなか空いた)の、ひと言。

僕はくすくす笑いながら、薄く唇を開けたまま

眠っているお姫様に、キスを落とした。

ひとしきりやわらかな感触を味わって唇を

離すと、弥凪がパチリと目を開ける。

(ただいま)

覆いかぶさったままで、そう、唇を動かすと、

彼女は照れたように笑って僕の頬に手を

伸ばした。

(おかえり。カレーあるよ)

そのひと言に反応して、僕のお腹が、くぅ~

と鳴る。そういえば、部屋の中には仄かに

カレーの匂いが漂っている。

(食べよう!)

僕は待ちきれずに、弥凪の手を引いてベッドから

起こした。





「おぉ~」

弥凪のお手製カレーを目の前にした僕は、

思わず歓喜の声を上げた。キーマカレー、と

言うのだろうか?

沢山のひき肉の中から、ところどころグリン

ピースが顔を覗かせている。

タッパーに入れてきたカレーを、僕の家の

小鍋で温めてくれたので、炊き立てのご飯の

匂いとスパイシーな香りとが相まって、いっそう

食欲をそそった。

両掌を合わせ、「いただきます」をすると、

僕はさっそく一口目のカレーを口に運んだ。

弥凪がスプーンを握ったままで、じっと顔を

覗く。僕は、もぐもぐと口の中のカレーを

咀嚼しながら、目を見開いた。

「旨い!!」

大きく頷きながらそう言うと、弥凪はホッと

したように息を吐く。決してお世辞ではなく、

弥凪のカレーは本当に美味しかった。

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