「みえない僕と、きこえない君と」
(“弥凪”という名前はね、父さんがつけて

くれたの。“凪”という字には、“風のない、

静かで穏やかな海”という意味があるから、

母さんの“弥生”という名から一文字を

もらって、弥凪。父さんは、穏やかな海

のように、平和な人生を送れるように

という願いを込めてつけたみたい。子供

のころ、授業で名前の由来を調べた時

に、聞いたの)

そう言うと、弥凪は体をかがめ、打ち寄せ

る穏やかな波と、砂との隙間に現れた、

小さな貝殻を拾い上げた。

きらきらと白く光る貝殻を手に、淡く

笑んで僕を見上げる。

「そうか。弥凪の名前の由来は、“海”から

来てるんだね。だから、海を見に来たかっ

たんだ」

ゆっくりと、弥凪にわかるようにそう言う

と、弥凪は小さく頷いて、さらに言葉を

綴った。

(わたし、父さんがつけてくれたこの名前

が、大好き。なのに、父さんは自分がこんな

名前をつけたせいで、わたしが聞くことも、

しゃべることも出来ない、静かな子になって

しまった、って後悔してる。だからね、

わたし、ちゃんと幸せになって父さんを

安心させてあげたいの。父さんがこの名前

を付けてくれたから、わたしは幸せになれ

たんだよ、って、いつか言ってあげたい。

だから、純と付き合うようになってから、

一緒に海が見たいな、って、ずっと思って

たんだ。今日は連れてきてもらえて、本当

に嬉しかった)

まるで、僕との未来は“幸せ”で満たされて

いるのだと、信じているような眼差しだっ

た。そして、そんな無垢な眼差しを受け

止めながら、どうしてか「幸せにする」と、

口に出来なかった僕は、ただただ、想いの

強さを伝えるためだけに、彼女の背を

抱き締める。

腕の中の彼女はこんなにも細く、頼りない

のに、なぜ僕よりも強く未来を見据える

ことが出来るのか。

「幸せ」という手話を知りながら、

どうして、僕の手はそのように動くこと

が出来なかったのか。

答えは、うっすらとだけど、心の奥に

滲んで見えている。

僕は抱き締める腕に力を込めると、頬を

寄せ、彼女の髪にそっと口付けた。

そして、足を濡らす波の温もりが失われ

てゆくまで、ずっと、水平線を見つめていた。






手を繋ぎ、砂浜を歩く二人の姿は、どこに

でもいる、“恋人たち”のそれだった。

だから、広くなったレジャーシートに足を

投げ出しながら、遠ざかってゆく背を見や

りながら、俺はぽつりと口にした。

「こうやって見るとさ、普通の恋人同士に

しか見えないよな、あの二人」

否。互いの足りない部分を補い合っている

ぶん、どこか、刹那的にも思えてしまう

この恋を大切に守っているぶん、普通の

恋人たちよりもずっと、“恋人”らしく見え

るかも知れない。
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