「みえない僕と、きこえない君と」

-----耳が聞こえていない。



その事実を両親が知ったのは、わたしが

1歳半のころだった。

名前を呼んでも、声をかけても、反応が薄い。

振り返らない。

そんなことは、赤ん坊のころから度々あったのだとか。

それでも、「まだ言葉がわからないからね」と、

わたしの異変はそれとなく見過ごされていた。

けれど、ある日の出来事を機に、曖昧だった

“不安”が確信に変わってしまう。

その日、母さんに連れられ近所の公園に遊びに

来ていたわたしは、敷地の外、道路を横切る

ネコの姿を見つけ、公園を飛び出してしまった。

「パッ、パー!!!」

物凄いクラクションが周囲に鳴り響き、母さんは

悲鳴を上げた。車に轢かれそうになったのだ。

幸い、わたしの目の前を一台の乗用車が通り過ぎた

だけで事なきを得たが、母さんは別の理由で

青ざめることとなった。

普通なら耳を塞ぎたくなるようなクラクション

にも、母さんの叫び声にも、わたしが反応しな

かったからだ。

慌てて連れていかれた大学病院で、検査の結果

告げられたのは、「先天性難聴」。

わたしは母さんのお腹にいる時から、音が

聞こえていなかった。

病院からの帰り道、父さんは車のハンドルを握り

ながら泣いていたのだと、後になってお婆ちゃん

から聞かされた。




医師の勧めで、(ろう)学校の幼稚部に入学したのは

3歳の時だ。

そこでは、補聴器を使用した口話(こうわ)教育や発音、

聴力訓練を受け、音が聞こえる子供たちと同じ

ような生活が送れるよう指導された。

意外に思うかもしれないが、聴力障がいを持つ

人のほとんどは、手話を話すことができない。

手話を覚えても役に立たないという理由から、

口の動きを読み取る口話を身に付けるよう教育

されるのだ。

けれど、わたしは口の動きを読むのが苦手だった。

そんな子は他にも沢山いて、耳が聞こえない者同士、

相手の口の動きを読み取ろうと腐心することになる。

結局、そのことに疲れ、コミュニケーションが

減っていたわたしに、手話を教え込んでくれたのは

母さんだった。

母さんは聴覚障がいを知ったその日からいままで、

誰よりも熱心にわたしをサポートしてくれている。

「母は強し」というその言葉を、自ら体現して

くれる母さんが、わたしは大好きだった。





家に入り、靴を脱ぐと、その音を聞きつけた

母さんがリビングから顔を出した。

濡れた手をエプロンで拭いながら、玄関先に来る。

(おかえりなさい。遅かったね)

手話で話しかけてきた母さんに、わたしは少し

迷ってから膝を見せた。

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