「みえない僕と、きこえない君と」
-----目が見えないことが、全てではない。
そのことだけに囚われていた僕の心が、彼の
ひと言で解放される。どんな僕も、“僕”なのだ。
目が見えても、見えなくても、変わらず人生は
続いて行くのだし、失うものばかりに心を向けて
いれば、共に過ごす弥凪まで、急ぎ足で人生を
生きることになってしまうだろう。
「ありがとうございます。本当に、石神さん
に相談して良かったです」
僕は、見えないとわかっていながら、彼の前
で深く頭を下げた。
「いやいや、そんな礼を言われるようなこと
では。ただ、少しでもあなたの人生が豊かで
あって欲しいという思いから、ついつい、
説教のようになってしまいました。でも、
プロポーズはされるんでしょう?気持ちは
固まっているのだから」
少し温くなったコーヒーを口に運びながら、
石神さんは訊いた。
「はい。それは、決めています。もう、指輪も
買ってしまったので」
僕は弥凪に内緒で購入した指輪を思い浮か
べながら、口元で笑んだ。彼女の趣味や指の
サイズがわからないから少し不安だが、
サイドにピンクダイヤをあしらった婚約指輪
が、ローチェストの引き出しに入っている。
ピンクダイヤは、“出会えることが奇跡”と言わ
れるほど希少なものらしく、僕は彼女と出会え
た奇跡に感謝したい思いから、それを選んだ
のだった。
「婚約指輪ですか。なんだか懐かしいですな。
わたしが妻に指輪を贈ったのは、もう何十年
も前のことだから、いまはどこにしまってい
るのやら」
ふふ、と、肩を竦めながら、それでも、幸せ
そうな笑みを浮かべる。目尻の深い皺から、
人生をゆるやかに、楽しみながら生きる彼の
様子が想像できて、僕も知らず、笑みを深めた
のだった。
その日、僕が彼女を連れて行ったのは、いつも
の総合公園だった。
(散歩に行こうか)
と、アパートに来たばかりの彼女を連れ出し
たのだ。玄関で靴を脱ごうとしていた彼女は、
一瞬、きょとん、と目を丸くしたけれど、
すぐに(いいお天気だしね)と、手話で言っ
て、そのまま僕について来てくれたのだった。
暖かな春の日差しを浴びながら、見慣れた
風景の中を歩く。鞄の奥には、この日のため
に用意した婚約指輪が入っている。
普通なら、どこか特別な場所に恋人を連れて
行き、一生思い出に残るような演出を考える
のかも知れないけれど……
僕はいつもと変わらぬ日常の中に、二人の
思い出があった方がいいのではないかと思い、
敢えてこの公園を選んだのだった。
手を繋ぎ、緑に囲まれた園路を歩く。
芝生広場を見やれば、今日も沢山の子供たち
が駆け回っている。少し先に、僕たちがよく
腰かける、あのベンチが見えた。が、僕は
そのベンチの前を通り過ぎ、彼女の手を
引いて歩き続けた。