「みえない僕と、きこえない君と」
(自転車とぶつかって、転んじゃった)

ぺろ、と舌を出し、肩を竦める。

ぶつかった、というよりも、後ろからぶつけられた

のだけど、それを言ってしまって大事(おおごと)になったら

困るので、細かいことは言わないでおいた。

(大丈夫?血が出ているじゃない)

母さんは心配そうな顔で膝を覗き込んだが、

わたしはひらひらと手を振りながら、笑って

見せた。

(大丈夫、大丈夫)

右手を胸の前でスライドさせると、母さんは

心配顔のままで頷き、部屋へと階段を上り始めた

わたしを見守った。





ベッドに座り、消毒液をしみこませたティッシュ

を傷口に当てると、ぴり、と軽く痛みを感じた。

薄く擦りむけただけで、血は少ししか出ていない。

全治3~4日の擦り傷なのに、

(うわっ、血が出てる!)と、大袈裟に言った

あの人の表情が、可笑しかった。

消毒だけでよさそうな傷だったけれど、念のため

にぺたりと絆創膏を貼って、ベッドに寝転がる。

ついさっき、渡されたばかりの名刺を眺めれば、

一見、ちょっと怖そうな人にも見えた、男性の

やさしい眼差しが思い起こされた。



------すぐに気付いてくれたな。



23年間生きてきて、初めて補聴器に気付いて

くれたその人の名を、指でなぞる。



-----羽柴 純一。



唇だけでその名を形どれば、なぜだか胸がきゅっ、

と、しまる気がした。 

自分よりも少し年上だろうか。

細面(ほそおもて)の顔立ちに、丸いサングラスがよく

似合っていた……就労支援指導員のお兄さん。

「連絡ください」と言ってくれたけど、本当に

連絡してしまってもいいのだろうか。

名刺には、事業所の電話番号と共に、メール

アドレスが記されている。電話で話すことは

出来ないから、ここにメールを送れば……




そこまで考えてわたしは、ぱたりと手を

ベッドに預けた。

まだ、仕事を辞めていないのに、次の職場を

探していいわけが、ない。

高校を卒業してから事務補助として働いて

きたいまの職場は、人間関係の躓きもあって、

居心地がいいとは言えなかった。

けれど、辞めていいものか、ずっと悩んでいる。

一歩社会に出れば、そこには色んな人がいるのだ。

やさしい人がいて、怖い人もいて、そうして、

必ず一定数の意地悪な人もいる。

その比率は、きっと数式のようにどこへ行っても

変わらなくて、その度に仕事を辞めていたら

履歴書の職務経歴がどんどん埋まってしまう。

そう、父さんに諭されてからずいぶん経って

いるのだけれど………

耳が聞こえれば、もっと上手くやっていけた

のかな?

ふと、そんなことを思ってしまったわたしは、

目を閉じてため息をついた。
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