「みえない僕と、きこえない君と」
父さんの言葉が、すべてわかったわけじゃ
ない。けれど、----“生まれたらどうする”。
そのひと言を理解できただけで、父さんが
純に何を言ったのかが、わかった。
「あなた、それを羽柴さんに言ったんで
すか?弥凪を授かった、あなたが……?」
母さんは、涙を流していた。その顔が、
みるみるうちに涙で霞み、滲んでいく。
(おやすみ)
別れ際、そう言った純は笑っていた。
たった一人で父さんの言葉を受け止めながら、
たった一人で父さんの言葉に傷つきながら、
それでも、何事もなかったかのように、彼は
あの笑みを向けてくれたのだ。
わたしは、溢れ出してしまった涙を手の甲で
拭うと、もう一度服の袖で文字を消し、新たな
文字を書き殴った。父さんを睨みつけながら、
それを見せる。わたしの言葉を読んだ瞬間、
父さんは苦しそうに顔を歪めた。
(父さんはずるいよ!純だけ捕まえてこそこそ
いじめるなんて!言いたいことがあるなら、
わたしの前で言えばいいじゃない!わたしが
いたら言えないから、キッチンに行かせたん
でしょう?やり方がきたないよ!最低だよ!)
「……弥凪」
強く噛みしめた唇が、痛かった。母さんが
涙を流したまま、宥めるようにわたしの腕を擦る。
けれど、わたしの怒りはどうにも治まらない。
傷つけるなら、わたしを傷つけて欲しかった。
だけどそうしなかったのは、わたしの前でだけ
やさしい父親の顔をしたかったからだ。
それも、許せなかった。純を傷つけたことも、
耳が聞こえなくて可哀そうだと、悲しんでばかり
いるのも、つけた名前が悪かったと、悔やんで
いることも、ぜんぶぜんぶ、父さんはわたしを
可哀そうだと思わなければならない、自分が
可哀そうなのだ。
わたしは、黙って俯いたままの父さんに、手に
していたホワイトボードを投げつけた。
「弥凪っ!!」
咄嗟に、母さんが止めようとしたが、間に
合わない。ホワイトボードは父さんの足に
ぶつかり、くるくると回りながら床を転がった。
わたしはそのまま、母さんの手を振り払って
家を飛び出した。シンシンと更けた夜空
からは、大粒の雨が落ちていたが、そんな
ことはどうだってよかった。わたしはあの笑みを
思い出しながら、ただひたすら、彼の元へと
駆けて行った。
家に帰り、風呂に温まると、ぐるぐると思考の
渦にのまれていた頭が、少しすっきりした。
僕は冷蔵庫にあった発泡酒を手に取ると、
ベッドの縁に背を預け、喉に流し込んだ。
弥凪の家でも、ずいぶん飲んだはずだったが、
緊張していたからかぜんぜん酔わなかった。
いまになって、風呂上がりの体に安酒が沁み
込んでゆく。
「栓抜き、買わなきゃな……」
僕は、弥凪の母親が持たせてくれた高そうな
ワインを思い出しながら、深くため息をついた。
ない。けれど、----“生まれたらどうする”。
そのひと言を理解できただけで、父さんが
純に何を言ったのかが、わかった。
「あなた、それを羽柴さんに言ったんで
すか?弥凪を授かった、あなたが……?」
母さんは、涙を流していた。その顔が、
みるみるうちに涙で霞み、滲んでいく。
(おやすみ)
別れ際、そう言った純は笑っていた。
たった一人で父さんの言葉を受け止めながら、
たった一人で父さんの言葉に傷つきながら、
それでも、何事もなかったかのように、彼は
あの笑みを向けてくれたのだ。
わたしは、溢れ出してしまった涙を手の甲で
拭うと、もう一度服の袖で文字を消し、新たな
文字を書き殴った。父さんを睨みつけながら、
それを見せる。わたしの言葉を読んだ瞬間、
父さんは苦しそうに顔を歪めた。
(父さんはずるいよ!純だけ捕まえてこそこそ
いじめるなんて!言いたいことがあるなら、
わたしの前で言えばいいじゃない!わたしが
いたら言えないから、キッチンに行かせたん
でしょう?やり方がきたないよ!最低だよ!)
「……弥凪」
強く噛みしめた唇が、痛かった。母さんが
涙を流したまま、宥めるようにわたしの腕を擦る。
けれど、わたしの怒りはどうにも治まらない。
傷つけるなら、わたしを傷つけて欲しかった。
だけどそうしなかったのは、わたしの前でだけ
やさしい父親の顔をしたかったからだ。
それも、許せなかった。純を傷つけたことも、
耳が聞こえなくて可哀そうだと、悲しんでばかり
いるのも、つけた名前が悪かったと、悔やんで
いることも、ぜんぶぜんぶ、父さんはわたしを
可哀そうだと思わなければならない、自分が
可哀そうなのだ。
わたしは、黙って俯いたままの父さんに、手に
していたホワイトボードを投げつけた。
「弥凪っ!!」
咄嗟に、母さんが止めようとしたが、間に
合わない。ホワイトボードは父さんの足に
ぶつかり、くるくると回りながら床を転がった。
わたしはそのまま、母さんの手を振り払って
家を飛び出した。シンシンと更けた夜空
からは、大粒の雨が落ちていたが、そんな
ことはどうだってよかった。わたしはあの笑みを
思い出しながら、ただひたすら、彼の元へと
駆けて行った。
家に帰り、風呂に温まると、ぐるぐると思考の
渦にのまれていた頭が、少しすっきりした。
僕は冷蔵庫にあった発泡酒を手に取ると、
ベッドの縁に背を預け、喉に流し込んだ。
弥凪の家でも、ずいぶん飲んだはずだったが、
緊張していたからかぜんぜん酔わなかった。
いまになって、風呂上がりの体に安酒が沁み
込んでゆく。
「栓抜き、買わなきゃな……」
僕は、弥凪の母親が持たせてくれた高そうな
ワインを思い出しながら、深くため息をついた。