「みえない僕と、きこえない君と」
その眼差しに微笑みで答え、彼女の前髪を

梳いてやる。何かを語ろうと、薄く唇が開かれ

たが、それは言葉を形作ることなく、きつく

結ばれてしまった。

(ごめんなさい。お父さんが、酷いこと言って)

手話でそう言うと、弥凪は唇を噛んだ。

僕は小さく首を振る。

確かに、父親に言われたことはショックだった

が、そう考える人の方が世の中には多いのだ

ということも、知っている。

(大丈夫だよ。少し、びっくりしたけど、

お父さんが心配するのは、当たり前だから)

僕は、わかる言葉を選びながら、手を動かす。

まだ、弥凪や咲さんのように、想いのすべてを

言葉に出来ないのが、口惜しい。

(それより、大丈夫?もしかして、お父さんと

ケンカしちゃった?)

もしかしなくてもそうなんだろうな、と、

思いつつ、弥凪の顔を覗く。

すると、弥凪は、つい、と目を逸らし、

躊躇いがちに言った。

(ケンカした。お父さんに、ホワイトボード、

投げて来た)

「ホワイトボードを、投げた!?」

僕は思わず、いまが夜中だということを忘れ、

思いきり声を上げてしまった。



ホワイトボードを投げた、って……



弥凪にそんな激情的な一面があることも

意外だったが、ただでさえ前途多難と言わ

ざる負えない状況が、より一層悪化したという

事実を聞いて、天を仰ぎたくなってしまう。

でもまあ、やってしまったものは、仕方ない。

僕は、父娘の間でオロオロしたであろう母親を

不憫に思いながら、弥凪に言った。

(お父さんも、お母さんも、いまごろ心配して

いるだろうね。送っていくから、着替えたら

家に帰ろう)

涙の跡を指でなぞりながらそう言うと、弥凪は

何度も首を振った。

(帰らない!お父さんの顔見たくないし、

純に会えなくなっちゃう!)

「会えなくなっちゃう、って……」

僕はそのひと言に一瞬、どきりとして顔を

強張らせた。-----そうか。

「結婚を認められない」というその言葉には、

「別れてくれ」という意味が内包されているのだ。

だから、弥凪はこんなにも取り乱し、僕にしがみ

ついている。僕はそこまで考えが至らず、ただ

ただ、これからどうやってお父さんに結婚を

許してもらおうか……そればかり考えていた。

僕はまた泣き出してしまいそうな弥凪の肩を

抱き、ホワイトボードに記してある手話のそれら

を、消した。そして、マーカーを手に取った。

出来ることなら、想いのすべてを手話で伝えた

いが、いまの僕に、それは出来そうにない。

僕は真っ白なそこに、すらすらと文字を綴った。
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