誘惑の延長線上、君を囲う。
───偶然に出会ったあの日を思い返す。私は日下部君がバスルームから出た後にシャワーを浴びた。髪を乾かし、部屋に戻ると日下部君は気持ち良さそうにベッドで眠りについていた。

日下部君の安堵した寝顔を見ながら、行為の最中に呼ばれた"あきばさん"と言う名前を再び思い出してしまった。

「……おいで」

ベッドには入らずに立ちながら寝顔を見つめていたら、日下部君に引き込まれた。私は躊躇いながらもベッドに入り込んだ。日下部君は私の事を抱きしめてくれた。

どうして、こんなに優しくするの?私の事なんて、これっぽっちも好きじゃないのに。身体だけでも手に入れた事に幸せを感じていたが、段々と不確かになって来た。

やっぱり、身体を繋げても心の繋がりがなければ虚しいだけなんだ。私は急に切なさが込み上げてきて、声を出さずに泣いた。

その夜は眠れずに始発が始まる時間まで起きていた。時間になると、そっとベッドから抜け出して起こさないように支度をする。楽しみにしていた朝食も気が乗らないから、予約をキャンセルして帰ってしまおう。

私は眠っている日下部君に、
「ありがとう。大好きだったよ」
と小声で投げかけて部屋を後にした。

支払いを先に済ませ、ホテルを後にした。外に出ると雨が降っていて、折り畳み傘を広げた。雨が降っていて丁度良かった。気を緩めると泣き出してしまいそうになるから、傘で顔を隠す事が出来るから。

私は日下部君に何も言わずに立ち去った。
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