想いは羽にのって
想いは羽にのって
漸く以前の生活リズムを取り戻しつつある、新学期になった高校二年生の春。一年の時より着慣れた制服に身を包む。
「姉ちゃん。はやく行こっ」
今年同じ高校に進学した弟の洋太は、心配性の自分を隠すようにいつも強気な態度でいる。おかげで、姉弟一緒に学校へ通うなんていう、シスコンみたいなことになっていた。
「急かさないで。髪型が決まらないの」
鏡の前でドライヤー片手に苦戦していると、遅刻したらどうすんだよ、と洋太は心配性らしい台詞を投げつける。
「そんなに心配なら一人で先に行きなよ」
鏡の中には、やっと決まったヘアスタイルに満足な顔をした自分がいた。
「遅刻なんて、俺ぜってー嫌だかんな」
「大丈夫だってば」
私の鞄を持って玄関先で待つ洋太は、まるでペットの犬が散歩を心待ちにしているような姿をしていた。そんな弟をちょっと可愛いと思える私も充分ブラコンだ。
「ネクタイ曲がってるよ」
まだうまく結べないネクタイを玄関先で直してあげると、母から声がかかった。
「二人とも、気を付けていってらっしゃい」
洋太はいってきますと言いながら、着慣れない制服の首元が苦しいのか少し引っ張り緩めている。さっき直した意味がない。外に出ると、朝はまだ少し冷え込む時がある四月の風が髪の毛を揺らした。
「せっかく決めたのに」
小さな呟きは、風がさらっていく。
一年の時から通る同じ道。散歩中のお爺さんに挨拶をして駅に行き、二駅だけ電車に乗る。この沿線界隈には、いくつかの中学校や高校が集まっているから、見かける制服は色とりどりだ。私が通っている高校は、女の子もネクタイを締めるブレザーだ。
「学校が近くてよかったよね」
電車に乗り洋太に話しかけると、やたらとスマホで時刻を確認している。ホント、心配性なんだから。
「楽しいことでも考えたら?」
時間ばかり気にしている洋太は、それでも素直にスマホでゲームを始めた。
電車を降りて渡る大きなスクランブル交差点では、学生も会社員も縦横無尽にすれ違う。横断歩道の前で立ち止まり、私は今日も青になる瞬間を心待ちにした。
今日も逢えますように。
「なんか言った?」
洋太が問いかける。心の声が駄々洩れだったみたいだ。
一年生の夏だった。長い休みが明けてから、すれ違う中にいる彼に目がとまるようになっていた。特に何かあったわけじゃない。ホント一瞬。ただすれ違ったその瞬間。私の目は彼の存在に惹きつけられた。
朝の光に透ける、少し茶色く見えるサラリとした髪の毛。笑うとなくなりそうな目。その目元にある黒子に気づいたのは、偶然真横を通り過ぎる瞬間があった時だった。近づいた距離に心臓が跳ね上がり、声を上げそうになったほど嬉しかった。彼の黒子に気がついた日は、ご褒美をもらったみたいに心が躍った。
彼は、いつも二人ほどの友達と楽しそうに会話をしながら交差点を渡っていた。すぐそばを通り過ぎたいけれど、あまり近づくのは怖くて、距離をとってチラチラと見てばかりいた。
いつもどんな話をしているんだろう。楽しそうだな。
時々見惚れすぎて、視線が合いそうになり慌てて逸らすこともあった。相手は、私のことなんて少しも見てなどいのかもしれないけれど、それでもやっぱり恥ずかしくて、ドキドキしてサッと目を伏せてしまう。好きが体中で声を上げていた。
別の高校の制服は、異国の人みたいで遠く思えて切ない。
「姉ちゃん。なぁ、姉ちゃん」
洋太にかけられた声で我に返ると、信号が青になっていた。彼のことを考えすぎて、ぼんやりしていた。
洋太に促されて横断歩道に踏み出すと、斜め右側にこちらへ向かって歩いてくる彼の姿が見えた。
「いた」
小さく漏らした呟きをとらえた洋太が、私の視線の先を辿る。
「あいつのこと?」
何も知らない洋太が彼を指さすから、慌てて抑え込んだ。
「ちょっ、洋太ダメっ!」
「姉ちゃんの好きな男なのか?」
更に、デリカシーの欠片もない音量で言う弟の口を塞ぐ。
「いいから、行くよっ」
彼に変な女子だと思われたかな……。
下手な乙女心をバタつかせて、余計なことを口走る洋太の袖を引っ張りながら横断歩道を走って渡りきる。
一日の中で、唯一彼と会える瞬間だったのに台無しだ。悔しさに心の中で歯噛みしつつ、肩を落として学校へと向かった。
毎朝日課となった弟との登校は、すでに一か月以上が過ぎていた。
「ねぇ。そろそろ一人で行ったら?」
彼に逢える朝のルーティンに弟との日課がプラスされたせいで、見惚れる時間が減っていた。それに、またいつ余計なことを言われるかわからない。
「俺ってお邪魔虫?」
ニヤニヤとした表情は、私の想いをからかっているのだろう。
「お邪魔虫かどうか、わかんねえよ」
「なによ、それ」
どうせ余計なことしか言わないでしょ。
猜疑心丸出しの目で見ていると、俺の背中には翼があるかもよ、なんて言いながらローファーを履いて弾むように玄関を出て行く。エナジードリンクのCMが頭に浮かんで苦笑いがもれた。
いつもの交差点。いつもの信号待ち。彼の姿を探す私の瞳。……と弟の洋太。
「声。かけてみたらいいじゃん」
他人事だと思って簡単に言うんだから。
「それができたら悩まない」
私だって、話し掛けられたらどんなにいいか。
信号が青に変わった。洋太が制服のポケットに手を入れたまま、弾むようにして足を前に繰り出す。その背を追いかけるようにして歩きだすと、どんどん彼のいる方へと近づいて行った。
「ちょっと洋太っ」
慌てて引き留めようとしたけれど、全く聞く耳を持たない。私から離れ彼の傍に近づいた洋太が、何かしやしないかとヒヤヒヤものだ。けれど、洋太はシラッとした顔で、彼の横を通り過ぎただけだった。追いついた私が洋太の横に並ぶと、ニヤッとした顔を向けて口を開いた。
「今度ライブするらしいよ」
どうやら、彼と友達の会話を盗み聞きしに行ったみたいだ。
「ライブって、バンドでもしてるの?」
「ギターやってるって話してた」
洋太からの情報に、脳内では瞬時に彼がギターを抱えて弾く姿を映し出す。
「かっこいい……」
うっとりするように呟く横で「重症だな」と洋太はケタケタ笑った。気がつけば、ぼんやりと彼のことを見たまま立ち止まっていた。
「赤になるよ」
洋太にかけられた声にハッとして足を動かす。
「まっ、待って。洋太」
私の声に、彼が一瞬こちらを見た気がした。
洋太のおかげで、彼のことをまた一つ知ることができた。軽音部に入ってるのか。それとも、個人的にバンドを組んでるのか。
ライブ、観に行きたいな。
夕ご飯を食べ終わり、リビングのソファでテレビを観ていた。バラエティ番組に顔を綻ばせていると、何か後ろ手にした洋太が来た。
「ライブ、観に行きたくなってんだろ」
洋太が私の顔を窺うようにして見てくる。
そりゃあ、観に行けるものなら行きたいけれど。彼の組んでいるバンド名も知らなければ、いつどこでやるのかも知らないのだからお手上げだ。
「俺、日程とか知ってるよ」
「えっ。なんで!?」
まさかの一言に、素っ頓狂な声を出してしまった。
「今日の帰りに、あいつと一緒にいた友達見かけて。フライヤー持ってたから貰ってきた」
後ろ手にしていたのは、それだったのか。
心配性のわりに行動力のある弟に、開いた口が塞がらない。しかし、その情報。喉から手が出るほど欲しい。
「ねぇねぇ。洋太君。そのフライヤー、お姉ちゃんに頂戴よぉ」
猫撫で声で手を伸ばすと、サッとフライヤーが離れていく。
「来月発売のゲーム買うのに、あと千円足りないんだよねぇ~」
人の懐を探ってきたな、策士め。けれど、背に腹は代えられない。
「わかった。それで手を打つ。だから、そのフライヤー頂戴」
「交渉成立」
洋太から受け取ったフライヤーには、来週末の日程と場所。彼が組んでいるだろうバンド名が載っていた。
「Decided to Blue」
青に決めた? バンド名の由来はよく理解できなかったけれど、Gt.と書かれたところにある名前には釘付けになった。
「宇野青斗」
だから、Decided to Blue?
宇野青斗君。
名前を知ることができて有頂天になる。
宇野青斗君。宇野君。青斗君っ。
心の中で呼んだ名前に、ソファの上でバタバタと暴れ顔を赤くして身もだえる私だった。
ライブ当日。不安な私は、洋太を引き連れて少し早めに家を出た。
「俺は、中に入らないからな」
ここから先は一人で行けと、ライブ会場のある駅に着いてから向かっている間中、洋太は何度も念を押してくる。ライブなど観たら、お目当てのゲームソフトが買えなくなるからだろう。私も洋太に千円渡すことになっているし、二人分のチケット代を出す余裕はない。それでも、入り口まで洋太がついて来てくれるなら心強い。
時間に余裕もあり、見知らぬ街の風景に目をやりつつ地図を見ながら目的地に向かっていると、あまりの緊張にトイレに行きたくなってしまった。だって、これから青斗君に逢えるんだもん。緊張しない方がおかしい。青斗君は、どんな顔をしてステージに立つのだろう。どんな風にギターを弾くのだろう。コーラスもやるのかな。期待が膨らんでいくのと一緒に高まる緊張感。
「洋太。ちょっとトイレ」
近くのコンビニを目で示すと、呆れながら笑って付いてきてくれた。
「ちょっと待っててね」
雑誌のところに立つ洋太に声をかけた時だった。
「あおっ、シュークリームも買って」
通るような女性の声が店内にした。その声に反応して視線を向けると、一番奥にあるドリンクコーナーに、ジーンズにロンTという普段着姿の青斗君がいた。
「うそ」
つい漏れた私の声に、洋太も気がつき同じように彼へと視線をやる。
彼の隣には、同じくらいか。少しだけ年上に見える女性がとても親しげにそばにいて、楽しげな表情で顔を近づけるように会話していた。
「ライブ前にシュークリームって」
「甘いものは正義よ」
「はいはい」
会話はとてもテンポがよく。女の人は、クスクスと笑みを漏らし、彼の髪の毛をクシャリとさせた。やられた彼は「やめろって」と言いながら満更でもなく笑っている。
「……洋太。行こ……」
二人から視線を逸らし、私は足早にコンビニの出口を目指す。
「待てって」
追いかけてきた洋太が声を上げても、私は振り返ることなく店を出た。
「帰る……」
店から数歩のところで立ち止まり、追いついた洋太に告げた。
「あー、あれは。きっとただの友達だって」
慌てながらも慰めようと、洋太は彼の状況を取り繕ってくれる。けど、無理だよ。あんなに仲良さそうなところ見ちゃったら無理。
「そりゃそうだよね。あんなにかっこいいんだもん。彼女がいて当たり前だよね。勝手に一人で盛り上がってウキウキして。挙句こんなところまで来ちゃって。痛すぎるよね……」
言葉にすればするほど自分がバカみたいで、情けなくて。苦しくて、辛くて。浮かんできた涙が目の前を歪ませていく。
「まだわかんねぇじゃん。そうだっ。今、告って来いよ」
「はっ!? 何言ってんのよ」
「思い込みだけで撃沈してないで、気持ち伝えて来いって言ってんの」
「あんなに大人っぽくて綺麗な彼女がいるのに、なんで告白しなくちゃなんないのよ」
「じゃあ、なんで泣きそうになってんだよ。それでも好きだから泣きそうになってんだろ。そんな気持ち、このまま宙ぶらりんにしとく気かよ。好きなら好きって言ってから撃沈して来いよ」
なによ。撃沈て。フラれること前提じゃないのよ。
グズッと鼻を鳴らしたところで、彼が彼女と一緒にコンビニを出てこちらに向かってきた。彼女はさっき買ったシュークリームを袋から出し一口食べると、あーん。と言って青斗君の口へと持ってく。そこで私と視線が合った。彼は酷く驚き、慌てて彼女から離れた。頬が少し引き攣っている。きっと、甘える彼女とのやり取りを、見知らぬ女に見られて気まずいのだろう。
彼は表情歪ませたまま、私のことを見ていた。
向こうに行ってるからと耳元で囁いた洋太が、告白を促し離れていった。
残された私と、向かい側に立つ彼と彼女。三人のいる場所だけが、おかしな空気に包まれていた。
「あお。先に行ってるからね」
どんな気の回し方をしたのか解らないけれど、一緒にいた彼女が彼の肩にポンと手を置き私の横を通り過ぎて行った。シャンプーの香りが鼻腔を掠め、いつもこの香りの傍に寄り添っているだろう彼を想像してまた涙が込み上げてくる。
離れた場所に立つ洋太が、早く告っちまえとばかりに手を動かしジェスチャーしてみせる。
ずっと彼のことばかり、目で追いかけてきた。毎朝すれ違うことしかできなくて。会話が聞こえた日には嬉しくてたまらなかった。声を聞けた時の胸の高鳴り。黒子の存在に気がついた時の幸せな気持ち。ほんの少しのことで有頂天になっていた。ギターをしていることが解り。バンド名を知り。彼の名前を知り、口にした。宇野青斗君。サラサラの髪の毛に、目がなくなっちゃう笑い顔。毎朝会えることが嬉しくて。会えない日は落ち込んで。彼に一喜一憂してきた。
彼が好き。
もう一度洋太を見る。力強く頷き、頑張れと拳を握っている。そうだよね。気持ちくらい伝えないと、想い続けた自分が可哀相だよ。ちゃんと告白して、私が毎日どんな気持ちでいたのか知ってもらいたい。
「あのっ」
突如上げた私の声に、彼がビクッとして背筋を伸ばした。
「あなたのことが好きです。私のことなんて知らないかもしれないけど。素敵な彼女さんがいても。私、あなたのことが好きですっ」
言っちゃった……。フラれるの解ってて告白しちゃった。
頑張った自分を褒めてあげよう。しばらくは立ち直れないだろうし。気持ちが落ち着くまで、彼の顔を見なくていいように、これからは横断歩道のずっと端の方を離れて歩こうかな。それより、少しだけ登校時間をずらそうかな。彼の顔を見ちゃったら、きっと未練タラタラで泣けちゃうし。
既に涙は、瞳の前で零れだすのを待ち構えるように膨らんでいた。
その時、ヒュッと息を吸う音が目の前から聞こえてきた。
「おっ、俺も好きですっ」
そうだよね。俺も、好き……。えっ?
「好きっ!?」
驚く私の顔に向かって、彼が首を縦に振った。
「え? なんで? えっ。だって、さっきの彼女」
「あれは姉き。一緒にバンドしてて、ボーカルしてる」
「へ?」
思いもよらない話の展開に、間の抜けた表情になってしまった。
「君こそ。新学期になってから、彼氏できたよね……」
彼は洋太のいる場所を振り返る。
「あれは、弟の洋太……」
「へ?」
お互いの勘違いに目を合わせ、少しずつ笑いが込み上げる。
「二人で勘違いしてたんだ」
何やってんだ俺。と彼が笑う。私もクスクスと笑った。
「これからライブなんだ」
彼の言葉に持っていたチケットを見せると、大好きなクシャリとした笑みをくれた。
「行こう」
優しい笑みで促す彼に頷き、彼の横に並ぶ。
離れた場所に立つ洋太の背中に羽が見えた気がして、うちの弟は最高のキューピッドだったと笑みが漏れた。
「姉ちゃん。はやく行こっ」
今年同じ高校に進学した弟の洋太は、心配性の自分を隠すようにいつも強気な態度でいる。おかげで、姉弟一緒に学校へ通うなんていう、シスコンみたいなことになっていた。
「急かさないで。髪型が決まらないの」
鏡の前でドライヤー片手に苦戦していると、遅刻したらどうすんだよ、と洋太は心配性らしい台詞を投げつける。
「そんなに心配なら一人で先に行きなよ」
鏡の中には、やっと決まったヘアスタイルに満足な顔をした自分がいた。
「遅刻なんて、俺ぜってー嫌だかんな」
「大丈夫だってば」
私の鞄を持って玄関先で待つ洋太は、まるでペットの犬が散歩を心待ちにしているような姿をしていた。そんな弟をちょっと可愛いと思える私も充分ブラコンだ。
「ネクタイ曲がってるよ」
まだうまく結べないネクタイを玄関先で直してあげると、母から声がかかった。
「二人とも、気を付けていってらっしゃい」
洋太はいってきますと言いながら、着慣れない制服の首元が苦しいのか少し引っ張り緩めている。さっき直した意味がない。外に出ると、朝はまだ少し冷え込む時がある四月の風が髪の毛を揺らした。
「せっかく決めたのに」
小さな呟きは、風がさらっていく。
一年の時から通る同じ道。散歩中のお爺さんに挨拶をして駅に行き、二駅だけ電車に乗る。この沿線界隈には、いくつかの中学校や高校が集まっているから、見かける制服は色とりどりだ。私が通っている高校は、女の子もネクタイを締めるブレザーだ。
「学校が近くてよかったよね」
電車に乗り洋太に話しかけると、やたらとスマホで時刻を確認している。ホント、心配性なんだから。
「楽しいことでも考えたら?」
時間ばかり気にしている洋太は、それでも素直にスマホでゲームを始めた。
電車を降りて渡る大きなスクランブル交差点では、学生も会社員も縦横無尽にすれ違う。横断歩道の前で立ち止まり、私は今日も青になる瞬間を心待ちにした。
今日も逢えますように。
「なんか言った?」
洋太が問いかける。心の声が駄々洩れだったみたいだ。
一年生の夏だった。長い休みが明けてから、すれ違う中にいる彼に目がとまるようになっていた。特に何かあったわけじゃない。ホント一瞬。ただすれ違ったその瞬間。私の目は彼の存在に惹きつけられた。
朝の光に透ける、少し茶色く見えるサラリとした髪の毛。笑うとなくなりそうな目。その目元にある黒子に気づいたのは、偶然真横を通り過ぎる瞬間があった時だった。近づいた距離に心臓が跳ね上がり、声を上げそうになったほど嬉しかった。彼の黒子に気がついた日は、ご褒美をもらったみたいに心が躍った。
彼は、いつも二人ほどの友達と楽しそうに会話をしながら交差点を渡っていた。すぐそばを通り過ぎたいけれど、あまり近づくのは怖くて、距離をとってチラチラと見てばかりいた。
いつもどんな話をしているんだろう。楽しそうだな。
時々見惚れすぎて、視線が合いそうになり慌てて逸らすこともあった。相手は、私のことなんて少しも見てなどいのかもしれないけれど、それでもやっぱり恥ずかしくて、ドキドキしてサッと目を伏せてしまう。好きが体中で声を上げていた。
別の高校の制服は、異国の人みたいで遠く思えて切ない。
「姉ちゃん。なぁ、姉ちゃん」
洋太にかけられた声で我に返ると、信号が青になっていた。彼のことを考えすぎて、ぼんやりしていた。
洋太に促されて横断歩道に踏み出すと、斜め右側にこちらへ向かって歩いてくる彼の姿が見えた。
「いた」
小さく漏らした呟きをとらえた洋太が、私の視線の先を辿る。
「あいつのこと?」
何も知らない洋太が彼を指さすから、慌てて抑え込んだ。
「ちょっ、洋太ダメっ!」
「姉ちゃんの好きな男なのか?」
更に、デリカシーの欠片もない音量で言う弟の口を塞ぐ。
「いいから、行くよっ」
彼に変な女子だと思われたかな……。
下手な乙女心をバタつかせて、余計なことを口走る洋太の袖を引っ張りながら横断歩道を走って渡りきる。
一日の中で、唯一彼と会える瞬間だったのに台無しだ。悔しさに心の中で歯噛みしつつ、肩を落として学校へと向かった。
毎朝日課となった弟との登校は、すでに一か月以上が過ぎていた。
「ねぇ。そろそろ一人で行ったら?」
彼に逢える朝のルーティンに弟との日課がプラスされたせいで、見惚れる時間が減っていた。それに、またいつ余計なことを言われるかわからない。
「俺ってお邪魔虫?」
ニヤニヤとした表情は、私の想いをからかっているのだろう。
「お邪魔虫かどうか、わかんねえよ」
「なによ、それ」
どうせ余計なことしか言わないでしょ。
猜疑心丸出しの目で見ていると、俺の背中には翼があるかもよ、なんて言いながらローファーを履いて弾むように玄関を出て行く。エナジードリンクのCMが頭に浮かんで苦笑いがもれた。
いつもの交差点。いつもの信号待ち。彼の姿を探す私の瞳。……と弟の洋太。
「声。かけてみたらいいじゃん」
他人事だと思って簡単に言うんだから。
「それができたら悩まない」
私だって、話し掛けられたらどんなにいいか。
信号が青に変わった。洋太が制服のポケットに手を入れたまま、弾むようにして足を前に繰り出す。その背を追いかけるようにして歩きだすと、どんどん彼のいる方へと近づいて行った。
「ちょっと洋太っ」
慌てて引き留めようとしたけれど、全く聞く耳を持たない。私から離れ彼の傍に近づいた洋太が、何かしやしないかとヒヤヒヤものだ。けれど、洋太はシラッとした顔で、彼の横を通り過ぎただけだった。追いついた私が洋太の横に並ぶと、ニヤッとした顔を向けて口を開いた。
「今度ライブするらしいよ」
どうやら、彼と友達の会話を盗み聞きしに行ったみたいだ。
「ライブって、バンドでもしてるの?」
「ギターやってるって話してた」
洋太からの情報に、脳内では瞬時に彼がギターを抱えて弾く姿を映し出す。
「かっこいい……」
うっとりするように呟く横で「重症だな」と洋太はケタケタ笑った。気がつけば、ぼんやりと彼のことを見たまま立ち止まっていた。
「赤になるよ」
洋太にかけられた声にハッとして足を動かす。
「まっ、待って。洋太」
私の声に、彼が一瞬こちらを見た気がした。
洋太のおかげで、彼のことをまた一つ知ることができた。軽音部に入ってるのか。それとも、個人的にバンドを組んでるのか。
ライブ、観に行きたいな。
夕ご飯を食べ終わり、リビングのソファでテレビを観ていた。バラエティ番組に顔を綻ばせていると、何か後ろ手にした洋太が来た。
「ライブ、観に行きたくなってんだろ」
洋太が私の顔を窺うようにして見てくる。
そりゃあ、観に行けるものなら行きたいけれど。彼の組んでいるバンド名も知らなければ、いつどこでやるのかも知らないのだからお手上げだ。
「俺、日程とか知ってるよ」
「えっ。なんで!?」
まさかの一言に、素っ頓狂な声を出してしまった。
「今日の帰りに、あいつと一緒にいた友達見かけて。フライヤー持ってたから貰ってきた」
後ろ手にしていたのは、それだったのか。
心配性のわりに行動力のある弟に、開いた口が塞がらない。しかし、その情報。喉から手が出るほど欲しい。
「ねぇねぇ。洋太君。そのフライヤー、お姉ちゃんに頂戴よぉ」
猫撫で声で手を伸ばすと、サッとフライヤーが離れていく。
「来月発売のゲーム買うのに、あと千円足りないんだよねぇ~」
人の懐を探ってきたな、策士め。けれど、背に腹は代えられない。
「わかった。それで手を打つ。だから、そのフライヤー頂戴」
「交渉成立」
洋太から受け取ったフライヤーには、来週末の日程と場所。彼が組んでいるだろうバンド名が載っていた。
「Decided to Blue」
青に決めた? バンド名の由来はよく理解できなかったけれど、Gt.と書かれたところにある名前には釘付けになった。
「宇野青斗」
だから、Decided to Blue?
宇野青斗君。
名前を知ることができて有頂天になる。
宇野青斗君。宇野君。青斗君っ。
心の中で呼んだ名前に、ソファの上でバタバタと暴れ顔を赤くして身もだえる私だった。
ライブ当日。不安な私は、洋太を引き連れて少し早めに家を出た。
「俺は、中に入らないからな」
ここから先は一人で行けと、ライブ会場のある駅に着いてから向かっている間中、洋太は何度も念を押してくる。ライブなど観たら、お目当てのゲームソフトが買えなくなるからだろう。私も洋太に千円渡すことになっているし、二人分のチケット代を出す余裕はない。それでも、入り口まで洋太がついて来てくれるなら心強い。
時間に余裕もあり、見知らぬ街の風景に目をやりつつ地図を見ながら目的地に向かっていると、あまりの緊張にトイレに行きたくなってしまった。だって、これから青斗君に逢えるんだもん。緊張しない方がおかしい。青斗君は、どんな顔をしてステージに立つのだろう。どんな風にギターを弾くのだろう。コーラスもやるのかな。期待が膨らんでいくのと一緒に高まる緊張感。
「洋太。ちょっとトイレ」
近くのコンビニを目で示すと、呆れながら笑って付いてきてくれた。
「ちょっと待っててね」
雑誌のところに立つ洋太に声をかけた時だった。
「あおっ、シュークリームも買って」
通るような女性の声が店内にした。その声に反応して視線を向けると、一番奥にあるドリンクコーナーに、ジーンズにロンTという普段着姿の青斗君がいた。
「うそ」
つい漏れた私の声に、洋太も気がつき同じように彼へと視線をやる。
彼の隣には、同じくらいか。少しだけ年上に見える女性がとても親しげにそばにいて、楽しげな表情で顔を近づけるように会話していた。
「ライブ前にシュークリームって」
「甘いものは正義よ」
「はいはい」
会話はとてもテンポがよく。女の人は、クスクスと笑みを漏らし、彼の髪の毛をクシャリとさせた。やられた彼は「やめろって」と言いながら満更でもなく笑っている。
「……洋太。行こ……」
二人から視線を逸らし、私は足早にコンビニの出口を目指す。
「待てって」
追いかけてきた洋太が声を上げても、私は振り返ることなく店を出た。
「帰る……」
店から数歩のところで立ち止まり、追いついた洋太に告げた。
「あー、あれは。きっとただの友達だって」
慌てながらも慰めようと、洋太は彼の状況を取り繕ってくれる。けど、無理だよ。あんなに仲良さそうなところ見ちゃったら無理。
「そりゃそうだよね。あんなにかっこいいんだもん。彼女がいて当たり前だよね。勝手に一人で盛り上がってウキウキして。挙句こんなところまで来ちゃって。痛すぎるよね……」
言葉にすればするほど自分がバカみたいで、情けなくて。苦しくて、辛くて。浮かんできた涙が目の前を歪ませていく。
「まだわかんねぇじゃん。そうだっ。今、告って来いよ」
「はっ!? 何言ってんのよ」
「思い込みだけで撃沈してないで、気持ち伝えて来いって言ってんの」
「あんなに大人っぽくて綺麗な彼女がいるのに、なんで告白しなくちゃなんないのよ」
「じゃあ、なんで泣きそうになってんだよ。それでも好きだから泣きそうになってんだろ。そんな気持ち、このまま宙ぶらりんにしとく気かよ。好きなら好きって言ってから撃沈して来いよ」
なによ。撃沈て。フラれること前提じゃないのよ。
グズッと鼻を鳴らしたところで、彼が彼女と一緒にコンビニを出てこちらに向かってきた。彼女はさっき買ったシュークリームを袋から出し一口食べると、あーん。と言って青斗君の口へと持ってく。そこで私と視線が合った。彼は酷く驚き、慌てて彼女から離れた。頬が少し引き攣っている。きっと、甘える彼女とのやり取りを、見知らぬ女に見られて気まずいのだろう。
彼は表情歪ませたまま、私のことを見ていた。
向こうに行ってるからと耳元で囁いた洋太が、告白を促し離れていった。
残された私と、向かい側に立つ彼と彼女。三人のいる場所だけが、おかしな空気に包まれていた。
「あお。先に行ってるからね」
どんな気の回し方をしたのか解らないけれど、一緒にいた彼女が彼の肩にポンと手を置き私の横を通り過ぎて行った。シャンプーの香りが鼻腔を掠め、いつもこの香りの傍に寄り添っているだろう彼を想像してまた涙が込み上げてくる。
離れた場所に立つ洋太が、早く告っちまえとばかりに手を動かしジェスチャーしてみせる。
ずっと彼のことばかり、目で追いかけてきた。毎朝すれ違うことしかできなくて。会話が聞こえた日には嬉しくてたまらなかった。声を聞けた時の胸の高鳴り。黒子の存在に気がついた時の幸せな気持ち。ほんの少しのことで有頂天になっていた。ギターをしていることが解り。バンド名を知り。彼の名前を知り、口にした。宇野青斗君。サラサラの髪の毛に、目がなくなっちゃう笑い顔。毎朝会えることが嬉しくて。会えない日は落ち込んで。彼に一喜一憂してきた。
彼が好き。
もう一度洋太を見る。力強く頷き、頑張れと拳を握っている。そうだよね。気持ちくらい伝えないと、想い続けた自分が可哀相だよ。ちゃんと告白して、私が毎日どんな気持ちでいたのか知ってもらいたい。
「あのっ」
突如上げた私の声に、彼がビクッとして背筋を伸ばした。
「あなたのことが好きです。私のことなんて知らないかもしれないけど。素敵な彼女さんがいても。私、あなたのことが好きですっ」
言っちゃった……。フラれるの解ってて告白しちゃった。
頑張った自分を褒めてあげよう。しばらくは立ち直れないだろうし。気持ちが落ち着くまで、彼の顔を見なくていいように、これからは横断歩道のずっと端の方を離れて歩こうかな。それより、少しだけ登校時間をずらそうかな。彼の顔を見ちゃったら、きっと未練タラタラで泣けちゃうし。
既に涙は、瞳の前で零れだすのを待ち構えるように膨らんでいた。
その時、ヒュッと息を吸う音が目の前から聞こえてきた。
「おっ、俺も好きですっ」
そうだよね。俺も、好き……。えっ?
「好きっ!?」
驚く私の顔に向かって、彼が首を縦に振った。
「え? なんで? えっ。だって、さっきの彼女」
「あれは姉き。一緒にバンドしてて、ボーカルしてる」
「へ?」
思いもよらない話の展開に、間の抜けた表情になってしまった。
「君こそ。新学期になってから、彼氏できたよね……」
彼は洋太のいる場所を振り返る。
「あれは、弟の洋太……」
「へ?」
お互いの勘違いに目を合わせ、少しずつ笑いが込み上げる。
「二人で勘違いしてたんだ」
何やってんだ俺。と彼が笑う。私もクスクスと笑った。
「これからライブなんだ」
彼の言葉に持っていたチケットを見せると、大好きなクシャリとした笑みをくれた。
「行こう」
優しい笑みで促す彼に頷き、彼の横に並ぶ。
離れた場所に立つ洋太の背中に羽が見えた気がして、うちの弟は最高のキューピッドだったと笑みが漏れた。