心の刃 -忠臣蔵異聞-
第11章 暗 闘
一
武太夫は忠義への報告の為、京都にいる多都馬の許へ来ていた。
拠点にたどり着いた武太夫は、疲れ切って畳の上で大の字になって横たわる。
「ご苦労なことだな。江戸と京都を行ったり来たりと・・・。」
息も絶え絶えの武太夫の耳に多都馬の言葉は届かない。
「大石内蔵助、早速何者かに狙われたぞ。」
「何!」
内蔵助の命が何者かに狙われたことを聞いた武太夫は己の体の疲れを忘れて跳び起きる。そして周章狼狽し、顔を真っ赤にし部屋の中を右往左往し始める。
「そう慌てるな。」
「慌てるなだとぉ。我等の他に大石を狙う奴がおるのだぞ。」
武太夫は、さらに顔を赤くして多都馬に詰め寄る。
「まだ、始まったばかりだ。あの程度のことでいちいち騒いでおったら、いらぬ心配を殿にさせることになる。」
「そ・・・そうかの。」
多都馬の言葉で一応の落ち着きを武太夫は取り戻した。
「しかし、刺客はどこの配下の者なのかのぉ・・・。」
多都馬は、刺客たちの素性を敢えて武太夫には教えなかった。しかし、大体の想像はついていた。内蔵助を襲った三人は、明らかに柳生新陰流の遣い手。
― あれが噂に聞く裏柳生。 ―
そして、それらを使うことが出来る人物となれば一人しかいない。
― 側用人/柳沢吉保 ―
二階堂平法の同門だった石堂兵衛は当然、柳沢に雇われていることになる。
― それにしても柳沢の動きが早すぎる。こっちは、まだ何も掴んでいない。それほど、大石という男を恐れているということか。―
多都馬は武太夫に、江戸にいる長兵衛に人手を少し増やすよう言伝を頼んだ。
二
兵衛と美郷は山科より急ぎ立ち戻り、柳沢家上屋敷で出仕前の吉保に大石暗殺が失敗に終わったことを告げていた。
「大石を、ちと甘うみておりました。」
「大石という男、それほどの者であったか。」
「柳生の手練れを、手にした扇子でやすやすと・・・。某もあまりの出来事に呆然としてしまいました。」
吉保は兵衛の言葉に苦笑いを浮かべた。
「やはり昼行燈とは己の才を隠す方便かと・・・。」
「凡庸を装う非凡な男ということか?」
兵衛は、黙って頷いた。
「やはり、あるか?」
「はい。大石のあの放蕩ぶり、某には通用致しませぬ。」
兵衛の報告に吉保は、眉間のしわを一層深くする。
「それと柳生は最早、使いものになりませぬ。拙者の一存にてお役御免にいたしました。」
「実はワシもそれほど期待はしていなかったのだが・・・そうか、使いものにならぬか。」
「柳生は上様の御採決に不満なようです。裏柳生の頭目、柳生又八郎の剣には迷いがある。その迷いは配下の者たちへ伝染し動きを鈍らせておりました。」
「少々回りくどかったが此度は、大石の才量を知れただけでも良しとせねばならんな。」
「小藩の柳生でさえこの有様。思いの他、動きづろうござります。」
「次が勝負じゃ。配下の木造伊兵衛を使わす。お主と美郷も同行いたせ。」
「その者、使えますか?」
「元は忍びの者でな、これまでにも表に出来ぬ裏働きを数多くこなしておる。柳生とは違う、心配致すな。」
よほどの自信があるのか、吉保は薄ら笑いを浮かべていた。
「お言葉では御座いますが、大石を葬るのは我等だけにお任せ頂き等存じます。」
「お主たちは、ワシにとっての切り札じゃ。出番はもう少し後でよい。」
悠長な吉保の物言いに兵衛は呆れてしまう。向こうには多都馬が付いているのだ。
「御前。ひとつお耳に入れたき事がございます。」
「何だ?」
「大石側には、かつて私と同門だった男がついております。」
「大石の警護をしておるというのか?」
「いえ。まだ委細は不明でございますが、我等と大石の間に割って入りましたので・・・。」
「その男、遣い手か?」
「はい・・・。その上、切れ者故、油断出来ませぬ。」
「厄介な相手になりそうじゃの。」
「私の背後に御前がいる事も、察していることと存じます。」
「伊兵衛では相手にならぬと申すか。」
「御意。」
吉保は兵衛に下知を下さぬまま、険しい表情で部屋を出て行った。
美郷は兵衛と吉保のやり取りから、黛多都馬が自分たちの脅威になることを感じていた。
三
江戸城本丸の御用部屋で吉保は、水戸藩主/徳川綱條と甲府宰相/徳川綱豊(家宣)の到着を待っていた。
用向きは不明だが、急遽二人に呼び出されたのである。
御用部屋の外から綱條と綱豊の談笑する声が聞こえ、吉保は平伏して部屋に入って来るのを待った。
綱條と綱豊は入室して吉保の上座に座った。
「吉保、随分やつれておるの。滋養のあるものを食せねばならんと、いつも申しておろうが。」
「はっ。御心配頂き痛み入ります。」
― 水戸のじじいのような物言いを・・・。遠回しに生類憐みの令を皮肉っておるのか。―
綱條の言葉に握っていた扇子に力を込めた。
「今日、お主を呼んだのは他でもない。今、世情を賑わせておる赤穂の浪士共のことだ。」
「浪士共が何か?」
「ん?お主の耳には入っておらんのか。不思議じゃの~。お主の耳には、いの一番に入っていると思うたが。」
「申し訳ございませぬ。」
― いちいち癇に障る物言いじゃ。―
「先の刃傷において斬りつけた吉良上野介を、討ち漏らした主に替わって旧家臣たちが狙うと専らの噂だ。」
綱豊は厳しい表情で吉保に言う。
「なんだ、本当に知らぬのか?」
綱條がとぼけた様子で吉保の顔を覗き込んだ。
「あぁ。その噂なれば根も葉も無い故、取るに足らんと思い気にもせず捨て置きました。」
「何故、根も葉もない噂と言い切るのだ。お主は、その根拠があると申すのだな。」
綱豊は言いながら、吉保の腹の内を探るように見つめている。
「松の廊下での刃傷沙汰。上様が直々に採決いたしております。上野介を討つということは、上様に対し弓引くことと相成りましょう。そのようなことは決して起こらぬと考えております。」
吉保は綱條と綱豊をやり込めたという満足感に浸っていた。
「吉保。そのほうは心得違いをしておる。」
「は?」
綱條は、先程の穏やかな表情から一変し険しい表情に変っていた。
「上様というのは、我等の主であって赤穂浪士共の主ではない。」
「恐れながら申し上げます。私は大名ならびに家臣、その郎党に至るまで日本国中全て上様の臣であると思うておりまするが・・・。」
「吉保、それは表向きの話よ。」
「は?」
「藩主とその家臣には生を受けてから今日まで築いた絆がある。上様に藩士やその郎党どもと同じ絆があるか?」
吉保は、綱條に返す言葉を失い黙ってしまう。
「そのような時に各藩の大名たちも、赤穂の浪士たちがいつ吉良を討ちに来るのかと気にかけておるのだ。」
― それがどうしたというのだ。此奴等め、何を企んでおる。―
「そこでだ。」
綱條の表情が再び穏やかな表情に戻る。
「蜂須賀飛騨守と松平弾正忠の屋敷が、吉良の両隣にある。」
「はい。」
「屋敷の両隣となれば討ち入りの噂で家臣共々、戦々恐々としておるらしい。合わせて日々の警戒に掛かる費用が尋常ではないと、ここにおる綱豊殿を頼り吉良の屋敷替えを願い出て参った。」
「なんと!」
「それでの。先程、老中の秋元但馬らに屋敷替えの件を申し付けておいたのだ。」
吉保は綱條の言葉に衝撃を受け絶句する。
「・・・そ、それで吉良の屋敷はどちらに移すおつもりで。」
吉保が絞り出すように言う。
「呉服橋は上様のお膝元故、本所辺りでよいのではないか?・・・のぉ、綱豊殿。」
「御意。」
「本所とはあまりにも・・・。」
「遠いと申すか。」
吉保は返事をする代わりに頭を下げた。
「遠ければ遠いに越したことはないではないか。上様もご安心なされよう。」
「吉保。しかと頼むぞ!」
綱條と綱豊は、意気揚々と御用部屋を退出していった。
― 仇討ちをさせるため魂胆が見え見えじゃ。―
吉保は綱條と綱豊が、この度の刃傷事件にしゃしゃり出てくるとは思っていなかった。
この二人の要請を断ることは吉保には出来なかった。むげに断れば幕政批判を朝廷さえも抱き込み露骨にしてくるのは明らかだった。世情は、赤穂浪士に味方をしていたのだ。
― あの時、吉良にも同じ御沙汰が下されていればこのような事には・・・。―
四
義央の屋敷が呉服橋から本所へ、屋敷替えの沙汰が下った。
突然の知らせに、誰もが耳を疑った。江戸に潜伏中の赤穂の浪士たちも、幕府の処置に驚いていた。
こうした状況の中、仇討ちの計画がなかなか進まぬため安兵衛の苛立ちは増していった。苛立ちの原因は、脱落者が日に日に増えていったからだった。
改易になり慣れぬ浪人暮らしが続き、生活が立ち行かなくなっていた。
「義父上。せっかくの朗報もご家老が、こんな状態では何もならんではないですか!」
弥兵衛に言い寄る安兵衛は、怒りで体が震えている。
「ご家老は、仇討ちするお気持ちがあるのだろうか・・・。」
安兵衛の隣に控えていた赤埴源蔵も不安げに呟く。
「弥兵衛殿。この際、江戸の同志たちだけで仇討ちを決行してはどうだろう。ご家老が当てにならんのなら、藤井様や安井様を旗頭に立てるというのはどうじゃ?」
郡兵衛の言葉に安兵衛と源蔵、そして孫太夫が呆れてしまう。
「あんな無能な連中、蠅一匹殺すこと出来ぬわ!」
「おい、郡兵衛。お主、まだこの間の事、懲りておらんのか?」
言葉を発した郡兵衛を孫太夫が睨みつける。
「そ、そういう訳では・・・。」
弥兵衛は郡兵衛の顔を見て大きなため息をつく。
「孫太夫殿。この間の事とは?」
吉良襲撃の五名の中にいなかった橋本平左衛門が不思議そうに顔を覗き込む。
「い、いや。何でもない、もう済んだことじゃ。」
孫太夫は、抜け駆けで義央を討とうしていたことを知られぬよう言葉を濁す。
「しかし、このまま座したままご家老のご出馬を待つというのも如何なものかと思うが。」
「うむ。安兵衛、ご家老に下向を促す書状を送ってはどうか。」
「同感じゃ。吉良とていつ米沢に逃げ込むかわからんからな。」
安兵衛は山科にいる内蔵助に江戸への下向を促す書状を送った。
五
内蔵助は安兵衛からの書状を受け原惣右衛門/潮田又之丞/中村勘助を下向させ、さらに進藤源四郎、大高源五を江戸へ派遣する。
江戸の急進派を宥めるために派遣した五名であったが、ことごとく安兵衛に論破され原惣右衛門、中村勘助、大高源五等三名は急進派の仲間入りをしてしまう。
江戸より立ち戻った惣右衛門は、逆に内蔵助に仇討ちを迫る有り様だった。
武太夫が用意した山科と伏見の間に構える拠点で、多都馬は監視していた長兵衛配下の者から浪士たちの様子を聞いていた。
「その様子では、仇討ちどころではないの。」
「へい。会合の中身までは聞けませんでしたが、方々全て不満を口に漏らし出て行かれました。」
「わかった。ご苦労だったな、たっぷり休んでくれ。」
多都馬から金子を受け取り、長兵衛配下の者は拠点である監視小屋から出て行く。
「旦那。こいつはもう仇討ちなんていうことは出来ねぇんじゃないですかね。」
三吉が浪士たちの結束の無さに諦めたように言う。
「ま、普通の人間ならこの状況から見て諦めるだろうな。」
「では、あの大石様ってお人は普通じゃねーと?」
「いや、わからん。わからんが、このまま終わるような気がせんのだ。」
「ま、旦那がそう仰るのならアッシはお付き合いいたしますがね。」
「済まんな。」
多都馬がため息をついた時、階下より覚えのある声が聞こえて来る。
「多都馬様!」
それは間違いなく須乃の声であった。
驚いた多都馬が下に降りると、長兵衛と共に須乃が来ていた。
須乃は多都馬の顔を見るなり、眩しいばかりの笑顔になった。
「多都馬様。申し訳ございません。どうしてもと仰るもので・・・。」
須乃の隣にいる長兵衛は小さくなって頭を下げる。
「京へ行かれて二月半も経ちます。お体のことが心配で・・・。」
呆気に取られている多都馬と三吉だった。
「か、数馬は如何した。」
「数馬殿もご一緒にと思ったのですが、学問所が忙しいと仰られて・・・。」
「実は、その・・・。」
須乃の側で長兵衛が小さくなって呟く。
「長兵衛さんのお宅におられます。」
甲高い須乃の声が監視小屋内に響き渡る。多都馬は、長兵衛に確認の視線を送った。
「は・・・はい。数馬様がどうしても仰るもので。」
長兵衛は、須乃の横で冷や汗を拭っている。
「多都馬様。数馬殿も頑固でございますね。私が数馬殿のことも心配故、京に一緒に連れて行くと申しましたが・・・。赤子ではないのだから江戸で待っていると断られました。」
― そりゃ、そうだろう。数馬は女子と一緒にいるのを極度に嫌うからな。―
「ということで、私も暫くここに滞在いたします。」
「何!」
驚く多都馬の顔を見てさらに汗をかく長兵衛だった。
六
義央の屋敷替えの一件は、綱條と綱豊にしてやられた。これ以上、世情の流れを赤穂寄りにさせておくわけにはいかない吉保は、配下の木造伊兵衛を差し向けた。
木造伊兵衛は、吉保が情報収集のために召し抱えた隠密集団の頭領である。これまでにも諸藩の内情を探らせ、必要とあれば暗殺などの任務も遂行していた。
伊兵衛は、吉保の命を受け内蔵助暗殺のため十五名の手勢を各実行場所に配置した。近々内蔵助が江戸へ下向してくるとの情報を掴んでいたのである。そして、その伊兵衛は行商人に身を窶し配下の者たちが待っている場所へ兵衛と共に向かっていた。
「伊兵衛。大石をどこで迎えるつもりだ。」
「江戸から遠ければ遠いほど良いと思うが・・・。」
「ワシは御前のもとに仕える前、諸国を流れ歩いておった。この街道でやるなら聊か存じいる場所があるが・・・。」
「兵衛、我等御前の命で動いておる。口添えは有り難いが無用に願いたい。」
伊兵衛は新参の兵衛を疎ましく思っていた。得体の知れぬ剣術を使い、野望と野心を露骨に出している。伊兵衛は自分の地位が脅かされるような気がしてならなかったのだ。
「大石を甘く見ぬほうがよいと申したはずだが・・・。」
「お主の報告は聞いていおる。それ故、万全の用意をしておる。」
「ほう、どのような?まさか、鉄砲など使うのではあるまいな。」
「鉄砲など火薬の臭いで感づかれてしまう。使うわけがなかろう。」
「ならばよいが。」
伊兵衛は含みを込めた兵衛の顔を睨みつけた。
「何か言い足りぬようだな。」
「心に留めて置いてもらうことが一つあったのでな。」
「お主と同門だったという男のことか?」
「いかにも。黛多都馬という者だが、大石を守っているかも知れぬぞ。侮らぬことだな。」
「遣い手とはいえ、こちらも手練れを揃えた十五名だ。抜かりはない。」
兵衛に対して対抗心をむき出しの伊兵衛は、先を急ぐように兵衛を残して歩いて行った。
「馬鹿な男よ。」
歩いていく伊兵衛の背中をながら、兵衛は思わず呟いていた。
七
多都馬たちの拠点となる監視小屋の台所で、須乃は夕餉の支度をしている。長兵衛の配下の者たちが手持無沙汰で台所の外から様子を窺っている。
多都馬たちが江戸を離れ三ヶ月が経とうとしていた。
台所から少し離れた囲炉裏で多都馬と長兵衛は話をしている。
「多都馬様、宜しいんですか?」
「何がだ。」
「須乃様のことですよ。アッシ等みたいな者のために、お武家様の御息女様が飯の支度など・・・。」
「手伝いなど無用と言ったのは須乃自身だ。」
「アッシ等の身にもなって下さいませ。申し訳なくて落ち着いていられませんよ。」
「須乃が申しておったではないか。長兵衛たちにはワシの御用を手伝う大事な役目がある。いざという時、直ぐに動けぬようでは困ると。」
「多都馬様といい須乃様といい、変わったお人でございますよ。全く・・・。」
長兵衛は何を言っても無駄だと悟って諦めた。
落ち着きなくうろうろする配下の者たちを、長兵衛は仕方なく囲炉裏に集めた。
長兵衛配下の弥次郎が、人が駆け足で走って来ると長兵衛に耳打ちする。
「確かめろ。」
弥次郎は監視小屋の障子を少し開けて走って来る者が誰なのか確認する。
「三吉の兄貴です。」
三吉は息を切らせて入って来る。
「三吉。何かあったか。」
「旦那。大石様ですが、近々江戸へいらっしゃるようですぜ。」
「何?」
大石の江戸への下向は、暫く先だと思っていた多都馬と長兵衛は三吉に聞き返していた。
「とうとう討ち入りってことじゃねぇんですかね。」
三吉は、興奮して話す。
「多都馬様。いくらなんでも早過ぎやしませんか。」
長兵衛は多都馬の顔色を窺っている。
「差し詰め安兵衛あたりが催促でもしたのであろう。」
業を煮やして苛立っている安兵衛の顔が思い浮かび多都馬は唇を噛む。
― 安兵衛の奴、あれほど言っておいたにも関わらず・・・。―
「多都馬様・・・。」
黙り込んで考えている多都馬に、長兵衛が思わず声をかける。
台所から心配そうに須乃が見つめていた。
「長兵衛。須乃を連れて江戸に戻れ。」
「どういうことでございますか?」
「ワシは大石の後を追う。」
「では、私たちも・・・。」
「いかん。一緒では目立ち過ぎる。」
「多都馬様お一人で後を追うおつもりですか?」
長兵衛が多都馬の身を心配して言う。
「いや、配下の者を四~五名ほど貸してもらいたい。特に人相風体の悪そうな者をな。」
多都馬の意図するところは理解が出来ないが、長兵衛は信頼する多都馬の指示に従った。
「わかりました。少々急ごしらえにはなりますが・・・。」
「構わん。」
三吉を含めた長兵衛の配下の者たちが指示を受けて村家を飛び出していった。
八
内蔵助は、安兵衛たち急進派の要請を受け、東海道を江戸へ向かっていた。
先に奥野将監、河村伝兵衛など四名を向かわせていた。
内蔵助の主だった連れは潮田又之丞と、供周りの瀬尾孫左衛門を含め僅か数名だった。
伊兵衛は、裏柳生の失敗を吉保から聞いており万全の準備していた。弓矢組など総勢十五名の手勢を率いていた。伊兵衛達は、内蔵助一行を峠の森の中で待ち構えていた。峠道を歩いてくる内蔵助を囲むように襲う計画だった。
配下の者が木々をかき分け、慌てた様子で伊兵衛に何かを知らせに来る。
「頭。我等の他に、四~五人名ほどの得体の知れぬ輩が大石の後を追っております。」
「何っ!」
伊兵衛は、状況確認のため物見の場所へ向かった。
内蔵助一行を視野に捉えると、殺気を漂わせた五人が後を追けていた。
「柳生でしょうか?」
「馬鹿な。柳生はとうに御役御免になっておる。」
「頭、どういたしますか?今にも大石たちを襲いそうですが・・・。」
「あれでは、我等の仕掛けが・・・。」
配下の者たちは浮足立ち、伊兵衛の指示を待っている。
「まずは皆を集めろ。・・・仕切り直しだ。」
伊兵衛はそう言うと予め通達してあった集合場所へ向かった。
集合場所には兵衛が薄笑いを浮かべて待っていた。
「どうした伊兵衛。」
「何でもないわ。黙って見ておれ。」
伊兵衛は配下の者が集結するのを暫く待っていたが、数名の者が戻って来ないことに苛立ち始める。
「どうした?呼集の命を下したはずだが・・・。」
困惑する配下の者たちをよそに、兵衛が笑みを浮かべ呟いた。
「多都馬、なかなかやるじゃないか。」
兵衛の呟きを聞き流し、伊兵衛は配下の者たちの集結を待った。
時は刻一刻と過ぎ内蔵助一行は、何事もなかったかのように兵衛と伊兵衛の前を歩いて行った。
「ど、どうしたというのだ。伊三郎や忠八は、何故戻らぬ。」
伊兵衛が側にいる配下の者に言う。
うろたえる伊兵衛を見て兵衛が言い放った。
「わからんのか。これ見よがしに大石達の後を追けていたあの五人。」
事態が呑み込めていない伊兵衛は呆然と立ち尽くしていた。
「大石襲撃を察知していた者が、森の中に潜んでいるお主たちを炙り出すために使った餌だ。」
「馬鹿な。持ち場は数カ所に分散してあったのだ。不意を突かれても声ぐらい出せるはずだ!」
「そんなこと二階堂平法奥義、心の一方を使えば造作もないこと。」
「何、心の一方だと?」
「伊兵衛。この失敗は高くつくぞ。」
兵衛は、呆然としている伊兵衛を残して早々に立ち去って行った。伊兵衛は、残った数名の配下と内蔵助の後を追おうとする。
「よし、この先に沢があったな。そこで仕切り直す。行け。」
命を下したにも拘わらず、動こうとしない配下に合点がいかない伊兵衛は振り返る。
そこには多都馬が笑みを浮かべながら立っていた。
「な・・・何者だ!」
存在を知られる筈もないと高を括っていた伊兵衛は多都馬の出現に狼狽していた。
「笑わせるな、それはこちらが言うことだ。」
多都馬は、伊兵衛たちとの間を詰め歩いてくる。
「答えられぬなら、当ててやろう。柳沢の手の者であろうが。」
多都馬に見事に見抜かれ、伊兵衛はぐうの音も出ない。
「黙っているということは、認めたということだな。」
伊兵衛たちは、静かに少しずつ後退る。
「おい、そいつはお主の配下の者か?」
多都馬は、伊兵衛の配下の者一人を指さした。
「この程度で狼狽えおって・・・。後をつけられているというのに気付かないとは間抜けな奴だ。」
多都馬の嘲る言葉に伊兵衛は怒りを露わにする。
多都馬は、言いながら少しずつ間合いを詰めていく。
「森の中の五人も動こけず固まったままだ。早く助けてやらぬと狼たちの餌になってしまうぞ。」
「何!」
後退りながらも伊兵衛は叫んだ。
「あ~それからな。配下にするならもっと真面な奴等を使え。こけおどしにもならぬぞ。」
多都馬が高らかに笑いながら言う。
「おのれ~。」
伊兵衛たちが一斉に多都馬に斬りかかる。
左右と前から同時に斬りかかるが、多都馬は膝をつきながら半身を落す。かわしながら大小二刀を抜き左右の敵を薙ぎ払う。前の敵二人は、多都馬が半身を落したので空振りした左右の味方の斬撃で自身の首筋を斬られてしまう。
一瞬にして四人を斬り捨てる多都馬に伊兵衛たちは恐れ慄く。
「どうした。これで終わりか?」
多都馬がじりじりと伊兵衛たちに迫って行く。
たじろぐ伊兵衛はなす術もなく、残った配下の者を盾に多都馬の前から姿を消した。
「なんて奴だ。配下の者を盾にしやがって。」
斬られた数名の遺体を見ながら多都馬は溜息交じりに呟いた。
「兵衛、柳生。次は忍か・・・。」
木々の間から見上げた空は、どんよりと曇っていた。
武太夫は忠義への報告の為、京都にいる多都馬の許へ来ていた。
拠点にたどり着いた武太夫は、疲れ切って畳の上で大の字になって横たわる。
「ご苦労なことだな。江戸と京都を行ったり来たりと・・・。」
息も絶え絶えの武太夫の耳に多都馬の言葉は届かない。
「大石内蔵助、早速何者かに狙われたぞ。」
「何!」
内蔵助の命が何者かに狙われたことを聞いた武太夫は己の体の疲れを忘れて跳び起きる。そして周章狼狽し、顔を真っ赤にし部屋の中を右往左往し始める。
「そう慌てるな。」
「慌てるなだとぉ。我等の他に大石を狙う奴がおるのだぞ。」
武太夫は、さらに顔を赤くして多都馬に詰め寄る。
「まだ、始まったばかりだ。あの程度のことでいちいち騒いでおったら、いらぬ心配を殿にさせることになる。」
「そ・・・そうかの。」
多都馬の言葉で一応の落ち着きを武太夫は取り戻した。
「しかし、刺客はどこの配下の者なのかのぉ・・・。」
多都馬は、刺客たちの素性を敢えて武太夫には教えなかった。しかし、大体の想像はついていた。内蔵助を襲った三人は、明らかに柳生新陰流の遣い手。
― あれが噂に聞く裏柳生。 ―
そして、それらを使うことが出来る人物となれば一人しかいない。
― 側用人/柳沢吉保 ―
二階堂平法の同門だった石堂兵衛は当然、柳沢に雇われていることになる。
― それにしても柳沢の動きが早すぎる。こっちは、まだ何も掴んでいない。それほど、大石という男を恐れているということか。―
多都馬は武太夫に、江戸にいる長兵衛に人手を少し増やすよう言伝を頼んだ。
二
兵衛と美郷は山科より急ぎ立ち戻り、柳沢家上屋敷で出仕前の吉保に大石暗殺が失敗に終わったことを告げていた。
「大石を、ちと甘うみておりました。」
「大石という男、それほどの者であったか。」
「柳生の手練れを、手にした扇子でやすやすと・・・。某もあまりの出来事に呆然としてしまいました。」
吉保は兵衛の言葉に苦笑いを浮かべた。
「やはり昼行燈とは己の才を隠す方便かと・・・。」
「凡庸を装う非凡な男ということか?」
兵衛は、黙って頷いた。
「やはり、あるか?」
「はい。大石のあの放蕩ぶり、某には通用致しませぬ。」
兵衛の報告に吉保は、眉間のしわを一層深くする。
「それと柳生は最早、使いものになりませぬ。拙者の一存にてお役御免にいたしました。」
「実はワシもそれほど期待はしていなかったのだが・・・そうか、使いものにならぬか。」
「柳生は上様の御採決に不満なようです。裏柳生の頭目、柳生又八郎の剣には迷いがある。その迷いは配下の者たちへ伝染し動きを鈍らせておりました。」
「少々回りくどかったが此度は、大石の才量を知れただけでも良しとせねばならんな。」
「小藩の柳生でさえこの有様。思いの他、動きづろうござります。」
「次が勝負じゃ。配下の木造伊兵衛を使わす。お主と美郷も同行いたせ。」
「その者、使えますか?」
「元は忍びの者でな、これまでにも表に出来ぬ裏働きを数多くこなしておる。柳生とは違う、心配致すな。」
よほどの自信があるのか、吉保は薄ら笑いを浮かべていた。
「お言葉では御座いますが、大石を葬るのは我等だけにお任せ頂き等存じます。」
「お主たちは、ワシにとっての切り札じゃ。出番はもう少し後でよい。」
悠長な吉保の物言いに兵衛は呆れてしまう。向こうには多都馬が付いているのだ。
「御前。ひとつお耳に入れたき事がございます。」
「何だ?」
「大石側には、かつて私と同門だった男がついております。」
「大石の警護をしておるというのか?」
「いえ。まだ委細は不明でございますが、我等と大石の間に割って入りましたので・・・。」
「その男、遣い手か?」
「はい・・・。その上、切れ者故、油断出来ませぬ。」
「厄介な相手になりそうじゃの。」
「私の背後に御前がいる事も、察していることと存じます。」
「伊兵衛では相手にならぬと申すか。」
「御意。」
吉保は兵衛に下知を下さぬまま、険しい表情で部屋を出て行った。
美郷は兵衛と吉保のやり取りから、黛多都馬が自分たちの脅威になることを感じていた。
三
江戸城本丸の御用部屋で吉保は、水戸藩主/徳川綱條と甲府宰相/徳川綱豊(家宣)の到着を待っていた。
用向きは不明だが、急遽二人に呼び出されたのである。
御用部屋の外から綱條と綱豊の談笑する声が聞こえ、吉保は平伏して部屋に入って来るのを待った。
綱條と綱豊は入室して吉保の上座に座った。
「吉保、随分やつれておるの。滋養のあるものを食せねばならんと、いつも申しておろうが。」
「はっ。御心配頂き痛み入ります。」
― 水戸のじじいのような物言いを・・・。遠回しに生類憐みの令を皮肉っておるのか。―
綱條の言葉に握っていた扇子に力を込めた。
「今日、お主を呼んだのは他でもない。今、世情を賑わせておる赤穂の浪士共のことだ。」
「浪士共が何か?」
「ん?お主の耳には入っておらんのか。不思議じゃの~。お主の耳には、いの一番に入っていると思うたが。」
「申し訳ございませぬ。」
― いちいち癇に障る物言いじゃ。―
「先の刃傷において斬りつけた吉良上野介を、討ち漏らした主に替わって旧家臣たちが狙うと専らの噂だ。」
綱豊は厳しい表情で吉保に言う。
「なんだ、本当に知らぬのか?」
綱條がとぼけた様子で吉保の顔を覗き込んだ。
「あぁ。その噂なれば根も葉も無い故、取るに足らんと思い気にもせず捨て置きました。」
「何故、根も葉もない噂と言い切るのだ。お主は、その根拠があると申すのだな。」
綱豊は言いながら、吉保の腹の内を探るように見つめている。
「松の廊下での刃傷沙汰。上様が直々に採決いたしております。上野介を討つということは、上様に対し弓引くことと相成りましょう。そのようなことは決して起こらぬと考えております。」
吉保は綱條と綱豊をやり込めたという満足感に浸っていた。
「吉保。そのほうは心得違いをしておる。」
「は?」
綱條は、先程の穏やかな表情から一変し険しい表情に変っていた。
「上様というのは、我等の主であって赤穂浪士共の主ではない。」
「恐れながら申し上げます。私は大名ならびに家臣、その郎党に至るまで日本国中全て上様の臣であると思うておりまするが・・・。」
「吉保、それは表向きの話よ。」
「は?」
「藩主とその家臣には生を受けてから今日まで築いた絆がある。上様に藩士やその郎党どもと同じ絆があるか?」
吉保は、綱條に返す言葉を失い黙ってしまう。
「そのような時に各藩の大名たちも、赤穂の浪士たちがいつ吉良を討ちに来るのかと気にかけておるのだ。」
― それがどうしたというのだ。此奴等め、何を企んでおる。―
「そこでだ。」
綱條の表情が再び穏やかな表情に戻る。
「蜂須賀飛騨守と松平弾正忠の屋敷が、吉良の両隣にある。」
「はい。」
「屋敷の両隣となれば討ち入りの噂で家臣共々、戦々恐々としておるらしい。合わせて日々の警戒に掛かる費用が尋常ではないと、ここにおる綱豊殿を頼り吉良の屋敷替えを願い出て参った。」
「なんと!」
「それでの。先程、老中の秋元但馬らに屋敷替えの件を申し付けておいたのだ。」
吉保は綱條の言葉に衝撃を受け絶句する。
「・・・そ、それで吉良の屋敷はどちらに移すおつもりで。」
吉保が絞り出すように言う。
「呉服橋は上様のお膝元故、本所辺りでよいのではないか?・・・のぉ、綱豊殿。」
「御意。」
「本所とはあまりにも・・・。」
「遠いと申すか。」
吉保は返事をする代わりに頭を下げた。
「遠ければ遠いに越したことはないではないか。上様もご安心なされよう。」
「吉保。しかと頼むぞ!」
綱條と綱豊は、意気揚々と御用部屋を退出していった。
― 仇討ちをさせるため魂胆が見え見えじゃ。―
吉保は綱條と綱豊が、この度の刃傷事件にしゃしゃり出てくるとは思っていなかった。
この二人の要請を断ることは吉保には出来なかった。むげに断れば幕政批判を朝廷さえも抱き込み露骨にしてくるのは明らかだった。世情は、赤穂浪士に味方をしていたのだ。
― あの時、吉良にも同じ御沙汰が下されていればこのような事には・・・。―
四
義央の屋敷が呉服橋から本所へ、屋敷替えの沙汰が下った。
突然の知らせに、誰もが耳を疑った。江戸に潜伏中の赤穂の浪士たちも、幕府の処置に驚いていた。
こうした状況の中、仇討ちの計画がなかなか進まぬため安兵衛の苛立ちは増していった。苛立ちの原因は、脱落者が日に日に増えていったからだった。
改易になり慣れぬ浪人暮らしが続き、生活が立ち行かなくなっていた。
「義父上。せっかくの朗報もご家老が、こんな状態では何もならんではないですか!」
弥兵衛に言い寄る安兵衛は、怒りで体が震えている。
「ご家老は、仇討ちするお気持ちがあるのだろうか・・・。」
安兵衛の隣に控えていた赤埴源蔵も不安げに呟く。
「弥兵衛殿。この際、江戸の同志たちだけで仇討ちを決行してはどうだろう。ご家老が当てにならんのなら、藤井様や安井様を旗頭に立てるというのはどうじゃ?」
郡兵衛の言葉に安兵衛と源蔵、そして孫太夫が呆れてしまう。
「あんな無能な連中、蠅一匹殺すこと出来ぬわ!」
「おい、郡兵衛。お主、まだこの間の事、懲りておらんのか?」
言葉を発した郡兵衛を孫太夫が睨みつける。
「そ、そういう訳では・・・。」
弥兵衛は郡兵衛の顔を見て大きなため息をつく。
「孫太夫殿。この間の事とは?」
吉良襲撃の五名の中にいなかった橋本平左衛門が不思議そうに顔を覗き込む。
「い、いや。何でもない、もう済んだことじゃ。」
孫太夫は、抜け駆けで義央を討とうしていたことを知られぬよう言葉を濁す。
「しかし、このまま座したままご家老のご出馬を待つというのも如何なものかと思うが。」
「うむ。安兵衛、ご家老に下向を促す書状を送ってはどうか。」
「同感じゃ。吉良とていつ米沢に逃げ込むかわからんからな。」
安兵衛は山科にいる内蔵助に江戸への下向を促す書状を送った。
五
内蔵助は安兵衛からの書状を受け原惣右衛門/潮田又之丞/中村勘助を下向させ、さらに進藤源四郎、大高源五を江戸へ派遣する。
江戸の急進派を宥めるために派遣した五名であったが、ことごとく安兵衛に論破され原惣右衛門、中村勘助、大高源五等三名は急進派の仲間入りをしてしまう。
江戸より立ち戻った惣右衛門は、逆に内蔵助に仇討ちを迫る有り様だった。
武太夫が用意した山科と伏見の間に構える拠点で、多都馬は監視していた長兵衛配下の者から浪士たちの様子を聞いていた。
「その様子では、仇討ちどころではないの。」
「へい。会合の中身までは聞けませんでしたが、方々全て不満を口に漏らし出て行かれました。」
「わかった。ご苦労だったな、たっぷり休んでくれ。」
多都馬から金子を受け取り、長兵衛配下の者は拠点である監視小屋から出て行く。
「旦那。こいつはもう仇討ちなんていうことは出来ねぇんじゃないですかね。」
三吉が浪士たちの結束の無さに諦めたように言う。
「ま、普通の人間ならこの状況から見て諦めるだろうな。」
「では、あの大石様ってお人は普通じゃねーと?」
「いや、わからん。わからんが、このまま終わるような気がせんのだ。」
「ま、旦那がそう仰るのならアッシはお付き合いいたしますがね。」
「済まんな。」
多都馬がため息をついた時、階下より覚えのある声が聞こえて来る。
「多都馬様!」
それは間違いなく須乃の声であった。
驚いた多都馬が下に降りると、長兵衛と共に須乃が来ていた。
須乃は多都馬の顔を見るなり、眩しいばかりの笑顔になった。
「多都馬様。申し訳ございません。どうしてもと仰るもので・・・。」
須乃の隣にいる長兵衛は小さくなって頭を下げる。
「京へ行かれて二月半も経ちます。お体のことが心配で・・・。」
呆気に取られている多都馬と三吉だった。
「か、数馬は如何した。」
「数馬殿もご一緒にと思ったのですが、学問所が忙しいと仰られて・・・。」
「実は、その・・・。」
須乃の側で長兵衛が小さくなって呟く。
「長兵衛さんのお宅におられます。」
甲高い須乃の声が監視小屋内に響き渡る。多都馬は、長兵衛に確認の視線を送った。
「は・・・はい。数馬様がどうしても仰るもので。」
長兵衛は、須乃の横で冷や汗を拭っている。
「多都馬様。数馬殿も頑固でございますね。私が数馬殿のことも心配故、京に一緒に連れて行くと申しましたが・・・。赤子ではないのだから江戸で待っていると断られました。」
― そりゃ、そうだろう。数馬は女子と一緒にいるのを極度に嫌うからな。―
「ということで、私も暫くここに滞在いたします。」
「何!」
驚く多都馬の顔を見てさらに汗をかく長兵衛だった。
六
義央の屋敷替えの一件は、綱條と綱豊にしてやられた。これ以上、世情の流れを赤穂寄りにさせておくわけにはいかない吉保は、配下の木造伊兵衛を差し向けた。
木造伊兵衛は、吉保が情報収集のために召し抱えた隠密集団の頭領である。これまでにも諸藩の内情を探らせ、必要とあれば暗殺などの任務も遂行していた。
伊兵衛は、吉保の命を受け内蔵助暗殺のため十五名の手勢を各実行場所に配置した。近々内蔵助が江戸へ下向してくるとの情報を掴んでいたのである。そして、その伊兵衛は行商人に身を窶し配下の者たちが待っている場所へ兵衛と共に向かっていた。
「伊兵衛。大石をどこで迎えるつもりだ。」
「江戸から遠ければ遠いほど良いと思うが・・・。」
「ワシは御前のもとに仕える前、諸国を流れ歩いておった。この街道でやるなら聊か存じいる場所があるが・・・。」
「兵衛、我等御前の命で動いておる。口添えは有り難いが無用に願いたい。」
伊兵衛は新参の兵衛を疎ましく思っていた。得体の知れぬ剣術を使い、野望と野心を露骨に出している。伊兵衛は自分の地位が脅かされるような気がしてならなかったのだ。
「大石を甘く見ぬほうがよいと申したはずだが・・・。」
「お主の報告は聞いていおる。それ故、万全の用意をしておる。」
「ほう、どのような?まさか、鉄砲など使うのではあるまいな。」
「鉄砲など火薬の臭いで感づかれてしまう。使うわけがなかろう。」
「ならばよいが。」
伊兵衛は含みを込めた兵衛の顔を睨みつけた。
「何か言い足りぬようだな。」
「心に留めて置いてもらうことが一つあったのでな。」
「お主と同門だったという男のことか?」
「いかにも。黛多都馬という者だが、大石を守っているかも知れぬぞ。侮らぬことだな。」
「遣い手とはいえ、こちらも手練れを揃えた十五名だ。抜かりはない。」
兵衛に対して対抗心をむき出しの伊兵衛は、先を急ぐように兵衛を残して歩いて行った。
「馬鹿な男よ。」
歩いていく伊兵衛の背中をながら、兵衛は思わず呟いていた。
七
多都馬たちの拠点となる監視小屋の台所で、須乃は夕餉の支度をしている。長兵衛の配下の者たちが手持無沙汰で台所の外から様子を窺っている。
多都馬たちが江戸を離れ三ヶ月が経とうとしていた。
台所から少し離れた囲炉裏で多都馬と長兵衛は話をしている。
「多都馬様、宜しいんですか?」
「何がだ。」
「須乃様のことですよ。アッシ等みたいな者のために、お武家様の御息女様が飯の支度など・・・。」
「手伝いなど無用と言ったのは須乃自身だ。」
「アッシ等の身にもなって下さいませ。申し訳なくて落ち着いていられませんよ。」
「須乃が申しておったではないか。長兵衛たちにはワシの御用を手伝う大事な役目がある。いざという時、直ぐに動けぬようでは困ると。」
「多都馬様といい須乃様といい、変わったお人でございますよ。全く・・・。」
長兵衛は何を言っても無駄だと悟って諦めた。
落ち着きなくうろうろする配下の者たちを、長兵衛は仕方なく囲炉裏に集めた。
長兵衛配下の弥次郎が、人が駆け足で走って来ると長兵衛に耳打ちする。
「確かめろ。」
弥次郎は監視小屋の障子を少し開けて走って来る者が誰なのか確認する。
「三吉の兄貴です。」
三吉は息を切らせて入って来る。
「三吉。何かあったか。」
「旦那。大石様ですが、近々江戸へいらっしゃるようですぜ。」
「何?」
大石の江戸への下向は、暫く先だと思っていた多都馬と長兵衛は三吉に聞き返していた。
「とうとう討ち入りってことじゃねぇんですかね。」
三吉は、興奮して話す。
「多都馬様。いくらなんでも早過ぎやしませんか。」
長兵衛は多都馬の顔色を窺っている。
「差し詰め安兵衛あたりが催促でもしたのであろう。」
業を煮やして苛立っている安兵衛の顔が思い浮かび多都馬は唇を噛む。
― 安兵衛の奴、あれほど言っておいたにも関わらず・・・。―
「多都馬様・・・。」
黙り込んで考えている多都馬に、長兵衛が思わず声をかける。
台所から心配そうに須乃が見つめていた。
「長兵衛。須乃を連れて江戸に戻れ。」
「どういうことでございますか?」
「ワシは大石の後を追う。」
「では、私たちも・・・。」
「いかん。一緒では目立ち過ぎる。」
「多都馬様お一人で後を追うおつもりですか?」
長兵衛が多都馬の身を心配して言う。
「いや、配下の者を四~五名ほど貸してもらいたい。特に人相風体の悪そうな者をな。」
多都馬の意図するところは理解が出来ないが、長兵衛は信頼する多都馬の指示に従った。
「わかりました。少々急ごしらえにはなりますが・・・。」
「構わん。」
三吉を含めた長兵衛の配下の者たちが指示を受けて村家を飛び出していった。
八
内蔵助は、安兵衛たち急進派の要請を受け、東海道を江戸へ向かっていた。
先に奥野将監、河村伝兵衛など四名を向かわせていた。
内蔵助の主だった連れは潮田又之丞と、供周りの瀬尾孫左衛門を含め僅か数名だった。
伊兵衛は、裏柳生の失敗を吉保から聞いており万全の準備していた。弓矢組など総勢十五名の手勢を率いていた。伊兵衛達は、内蔵助一行を峠の森の中で待ち構えていた。峠道を歩いてくる内蔵助を囲むように襲う計画だった。
配下の者が木々をかき分け、慌てた様子で伊兵衛に何かを知らせに来る。
「頭。我等の他に、四~五人名ほどの得体の知れぬ輩が大石の後を追っております。」
「何っ!」
伊兵衛は、状況確認のため物見の場所へ向かった。
内蔵助一行を視野に捉えると、殺気を漂わせた五人が後を追けていた。
「柳生でしょうか?」
「馬鹿な。柳生はとうに御役御免になっておる。」
「頭、どういたしますか?今にも大石たちを襲いそうですが・・・。」
「あれでは、我等の仕掛けが・・・。」
配下の者たちは浮足立ち、伊兵衛の指示を待っている。
「まずは皆を集めろ。・・・仕切り直しだ。」
伊兵衛はそう言うと予め通達してあった集合場所へ向かった。
集合場所には兵衛が薄笑いを浮かべて待っていた。
「どうした伊兵衛。」
「何でもないわ。黙って見ておれ。」
伊兵衛は配下の者が集結するのを暫く待っていたが、数名の者が戻って来ないことに苛立ち始める。
「どうした?呼集の命を下したはずだが・・・。」
困惑する配下の者たちをよそに、兵衛が笑みを浮かべ呟いた。
「多都馬、なかなかやるじゃないか。」
兵衛の呟きを聞き流し、伊兵衛は配下の者たちの集結を待った。
時は刻一刻と過ぎ内蔵助一行は、何事もなかったかのように兵衛と伊兵衛の前を歩いて行った。
「ど、どうしたというのだ。伊三郎や忠八は、何故戻らぬ。」
伊兵衛が側にいる配下の者に言う。
うろたえる伊兵衛を見て兵衛が言い放った。
「わからんのか。これ見よがしに大石達の後を追けていたあの五人。」
事態が呑み込めていない伊兵衛は呆然と立ち尽くしていた。
「大石襲撃を察知していた者が、森の中に潜んでいるお主たちを炙り出すために使った餌だ。」
「馬鹿な。持ち場は数カ所に分散してあったのだ。不意を突かれても声ぐらい出せるはずだ!」
「そんなこと二階堂平法奥義、心の一方を使えば造作もないこと。」
「何、心の一方だと?」
「伊兵衛。この失敗は高くつくぞ。」
兵衛は、呆然としている伊兵衛を残して早々に立ち去って行った。伊兵衛は、残った数名の配下と内蔵助の後を追おうとする。
「よし、この先に沢があったな。そこで仕切り直す。行け。」
命を下したにも拘わらず、動こうとしない配下に合点がいかない伊兵衛は振り返る。
そこには多都馬が笑みを浮かべながら立っていた。
「な・・・何者だ!」
存在を知られる筈もないと高を括っていた伊兵衛は多都馬の出現に狼狽していた。
「笑わせるな、それはこちらが言うことだ。」
多都馬は、伊兵衛たちとの間を詰め歩いてくる。
「答えられぬなら、当ててやろう。柳沢の手の者であろうが。」
多都馬に見事に見抜かれ、伊兵衛はぐうの音も出ない。
「黙っているということは、認めたということだな。」
伊兵衛たちは、静かに少しずつ後退る。
「おい、そいつはお主の配下の者か?」
多都馬は、伊兵衛の配下の者一人を指さした。
「この程度で狼狽えおって・・・。後をつけられているというのに気付かないとは間抜けな奴だ。」
多都馬の嘲る言葉に伊兵衛は怒りを露わにする。
多都馬は、言いながら少しずつ間合いを詰めていく。
「森の中の五人も動こけず固まったままだ。早く助けてやらぬと狼たちの餌になってしまうぞ。」
「何!」
後退りながらも伊兵衛は叫んだ。
「あ~それからな。配下にするならもっと真面な奴等を使え。こけおどしにもならぬぞ。」
多都馬が高らかに笑いながら言う。
「おのれ~。」
伊兵衛たちが一斉に多都馬に斬りかかる。
左右と前から同時に斬りかかるが、多都馬は膝をつきながら半身を落す。かわしながら大小二刀を抜き左右の敵を薙ぎ払う。前の敵二人は、多都馬が半身を落したので空振りした左右の味方の斬撃で自身の首筋を斬られてしまう。
一瞬にして四人を斬り捨てる多都馬に伊兵衛たちは恐れ慄く。
「どうした。これで終わりか?」
多都馬がじりじりと伊兵衛たちに迫って行く。
たじろぐ伊兵衛はなす術もなく、残った配下の者を盾に多都馬の前から姿を消した。
「なんて奴だ。配下の者を盾にしやがって。」
斬られた数名の遺体を見ながら多都馬は溜息交じりに呟いた。
「兵衛、柳生。次は忍か・・・。」
木々の間から見上げた空は、どんよりと曇っていた。