心の刃 -忠臣蔵異聞-
第13章 苦心惨憺
一
多都馬は長兵衛馴染みの店で一人酒を飲んでいた。
郡兵衛が脱名し暗然とした安兵衛の顔が忘れらない。店主は入ってきた多都馬の様子を察して早々に店を閉めていた。
閉まっていた引き戸を開けて、長兵衛と三吉が入って来る。
「いらっしゃいませ。」
「多都馬様、お探ししましたよ。」
「そうか。」
「須乃様が、ご心配されておりました。」
須乃の気遣いが多都馬の心に沁みていく。
「元締め、油揚げの煮物でもいかがでしょうか?」
店主は調理場から顔を出して長兵衛に聞く。
「油揚げの煮物か・・・。」
多都馬は味の染み込んだ油揚げの煮物を想像して舌なめずりをしている。
「おう。持ってきてくれ。」
「長兵衛、早く座れよ。」
「失礼いたしやす。」
長兵衛は、多都馬の向かいの席に腰を下した。
三吉は、二人に気を遣って別のところに腰掛ける。
「三吉、何をしておる。こっちへ来い。」
「いや、アッシはここで・・・。」
「まだそんなこと言っておるのか!、早くこっちに座れ。酒は皆で飲んだ方が美味い。」
長兵衛が三吉に目配せをして呼び寄せる。
「煮付け、お持ちいたしてよろしいでしょうか?」
「おう、頼む。」
仕上がったばかりなのか、器に盛られた油揚げの煮付けから湯気が立ち上っていた。
「多都馬様、大丈夫ですか?」
「ん?何がだ。」
「いや、多都馬様の御心ですよ。」
殺気だった安兵衛を見せられ、じっと沈思する多都馬を見ているのが長兵衛は耐えられなかった。
「多都馬様の御本心は、堀部様たちに長矩様の仇討ちなどしてほしくねぇんじゃないですか?」
多都馬は長兵衛の言葉に何も返さず無言でいた。
「それに多都馬様のお話じゃ、吉良様はむしろ被害者じゃありやせんか。」
三吉は長兵衛の隣で身を小さくしている。
長兵衛には目を閉じて沈黙している多都馬が余計に痛々しく見える。
先ほど出された油揚げの煮物に、三人共まだ箸を付けていない。
「このままだと双方、誤解をしたまま刃を交えることに・・・。」
「長兵衛。」
長い沈黙の後、多都馬は静かに長兵衛の名を呼んだ。
「はい。」
「・・・ワシが今、安兵衛や大石殿に調べたことを伝えたところで収まりはつかぬであろう。」
「しかし・・・。」
「仇は吉良様ではなく、一計を企てた柳沢だと申したとしよう。柳沢は武蔵川越藩八万石だ。しかも、上様の側用人だ。相手が大きすぎる。」
「お相手が大きければ、皆様お諦めなさるんじゃありませんか。」
「諦めれば、その後は自害しかない。」
「そんな・・・。」
「今、仇討ちだと声高に申しておる連中は皆そうするであろう。」
「では、堀部様も・・・。」
多都馬は目を閉じて頷いた。
多都馬のそうした様子を見て、長兵衛は言葉もなく項垂れる。
「安兵衛を・・・、安兵衛をそのような目に遭わせたくはない。」
解決策を出せぬ長兵衛は、自分の不甲斐無さに苛立ち拳を握りしめる。今この時こそ、受けた恩を黛家に返さなくてはという思いからだった。
長兵衛は江戸の口入れ屋衆の元締めとなる前、命を失いかけるほどの危うい事があった。江戸への進出を目論む上方の口入れ屋に騙し討ちにあったのだ。登馬の命を受けた多都馬が、長兵衛の身辺警護をして危機を救っていた。交渉と称した長兵衛の暗殺だった。
長兵衛は思い悩む多都馬の横顔を見つめていた。
「安兵衛は義理人情に厚い男だ。ましてや長矩様から高禄で召し抱えて頂いた恩も感じておる。恐らく譜代の家臣以上に仇討ちへの思いは強いはずだ。」
多都馬は、やるせない思いを吹っ切るように注がれている酒を飲んだ。今夜の酒は、多都馬の思いが染み込んでほろ苦いと長兵衛はしみじみと思った。
二
世の中が赤穂贔屓で盛り上がる中、討ち入りの決行はいつなのかという論争にも火が点いていた。兵衛は、吉保に呼ばれ屋敷内にて美郷と待機していた。
「火急な用とは?」
「兵衛、お主に命じた大石暗殺の件だが…。事態が急変いたした。」
兵衛は険しい表情の吉保を見つめた。
「大石等の命、我等も守らねばならなくなった。」
「何と!」
兵衛が吉保に詰め寄る姿勢を見せる。
吉保は詰め寄ろうとした兵衛の気持ちを察して答えた。
「今、世情は大石たち赤穂の味方をしておるのだ。」
「しかし、あの大石を斬らねば討ち入りが・・・。」
吉保は悔しさを込めて兵衛の言葉を遮った。
「上様が…。あの上様ご自身が、浪士たちの討ち入りを待ち望んでおられるのじゃ。」
「まさか、そのような!」
「ご自身がご裁断されたにも関わらず、討ち入りはいつじゃと声を張り上げておられる。」
美郷は兵衛の横で拳を握りしめる。
「実はの・・・。内匠頭の遺恨の噂、それがとうとう上様のお耳にまで入ってしまったのだ。」
綱吉まで噂に流されるとは、兵衛にとっても予想外だった。
「上様は儒学の教えを重んじるお方だ。主を想うて討ち入りを企てておる赤穂の浪士たちに甚く感じ入っておられるのだ。」
兵衛は自身も予想だにしていなかった展開に呆然としてしまう。
そして大石を守るという事は、多都馬と同じ立場に立つことになり刃を交えることが出来ないことを意味していた。
「上様はご理解されておるのでしょうか?討ち入りが成功すれば御公儀の権威は失墜し上様の名声は地に堕ちるということを・・・。」
吉保は眉間にしわを寄せ兵衛の言葉を黙って聞いている。
「御前とてそれは同じこと・・・。」
「此度の刃傷事件、吉良が生き残った故このような仕儀に相成った。」
兵衛は吉保の言葉を待った。
「陰謀詭計の裏に柳沢あり。今この時期に、大石が暗殺されれば疑われるのはワシだ。」
兵衛は吉保の声から脱力感を感じた。
「さすれば探られたくない腹まで探られる事になる。」
「・・・畏まりました。」
無念さを堪え兵衛は答えた。
吉保は兵衛の言葉に安堵していた。兵衛の抱いている野心から、納得するはずもないと思っていたのである。
「しかし、御前。上杉は如何いたしまする。手出しするなとは申せませぬぞ。」
「放っておくしかあるまい。ただし、先も申した通り大石の暗殺は防がねばならぬ。」
「大石の警護は、もはや十重二十重に固められております。御心配には及びませぬ。」
「しかし、上杉には謎の忍軍が居ると聞く。調査のために放った公儀の隠密も、誰一人帰還しておらぬ。」
「この太平の世に、まだそのような者たちを抱えておるとは・・・。」
「兵衛よ。上杉から目を離すでない。」
上杉の忍軍の話には多少驚く兵衛だが、内蔵助を警護しているのは他でもない多都馬なのである。
― どのような者が大石を狙おうと、多都馬がいる限り問題ないわ。多都馬を相手に出来るのは、ワシ一人だけだ。―
「上杉に下げ渡した二名の者は・・・。」
「手出し無用、当家には何ら係わりはない。捨て置けばよい。」
「畏まりました。」
「それよりも、木造伊兵衛。あの男を始末するのだ。」
「伊兵衛を?」
「ワシの命を聞けぬようでな。いきなり刃を向け、逐電しおった。」
吉保は右の拳で膝を何度も叩いた。
「我等の足を引っ張るとも限らん、必ず息の根を止めよ。」
「必ずや探し出して参りまする。」
「頼んだぞ。」
「はっ。」
吉保は、兵衛たちに用件を伝えると奥座敷に消えていった。
兵衛と美郷には暗く重い静寂が圧し掛かっていた。
「仰せの通り伊兵衛を斬るのですか?」
「あのような小者を斬る刀は持ち合わせてはおらぬ。あやつは、わしが斬らずとも多都馬が斬ってくれよう。」
「では、御下命には従わぬ・・・ということでしょうか。」
兵衛は暫くの間、考え込み美郷の問いを無視した。
「美郷。お主は本日より自由に生きるがよい。これからは、ワシの意地にて動く故、お主は連れて行けぬ。」
「私はお供いたします。」
「ならん!お主は・・・。」
兵衛の言葉を遮るように美郷が言い放つ。
「女子だからですか?」
暫く沈黙する兵衛だが、美郷に背を向け立ち上がる。
「ついて来い。」
兵衛と美郷は、吉保の屋敷から出ていく。
三
世の中の赤穂贔屓に焦りを感じる男がもう一人がいた。上杉家江戸家老/色部又四郎であった。
赤穂浪士の討ち入りが成功すれば、当主であり息子である綱憲は何らかのお咎めがあるかも知れない。討ち入りを防ぐため出兵したとしても御城下を騒がしたかどで、これもまたお咎めを受ける口実になる。合わせて厄介な二名も引き受けなければならなくなってしまった。元赤穂藩江戸家老の藤井又左衛門と安井彦右衛門である。柳沢の工作に手を貸した両名だが、とうとう世情に負けて庇護出来なくなったのだ。まさに八方塞の上杉家だった。
色部又四郎は、配下から腕利きの者を数人、吉良家へ付人として送り込むことを決意する。小林平八郎と山吉新八郎等がそうであった。
「平八。新八郎。そなた等は、明日より吉良様の付人として仕えてもらうぞ。」
「はっ。」
二人は色部又四郎に平伏して答える。
「後ほど、新貝弥七郎、神原平右衛門、大須賀治郎右衛門たちも差し向ける。」
「ご家老、私たち二人を吉良様の元へ仕わすということは、やはり赤穂の討ち入りが・・・。」
新八郎が険しい顔を上げる。
「うむ。ないとも言えぬからの。」
「しかし、元禄のこのご時世に、そこまで覚悟の侍が幾人いるでしょうか。」
暫くの沈黙が、事の先行きが不明であることを表していた。
「二人ともよいか。殿は義央様のお子ではあるが、今は米沢藩十五万石の藩主じゃ。もし、もし万が一討ち入りがあったらお主たちが吉良様と共に果てる必要はないぞ。なんとかして吉良様のお屋敷より脱して来るのじゃ。わかったな?逃げるのだ。」
「はっ。」
二人は色部又四郎に平伏して答え、部屋から去って行った。
色部又四郎は、二人が出て行った障子戸を暫く見つめていた。
― 逃げろと申したが・・・。あの二人、そのようなことは致すまい。すまぬ。―
二人の忠臣を想い、唇を噛みしめ目を閉じた。
赤穂浪士討ち入りを防ぐには、内蔵助の暗殺はもとより浪士の結束を削ぐか内蔵助同様に暗殺をするか、はたまた義央を米沢に引き取るかだった。
色部又四郎は国許より上杉家忍軍「軒猿」を呼び寄せていた。長矩の沙汰が下り切腹となった時点で、赤穂藩と内蔵助の周囲を監視させていたのだ。
「右源太はおるか。」
屋敷の庭先より、物音も立てずに声が聞こえる。
「はっ。ここに。」
「入れ。」
上杉家忍軍頭領/佐治右源太が障子を開け入って来る。
「表向きのことは、平八と新八郎に申しつけた。そちには裏の用を申しつける。」
「はっ。」
色部又四郎は、内蔵助と赤穂浪士たちの暗殺を命じた。
「吉良様の屋敷に討ち入られたら、上杉家としては成す術がなくなるうえに面目丸つぶれじゃ。討ち入られる前に、なんとかせねばならぬ。」
「ご指示を・・・。」
「大石を狙うのもよいが旗頭に掲げておる故、警護も厳重になっておろう。」
「御意。」
「柳沢様はお家に被害が及ばぬよう、他家を使い細工をされていたようだがの。我等上杉にそのような権力も無ければ金もない。」
右源太は表情を一切変えず色部又四郎の言葉を聞いている。
「降り掛かる火の粉は、我等だけで払わねばならぬ。」
色部又四郎の眉間のしわが一層深くなる。
「噂によれば上様ご自身も赤穂の者たちに同情しておられると聞く。とすれば、赤穂だけでなく公儀も我等の妨げとなってくるであろう。窮地に立たされておるのは赤穂の者たちではなく我らなのだ。心して掛からねばならんぞ。」
平伏している右源太は、色部又四郎の話に固く唇を噛みしめる。
「まずは大石を狙うよりも、江戸に潜伏しておる浪士たちの結束力を削ぐほうが効果的なはず。先日、柳沢様より下げ渡された者たちも十分に役に立つはずじゃ。その者等の情報を存分に使うのだ。」
「畏まりました。・・・それでは。」
右源太は、色部又四郎からの指示を受け部屋を後にした。
四
右源太は上杉家の関与が表に出ないよう配下の者たちに指示を出し、色部又四郎の指図通りに浪士たちの暗殺を命じた。赤穂浪士たちの情報は、元赤穂藩江戸家老/藤井又左衛門と安井彦右衛門等から情報提供を受けていた。
「堀部弥兵衛・安兵衛、奥田孫太夫、赤埴源蔵、前原伊助、倉橋伝助、橋本平左衛門。田中貞四郎、神崎与五郎、早水藤左衛門、小山田庄左衛門、中田理平次か。江戸在住の浪士共は、まだまだおるの~。」
「これほど多くの浪士たちが江戸に在住しているとは驚きです。」
右源太の腹心である荒生庄左衛門が、江戸在住浪士の名簿を見て驚嘆する。庄左衛門は先代からの古参の配下であった。
「御前が言っておられた。御公儀も赤穂の者たちに同情的であると・・・。ということは、見て見ぬ振りをしておるということだ。」
右源太の言葉を重く受け止める庄左衛門等配下の者たちだった。
「大石は今、山科におるのじゃな?」
「世捨て人の如き振る舞いにて、夜毎遊興に耽っているとか・・・。」
「それも彼奴の軍略のひとつであろう。」
右源太は大石内蔵助という男の実像を捉えようと必死に思案している。
「山科に居ながら、これだけ多くの浪士たちに誰一人として未だ騒ぎを起こさせてはおらん。」
右源太は内蔵助の求心力に感心していた。
「侮れぬ男ということでしょうか。」
庄左衛門は内蔵助という脅威を認知させるために配下一同を見渡した。
「そういうことになるであろうな。軽挙妄動に走る者が、ここまで一人も出ておらんのだからな。」
右源太と庄左衛門を囲む配下の軒猿たちは互いに顔を見合わせた。
「まず、どのような手段で参るか。」
右源太は配下の者たちの顔を見渡した。
「十二月に高田郡兵衛なる人物が、再仕官という理由で同志から抜けております。」
庄左衛門が掴んできた情報を右源太に伝える。
「再仕官か。血なまぐさいことをやらずとも、そういう方法もあるようじゃの。」
配下の者の一人が分限帳を見て呟いた。
「頭。この萱野三平なる人物、その高田と同じ方法を使えば我々が手を下さずとも自滅していくかも知れませぬ。」
入手した分限帳を見入る右源太は、最初の的を萱野三平に決定する。
「旗本/大島義也の屋敷に向かうぞ。」
右源太は、手始めに萱野三平に目をつけた。三平の父/重利は、旗本/大島義也の家老を務めていた。
大島家は浅野と仇となっている吉良家に近い家柄だった。右源太は人づてに三平の討ち入りの参加を主君である義也にもらし、三平を再仕官させ一党から脱落させようと謀る。
五
旗本/大島義也は、一六九九年より長崎奉行に就任していた。義也は家老である萱野七郎左衛門重利を長崎まで呼び寄せていた。
数日前、義也は素性の不確かなある人物から脅しにも似た頼みを受けていた。
― 元赤穂藩士 萱野三平を大島家で召し抱えて欲しい。―
その言葉で義也は、その人物の背後に控える大きな存在を悟った。それは五千石弱の旗本など到底相手に出来ぬ存在であった。
― とうとうワシも、その渦中の人間になってしもうたか・・・。―
吉良家と関係の深い大島家に目を付けるところなど、大きな意図があるのは間違いなかった。
義也は重利の到着を重々しい気持ちで待っていた。遠くから用人たちの声が聞こえ、重利が到着したことを知った。重利も突然の呼び出しに不安に満ちた表情をしている。
「重利。そのほうの息子に三平というものがおるらしいな。」
「はっ。赤穂浅野家に仕えておりましたが、先の一件以来浪人暮らしをしております。」
「不憫じゃの。さぞ辛かろう。」
「はっ。」
「殿。三平のことをどこで・・・。」
「お主がの息子/三平のことで憂慮していると耳にしていたのでな・・・。」
「殿・・・。」
重利は裏で右源太たちが糸を引いていることなど露ほども感じず、平伏し体を震わしながら涙を流しいる。
「重利。息子/三平を我が家《いえ》で仕えさせてもよいぞ。」
「なんと!」
重利は、感激のあまり大きな声を上げてしまう。
「どうだ、重利。」
「も・・・勿体なき仰せ。有難く御受けさせて頂きまする。」
「そうか!では急ぎ三平に繋ぎをとり、早う奉公させい。」
「はっ。直ちに。」
重利は、これから訪れる悲劇に気づくはずもなく義也の屋敷から出て行った。
六
多都馬は調達屋の邸宅で、暫く鳴りを潜めている上杉や柳沢の次の一手について思案していた。内蔵助の暗殺は、二度失敗をしている。それに内蔵助は今や、日本国中から注目され過ぎている。暗殺など行えば、次は公儀が黙ってはいまい。探られたくもない腹を探られるような真似はすまい。
― 迂闊に手は出せまい。―
須乃は、縁側に横になって考え事をしている多都馬を部屋の隅から見つめていた。
多都馬は、部屋の隅から動かず様子を窺う須乃に声をかけた。
「ん?どうした。何か用でもあるのか?」
「すみません。お休みの邪魔をしてしまいまして・・・。」
「皮肉を言うな。暇つぶしに少し思案していただけだ。」
「そうですか・・・。」
多都馬は、いつになく元気がない須乃が気になった。横になっていた体を起こして須乃を側に呼んだ。
「須乃、ここに座ってくれ。」
須乃は多都馬と向かい合って座った。
「元気がないではないか。どうした?」
「はい。」
須乃は、なかなか言い出せずに下を向いている
「どうした?申してみよ。」
「このようなことをお聞きしてもよいかどうか・・・。」
「大丈夫だ。」
「はい。実は巷で賑わっております浪士の方々の討ち入りについてでございます。」
― 須乃はまさにその渦中にいるのだ。気にならないわけがない。―
「多都馬様はここのところ、安兵衛様をお諫めしてばかりのようで・・・。浪士の方々についても討ち入りには賛同されていない御様子。」
「そうか。」
多都馬はそう呟くと、鼻で大きく息を吐いた。
「須乃にはそのように見えるのか。」
「はい。血気にはやる御気持ちを御止めするのはわかるのですが。武士として大義に殉じようとされている方々を支援していらっしゃるようには見えませぬので。」
「・・・そうか。」
多都馬は須乃の言葉に直ぐ様返すことが出来なかった。刃傷事件の裏に隠された柳沢吉保の謀略があることを須乃も安兵衛も赤穂の浪士たちも知らない。画策された陰謀の真実を告げたところで事態が好転することもない。
ひたすら仇討ちに邁進する安兵衛や孫太夫に、武士として見事本懐を遂げさせることが友としての立場なのかも知れない。しかし、生涯の友を大義という目に見えぬ不確かなものに委ねてもよいのかという思いも抱いていた。
二階堂平法の師から、命の重みを剣術よりも何より大事なものと説かれている。名は残り死んでも心で生き続けるなどというのは、遺された者へのその場しのぎの慰めにしか過ぎない。長矩様は、ご生涯を閉じられたのだ。もうどのように振る舞っても生きて戻っては来ないのだ。だとすれば生きていること、生きている人の命こそ大事ではないのか。そういう思いが頭から離れなかった。
須乃は黙り込んでいる多都馬を見て慌てて詫びを入れる。
「申し訳ございません。何か知ったふうな物言いをいたしまして・・・。」
「あ、いや。いいのだ。」
これほどまでに悲痛な表情の多都馬は見たことがなかった。場に居づらくなった須乃は、慌てて店のほうに戻っていった。
「討ち入りか・・・。」
多都馬は再び、縁側に横になって一人物思いにふけっていた。
七
須乃は夕餉の食材を買うため、外を歩いていた。通りには様々な店が軒を連ね、人の往来も賑やかで活気に満ち溢れていた。
様々なものが目移りしてなかなか決めることが出来ない。決めることが出来ないというより、先ほどの多都馬とのやり取りが頭から離れなかった。自分が知ったような物言いで多都馬を悩ませてしまったという自責の念が付き纏う。
― 困りました。―
須乃は一度頭を整理しようと、少し細い路地に入り腰を下ろした。武士や町人たちが行き交う大通りに視線を向ける。須乃が腰を下ろし休んでいる場所と、人が行き交う大通りは別々の空間のように感じられた。
その時だった。須乃は、只ならぬ気配を感じて帯に差す懐剣に手を伸ばし頭上を見上げた。
「何者ですか!」
須乃の視線の先には美郷がいた。
「あたしの気配を感じ取るなんて、アンタもなかなかやるんだね。」
須乃は警戒したまま美郷の動きに注意を払う。
「安心しな。何もしやしないよ。」
「何か御用ですか?」
美郷は須乃の物言いが何とも間が抜けている様に感じて苦笑してしまう。
「何が可笑しいのです?」
「アンタ、あの多都馬ってお侍の何なんだい?」
「そのようなこと、あなたにお答えするいわれはありません。」
美郷は相変わらず自分を鋭く見つめる須乃を観察していた。
「アンタ、自分の立場がよくわかっていないようだね。」
「どういう意味ですか?」
美郷は須乃の問いに答えなかった。兵衛から多都馬の家の者を警護する命を受け、何も警戒していない須乃を監視していた。兵衛が危惧していたのは、吉保のところから去った伊兵衛のことだった。内蔵助の暗殺が失敗し、多都馬を脅威に感じていたはずだった。そのような者たちが次の手段として考えるのは、多都馬の家の者に手を掛けるという事だった。
黛多都馬という侍は確かに強い。しかし、どんなに強い者にも必ず弱点はある。大抵は家族がそれにあたる。
美郷は、ここ数日監視をして気付いたことがあった。それは、多都馬と須乃の関係だった。互いを想い気遣っていることに、二人揃って気付いていないということだ。
「少しはアンタも自覚したらどうだい。赤穂と吉良の争いの真っ只中にいるってことをね。」
「そのようなこと言われなくても・・・。」
「わかっちゃいないね。」
美郷が声色を変えて言った。その迫力に須乃は言い返すことが出来ず黙ってしまった。
「とにかく・・・。一人で人気の無いような所に行かぬことだ。わかったな。」
美郷は最後にそう言うと、須乃の前から走り去って行った。
須乃は、美郷が先ほど言った言葉を呟いた。
「私の立場・・・か。」
七
深川の町を安兵衛は一人歩いていた。材木業の盛んな町であり、様々な材木問屋が軒を連ねていた。
多都馬の店がある日本橋を訪れていたのだが、前を素通りしただけで立ち寄りはしなかった。
ふらりと足の赴くままに訪れた深川ではあったが、ここに細井広沢という人物が住んでいた。広沢は林羅山《はやしらざん》の門弟/坂井伯元に朱子学を学び、林信篤(鳳岡)の許で頭角を現し一流とまで目された男だった。
その噂は側用人/柳沢吉保の耳に入り、家臣として取り立てられた。しかし、松平右京太夫に仕官する旧友の一件で揉め事が起こり柳沢家を致仕する。旧友の仕官を渋った右京太夫に噛み付いたことが原因らしい。致仕した後も、その学識を惜しんだ吉保は毎年五十両を広沢に送っている。学者でありながら剣術にも優れ、堀内源太左衛門正春の道場で直心影流を学んでいた。安兵衛とはその道場で親しくなったのだ。
浪人となった広沢は深川で長屋住まいをしていた。通りでは女たちが自分の亭主の話で井戸端会議をしている。広沢の家の前で立ち止まると、隣家の女が安兵衛に声をかけて来た。
「先生なら井戸のところで水を汲んでいるよ。」
ちょうどその時、広沢が桶を抱えて帰ってきた。
「おぉ、安兵衛。」
「広沢先生。」
「狭苦しく少々埃っぽいが入ってくれ。」
安兵衛は広沢に続いて中に入った。安兵衛は手にしていた一升樽を広沢に渡す。
「酒か。いつも済まぬのう。」
安兵衛は侘しい室内を見渡している。
「どうした安兵衛、元気がないな。何かあったのか?」
「いえ、別に・・・。」
「ま、座ってくれ。」
広沢は座布団とは言い難い薄っぺらい敷物を差し出した。
「お主のような男は、何かを隠そうと思っても出来ぬ男だ。話して楽になるなら聞いてやるぞ。」
安兵衛は大きく溜息をつく。
「討ち入りのことか?」
「いえ・・・。いや、まぁそんなところです。」
「大学様に、まだ望みがあるだけに難しいところだな。」
「郡兵衛が、一党から脱盟いたしました・・・。」
安兵衛は肩を落とし俯いて言う。
驚く様子のない広沢に安兵衛は尋ねる。
「驚かないのですか?」
「人には、それぞれ進むべき道というものがあろう・・・。」
「しかし、武士には大義が・・・。」
「それも、人によって違うもの。また、それぞれが置かれておる立場によっても違うであろう。」
広沢は安兵衛が愚痴を言いに来た訳ではない事を知っていた。
「安兵衛。お主、そんな事を言いにここに参ったわけではなかろう。」
安兵衛は、多都馬に言われたことを思い出していた。
「広沢先生、私には命を預けることの出来る友がございます。先生と同じく浪人の身ではありますが、日本橋で商いをやっております。」
「浪人の身で商いを?面白い男だな。」
「はい。それに拙者も敵わぬ武芸の達人でございます。」
「何、安兵衛よりも上か・・・。」
「はい。」
「会うてみたいの・・・。」
安兵衛は広沢の言葉に、この日初めて笑顔になる。
「是非。豪放磊落にて、頭もなかなかにキレる男でございます。」
「お主が認めるその男。討ち入りの事は知っておるのか?」
安兵衛は、広沢の問い掛けに口を閉ざしてしまう。
「元気のない原因は、そこにあるようだな。」
「拙者が頼めば必ずや助勢してくれるはずですが、吉良家とも繋がりのある多都馬を、板挟みに遭わせ苦しめたくはないのです。」
広沢は、おもむろに立ち上がり安兵衛から貰った一升樽を持ってくる。
「お主のおもたせだが・・・まぁ、飲んでくれ。」
「いや、私は・・・。」
広沢は盃の代わりに湯飲み茶碗を安兵衛に差し出した。
「飲めば胸のつかえが取れるぞ。」
広沢は、安兵衛の湯飲み茶碗に酒を注ぐ。
「安兵衛、お主の友への気遣いは誠に見事なものだ。しかしな・・・、それは無用な気遣いだ。」
安兵衛は何を言い出すのかと、目を丸くして広沢を見た。
「お主が命を預けられると思うておるのなら、きっとその男も同じ心持ちなはずだ。通じ合う心も片方が閉ざしておっては通い合うことなど土台無理な話よ。」
注がれていた酒を安兵衛は一気に飲み干した。
「よく考えてみたらどうだ。」
広沢は空になった自分の湯飲み茶碗に再び酒を注ぎ込む。
安兵衛は広沢に返事をする代わりに、一升樽から湯飲み茶碗になみなみと酒を注いだ。
八
萱野重利は、足取りも軽く三平のいる屋敷へ向かっていた。
赤穂藩が改易になり、浪人暮らしとなった息子へ仕官の土産を持って来たのだ。重利の脳裏には三平の喜ぶ顔が浮かんでいた。同志と共に吉良へ討ち入りすると打ち明けられた時は驚いた。
しかし、重利は三平を思い留まらせようと必死に説得を繰り返した。大島家の家老という立場も勿論ある。しかし、三平は我が子なのだ。死ぬとわかっていることに喜んで向かわせる親がどこにいようか。重利は、主である義也の申し出に裏があることなど微塵も感じていなかった。
重利は屋敷に到着すると長屋門前で三平を呼んだ。
「三平!迎えに参ったぞ!」
中から三平の声はなく静まり返っていた。
「おい三平!父じゃ、早く出て参れ!」
いくら待っても三平の声は聞こえてこない。仕方なくその場にて待っていたが、やがて使用人たちの悲鳴が聞こえてくる。
何事かと思い、重利は供の者を待たせて屋敷内に入っていく。
「三平!三平!」
重利の悲痛な叫び声が屋敷内に響き渡っていた。
多都馬は長兵衛馴染みの店で一人酒を飲んでいた。
郡兵衛が脱名し暗然とした安兵衛の顔が忘れらない。店主は入ってきた多都馬の様子を察して早々に店を閉めていた。
閉まっていた引き戸を開けて、長兵衛と三吉が入って来る。
「いらっしゃいませ。」
「多都馬様、お探ししましたよ。」
「そうか。」
「須乃様が、ご心配されておりました。」
須乃の気遣いが多都馬の心に沁みていく。
「元締め、油揚げの煮物でもいかがでしょうか?」
店主は調理場から顔を出して長兵衛に聞く。
「油揚げの煮物か・・・。」
多都馬は味の染み込んだ油揚げの煮物を想像して舌なめずりをしている。
「おう。持ってきてくれ。」
「長兵衛、早く座れよ。」
「失礼いたしやす。」
長兵衛は、多都馬の向かいの席に腰を下した。
三吉は、二人に気を遣って別のところに腰掛ける。
「三吉、何をしておる。こっちへ来い。」
「いや、アッシはここで・・・。」
「まだそんなこと言っておるのか!、早くこっちに座れ。酒は皆で飲んだ方が美味い。」
長兵衛が三吉に目配せをして呼び寄せる。
「煮付け、お持ちいたしてよろしいでしょうか?」
「おう、頼む。」
仕上がったばかりなのか、器に盛られた油揚げの煮付けから湯気が立ち上っていた。
「多都馬様、大丈夫ですか?」
「ん?何がだ。」
「いや、多都馬様の御心ですよ。」
殺気だった安兵衛を見せられ、じっと沈思する多都馬を見ているのが長兵衛は耐えられなかった。
「多都馬様の御本心は、堀部様たちに長矩様の仇討ちなどしてほしくねぇんじゃないですか?」
多都馬は長兵衛の言葉に何も返さず無言でいた。
「それに多都馬様のお話じゃ、吉良様はむしろ被害者じゃありやせんか。」
三吉は長兵衛の隣で身を小さくしている。
長兵衛には目を閉じて沈黙している多都馬が余計に痛々しく見える。
先ほど出された油揚げの煮物に、三人共まだ箸を付けていない。
「このままだと双方、誤解をしたまま刃を交えることに・・・。」
「長兵衛。」
長い沈黙の後、多都馬は静かに長兵衛の名を呼んだ。
「はい。」
「・・・ワシが今、安兵衛や大石殿に調べたことを伝えたところで収まりはつかぬであろう。」
「しかし・・・。」
「仇は吉良様ではなく、一計を企てた柳沢だと申したとしよう。柳沢は武蔵川越藩八万石だ。しかも、上様の側用人だ。相手が大きすぎる。」
「お相手が大きければ、皆様お諦めなさるんじゃありませんか。」
「諦めれば、その後は自害しかない。」
「そんな・・・。」
「今、仇討ちだと声高に申しておる連中は皆そうするであろう。」
「では、堀部様も・・・。」
多都馬は目を閉じて頷いた。
多都馬のそうした様子を見て、長兵衛は言葉もなく項垂れる。
「安兵衛を・・・、安兵衛をそのような目に遭わせたくはない。」
解決策を出せぬ長兵衛は、自分の不甲斐無さに苛立ち拳を握りしめる。今この時こそ、受けた恩を黛家に返さなくてはという思いからだった。
長兵衛は江戸の口入れ屋衆の元締めとなる前、命を失いかけるほどの危うい事があった。江戸への進出を目論む上方の口入れ屋に騙し討ちにあったのだ。登馬の命を受けた多都馬が、長兵衛の身辺警護をして危機を救っていた。交渉と称した長兵衛の暗殺だった。
長兵衛は思い悩む多都馬の横顔を見つめていた。
「安兵衛は義理人情に厚い男だ。ましてや長矩様から高禄で召し抱えて頂いた恩も感じておる。恐らく譜代の家臣以上に仇討ちへの思いは強いはずだ。」
多都馬は、やるせない思いを吹っ切るように注がれている酒を飲んだ。今夜の酒は、多都馬の思いが染み込んでほろ苦いと長兵衛はしみじみと思った。
二
世の中が赤穂贔屓で盛り上がる中、討ち入りの決行はいつなのかという論争にも火が点いていた。兵衛は、吉保に呼ばれ屋敷内にて美郷と待機していた。
「火急な用とは?」
「兵衛、お主に命じた大石暗殺の件だが…。事態が急変いたした。」
兵衛は険しい表情の吉保を見つめた。
「大石等の命、我等も守らねばならなくなった。」
「何と!」
兵衛が吉保に詰め寄る姿勢を見せる。
吉保は詰め寄ろうとした兵衛の気持ちを察して答えた。
「今、世情は大石たち赤穂の味方をしておるのだ。」
「しかし、あの大石を斬らねば討ち入りが・・・。」
吉保は悔しさを込めて兵衛の言葉を遮った。
「上様が…。あの上様ご自身が、浪士たちの討ち入りを待ち望んでおられるのじゃ。」
「まさか、そのような!」
「ご自身がご裁断されたにも関わらず、討ち入りはいつじゃと声を張り上げておられる。」
美郷は兵衛の横で拳を握りしめる。
「実はの・・・。内匠頭の遺恨の噂、それがとうとう上様のお耳にまで入ってしまったのだ。」
綱吉まで噂に流されるとは、兵衛にとっても予想外だった。
「上様は儒学の教えを重んじるお方だ。主を想うて討ち入りを企てておる赤穂の浪士たちに甚く感じ入っておられるのだ。」
兵衛は自身も予想だにしていなかった展開に呆然としてしまう。
そして大石を守るという事は、多都馬と同じ立場に立つことになり刃を交えることが出来ないことを意味していた。
「上様はご理解されておるのでしょうか?討ち入りが成功すれば御公儀の権威は失墜し上様の名声は地に堕ちるということを・・・。」
吉保は眉間にしわを寄せ兵衛の言葉を黙って聞いている。
「御前とてそれは同じこと・・・。」
「此度の刃傷事件、吉良が生き残った故このような仕儀に相成った。」
兵衛は吉保の言葉を待った。
「陰謀詭計の裏に柳沢あり。今この時期に、大石が暗殺されれば疑われるのはワシだ。」
兵衛は吉保の声から脱力感を感じた。
「さすれば探られたくない腹まで探られる事になる。」
「・・・畏まりました。」
無念さを堪え兵衛は答えた。
吉保は兵衛の言葉に安堵していた。兵衛の抱いている野心から、納得するはずもないと思っていたのである。
「しかし、御前。上杉は如何いたしまする。手出しするなとは申せませぬぞ。」
「放っておくしかあるまい。ただし、先も申した通り大石の暗殺は防がねばならぬ。」
「大石の警護は、もはや十重二十重に固められております。御心配には及びませぬ。」
「しかし、上杉には謎の忍軍が居ると聞く。調査のために放った公儀の隠密も、誰一人帰還しておらぬ。」
「この太平の世に、まだそのような者たちを抱えておるとは・・・。」
「兵衛よ。上杉から目を離すでない。」
上杉の忍軍の話には多少驚く兵衛だが、内蔵助を警護しているのは他でもない多都馬なのである。
― どのような者が大石を狙おうと、多都馬がいる限り問題ないわ。多都馬を相手に出来るのは、ワシ一人だけだ。―
「上杉に下げ渡した二名の者は・・・。」
「手出し無用、当家には何ら係わりはない。捨て置けばよい。」
「畏まりました。」
「それよりも、木造伊兵衛。あの男を始末するのだ。」
「伊兵衛を?」
「ワシの命を聞けぬようでな。いきなり刃を向け、逐電しおった。」
吉保は右の拳で膝を何度も叩いた。
「我等の足を引っ張るとも限らん、必ず息の根を止めよ。」
「必ずや探し出して参りまする。」
「頼んだぞ。」
「はっ。」
吉保は、兵衛たちに用件を伝えると奥座敷に消えていった。
兵衛と美郷には暗く重い静寂が圧し掛かっていた。
「仰せの通り伊兵衛を斬るのですか?」
「あのような小者を斬る刀は持ち合わせてはおらぬ。あやつは、わしが斬らずとも多都馬が斬ってくれよう。」
「では、御下命には従わぬ・・・ということでしょうか。」
兵衛は暫くの間、考え込み美郷の問いを無視した。
「美郷。お主は本日より自由に生きるがよい。これからは、ワシの意地にて動く故、お主は連れて行けぬ。」
「私はお供いたします。」
「ならん!お主は・・・。」
兵衛の言葉を遮るように美郷が言い放つ。
「女子だからですか?」
暫く沈黙する兵衛だが、美郷に背を向け立ち上がる。
「ついて来い。」
兵衛と美郷は、吉保の屋敷から出ていく。
三
世の中の赤穂贔屓に焦りを感じる男がもう一人がいた。上杉家江戸家老/色部又四郎であった。
赤穂浪士の討ち入りが成功すれば、当主であり息子である綱憲は何らかのお咎めがあるかも知れない。討ち入りを防ぐため出兵したとしても御城下を騒がしたかどで、これもまたお咎めを受ける口実になる。合わせて厄介な二名も引き受けなければならなくなってしまった。元赤穂藩江戸家老の藤井又左衛門と安井彦右衛門である。柳沢の工作に手を貸した両名だが、とうとう世情に負けて庇護出来なくなったのだ。まさに八方塞の上杉家だった。
色部又四郎は、配下から腕利きの者を数人、吉良家へ付人として送り込むことを決意する。小林平八郎と山吉新八郎等がそうであった。
「平八。新八郎。そなた等は、明日より吉良様の付人として仕えてもらうぞ。」
「はっ。」
二人は色部又四郎に平伏して答える。
「後ほど、新貝弥七郎、神原平右衛門、大須賀治郎右衛門たちも差し向ける。」
「ご家老、私たち二人を吉良様の元へ仕わすということは、やはり赤穂の討ち入りが・・・。」
新八郎が険しい顔を上げる。
「うむ。ないとも言えぬからの。」
「しかし、元禄のこのご時世に、そこまで覚悟の侍が幾人いるでしょうか。」
暫くの沈黙が、事の先行きが不明であることを表していた。
「二人ともよいか。殿は義央様のお子ではあるが、今は米沢藩十五万石の藩主じゃ。もし、もし万が一討ち入りがあったらお主たちが吉良様と共に果てる必要はないぞ。なんとかして吉良様のお屋敷より脱して来るのじゃ。わかったな?逃げるのだ。」
「はっ。」
二人は色部又四郎に平伏して答え、部屋から去って行った。
色部又四郎は、二人が出て行った障子戸を暫く見つめていた。
― 逃げろと申したが・・・。あの二人、そのようなことは致すまい。すまぬ。―
二人の忠臣を想い、唇を噛みしめ目を閉じた。
赤穂浪士討ち入りを防ぐには、内蔵助の暗殺はもとより浪士の結束を削ぐか内蔵助同様に暗殺をするか、はたまた義央を米沢に引き取るかだった。
色部又四郎は国許より上杉家忍軍「軒猿」を呼び寄せていた。長矩の沙汰が下り切腹となった時点で、赤穂藩と内蔵助の周囲を監視させていたのだ。
「右源太はおるか。」
屋敷の庭先より、物音も立てずに声が聞こえる。
「はっ。ここに。」
「入れ。」
上杉家忍軍頭領/佐治右源太が障子を開け入って来る。
「表向きのことは、平八と新八郎に申しつけた。そちには裏の用を申しつける。」
「はっ。」
色部又四郎は、内蔵助と赤穂浪士たちの暗殺を命じた。
「吉良様の屋敷に討ち入られたら、上杉家としては成す術がなくなるうえに面目丸つぶれじゃ。討ち入られる前に、なんとかせねばならぬ。」
「ご指示を・・・。」
「大石を狙うのもよいが旗頭に掲げておる故、警護も厳重になっておろう。」
「御意。」
「柳沢様はお家に被害が及ばぬよう、他家を使い細工をされていたようだがの。我等上杉にそのような権力も無ければ金もない。」
右源太は表情を一切変えず色部又四郎の言葉を聞いている。
「降り掛かる火の粉は、我等だけで払わねばならぬ。」
色部又四郎の眉間のしわが一層深くなる。
「噂によれば上様ご自身も赤穂の者たちに同情しておられると聞く。とすれば、赤穂だけでなく公儀も我等の妨げとなってくるであろう。窮地に立たされておるのは赤穂の者たちではなく我らなのだ。心して掛からねばならんぞ。」
平伏している右源太は、色部又四郎の話に固く唇を噛みしめる。
「まずは大石を狙うよりも、江戸に潜伏しておる浪士たちの結束力を削ぐほうが効果的なはず。先日、柳沢様より下げ渡された者たちも十分に役に立つはずじゃ。その者等の情報を存分に使うのだ。」
「畏まりました。・・・それでは。」
右源太は、色部又四郎からの指示を受け部屋を後にした。
四
右源太は上杉家の関与が表に出ないよう配下の者たちに指示を出し、色部又四郎の指図通りに浪士たちの暗殺を命じた。赤穂浪士たちの情報は、元赤穂藩江戸家老/藤井又左衛門と安井彦右衛門等から情報提供を受けていた。
「堀部弥兵衛・安兵衛、奥田孫太夫、赤埴源蔵、前原伊助、倉橋伝助、橋本平左衛門。田中貞四郎、神崎与五郎、早水藤左衛門、小山田庄左衛門、中田理平次か。江戸在住の浪士共は、まだまだおるの~。」
「これほど多くの浪士たちが江戸に在住しているとは驚きです。」
右源太の腹心である荒生庄左衛門が、江戸在住浪士の名簿を見て驚嘆する。庄左衛門は先代からの古参の配下であった。
「御前が言っておられた。御公儀も赤穂の者たちに同情的であると・・・。ということは、見て見ぬ振りをしておるということだ。」
右源太の言葉を重く受け止める庄左衛門等配下の者たちだった。
「大石は今、山科におるのじゃな?」
「世捨て人の如き振る舞いにて、夜毎遊興に耽っているとか・・・。」
「それも彼奴の軍略のひとつであろう。」
右源太は大石内蔵助という男の実像を捉えようと必死に思案している。
「山科に居ながら、これだけ多くの浪士たちに誰一人として未だ騒ぎを起こさせてはおらん。」
右源太は内蔵助の求心力に感心していた。
「侮れぬ男ということでしょうか。」
庄左衛門は内蔵助という脅威を認知させるために配下一同を見渡した。
「そういうことになるであろうな。軽挙妄動に走る者が、ここまで一人も出ておらんのだからな。」
右源太と庄左衛門を囲む配下の軒猿たちは互いに顔を見合わせた。
「まず、どのような手段で参るか。」
右源太は配下の者たちの顔を見渡した。
「十二月に高田郡兵衛なる人物が、再仕官という理由で同志から抜けております。」
庄左衛門が掴んできた情報を右源太に伝える。
「再仕官か。血なまぐさいことをやらずとも、そういう方法もあるようじゃの。」
配下の者の一人が分限帳を見て呟いた。
「頭。この萱野三平なる人物、その高田と同じ方法を使えば我々が手を下さずとも自滅していくかも知れませぬ。」
入手した分限帳を見入る右源太は、最初の的を萱野三平に決定する。
「旗本/大島義也の屋敷に向かうぞ。」
右源太は、手始めに萱野三平に目をつけた。三平の父/重利は、旗本/大島義也の家老を務めていた。
大島家は浅野と仇となっている吉良家に近い家柄だった。右源太は人づてに三平の討ち入りの参加を主君である義也にもらし、三平を再仕官させ一党から脱落させようと謀る。
五
旗本/大島義也は、一六九九年より長崎奉行に就任していた。義也は家老である萱野七郎左衛門重利を長崎まで呼び寄せていた。
数日前、義也は素性の不確かなある人物から脅しにも似た頼みを受けていた。
― 元赤穂藩士 萱野三平を大島家で召し抱えて欲しい。―
その言葉で義也は、その人物の背後に控える大きな存在を悟った。それは五千石弱の旗本など到底相手に出来ぬ存在であった。
― とうとうワシも、その渦中の人間になってしもうたか・・・。―
吉良家と関係の深い大島家に目を付けるところなど、大きな意図があるのは間違いなかった。
義也は重利の到着を重々しい気持ちで待っていた。遠くから用人たちの声が聞こえ、重利が到着したことを知った。重利も突然の呼び出しに不安に満ちた表情をしている。
「重利。そのほうの息子に三平というものがおるらしいな。」
「はっ。赤穂浅野家に仕えておりましたが、先の一件以来浪人暮らしをしております。」
「不憫じゃの。さぞ辛かろう。」
「はっ。」
「殿。三平のことをどこで・・・。」
「お主がの息子/三平のことで憂慮していると耳にしていたのでな・・・。」
「殿・・・。」
重利は裏で右源太たちが糸を引いていることなど露ほども感じず、平伏し体を震わしながら涙を流しいる。
「重利。息子/三平を我が家《いえ》で仕えさせてもよいぞ。」
「なんと!」
重利は、感激のあまり大きな声を上げてしまう。
「どうだ、重利。」
「も・・・勿体なき仰せ。有難く御受けさせて頂きまする。」
「そうか!では急ぎ三平に繋ぎをとり、早う奉公させい。」
「はっ。直ちに。」
重利は、これから訪れる悲劇に気づくはずもなく義也の屋敷から出て行った。
六
多都馬は調達屋の邸宅で、暫く鳴りを潜めている上杉や柳沢の次の一手について思案していた。内蔵助の暗殺は、二度失敗をしている。それに内蔵助は今や、日本国中から注目され過ぎている。暗殺など行えば、次は公儀が黙ってはいまい。探られたくもない腹を探られるような真似はすまい。
― 迂闊に手は出せまい。―
須乃は、縁側に横になって考え事をしている多都馬を部屋の隅から見つめていた。
多都馬は、部屋の隅から動かず様子を窺う須乃に声をかけた。
「ん?どうした。何か用でもあるのか?」
「すみません。お休みの邪魔をしてしまいまして・・・。」
「皮肉を言うな。暇つぶしに少し思案していただけだ。」
「そうですか・・・。」
多都馬は、いつになく元気がない須乃が気になった。横になっていた体を起こして須乃を側に呼んだ。
「須乃、ここに座ってくれ。」
須乃は多都馬と向かい合って座った。
「元気がないではないか。どうした?」
「はい。」
須乃は、なかなか言い出せずに下を向いている
「どうした?申してみよ。」
「このようなことをお聞きしてもよいかどうか・・・。」
「大丈夫だ。」
「はい。実は巷で賑わっております浪士の方々の討ち入りについてでございます。」
― 須乃はまさにその渦中にいるのだ。気にならないわけがない。―
「多都馬様はここのところ、安兵衛様をお諫めしてばかりのようで・・・。浪士の方々についても討ち入りには賛同されていない御様子。」
「そうか。」
多都馬はそう呟くと、鼻で大きく息を吐いた。
「須乃にはそのように見えるのか。」
「はい。血気にはやる御気持ちを御止めするのはわかるのですが。武士として大義に殉じようとされている方々を支援していらっしゃるようには見えませぬので。」
「・・・そうか。」
多都馬は須乃の言葉に直ぐ様返すことが出来なかった。刃傷事件の裏に隠された柳沢吉保の謀略があることを須乃も安兵衛も赤穂の浪士たちも知らない。画策された陰謀の真実を告げたところで事態が好転することもない。
ひたすら仇討ちに邁進する安兵衛や孫太夫に、武士として見事本懐を遂げさせることが友としての立場なのかも知れない。しかし、生涯の友を大義という目に見えぬ不確かなものに委ねてもよいのかという思いも抱いていた。
二階堂平法の師から、命の重みを剣術よりも何より大事なものと説かれている。名は残り死んでも心で生き続けるなどというのは、遺された者へのその場しのぎの慰めにしか過ぎない。長矩様は、ご生涯を閉じられたのだ。もうどのように振る舞っても生きて戻っては来ないのだ。だとすれば生きていること、生きている人の命こそ大事ではないのか。そういう思いが頭から離れなかった。
須乃は黙り込んでいる多都馬を見て慌てて詫びを入れる。
「申し訳ございません。何か知ったふうな物言いをいたしまして・・・。」
「あ、いや。いいのだ。」
これほどまでに悲痛な表情の多都馬は見たことがなかった。場に居づらくなった須乃は、慌てて店のほうに戻っていった。
「討ち入りか・・・。」
多都馬は再び、縁側に横になって一人物思いにふけっていた。
七
須乃は夕餉の食材を買うため、外を歩いていた。通りには様々な店が軒を連ね、人の往来も賑やかで活気に満ち溢れていた。
様々なものが目移りしてなかなか決めることが出来ない。決めることが出来ないというより、先ほどの多都馬とのやり取りが頭から離れなかった。自分が知ったような物言いで多都馬を悩ませてしまったという自責の念が付き纏う。
― 困りました。―
須乃は一度頭を整理しようと、少し細い路地に入り腰を下ろした。武士や町人たちが行き交う大通りに視線を向ける。須乃が腰を下ろし休んでいる場所と、人が行き交う大通りは別々の空間のように感じられた。
その時だった。須乃は、只ならぬ気配を感じて帯に差す懐剣に手を伸ばし頭上を見上げた。
「何者ですか!」
須乃の視線の先には美郷がいた。
「あたしの気配を感じ取るなんて、アンタもなかなかやるんだね。」
須乃は警戒したまま美郷の動きに注意を払う。
「安心しな。何もしやしないよ。」
「何か御用ですか?」
美郷は須乃の物言いが何とも間が抜けている様に感じて苦笑してしまう。
「何が可笑しいのです?」
「アンタ、あの多都馬ってお侍の何なんだい?」
「そのようなこと、あなたにお答えするいわれはありません。」
美郷は相変わらず自分を鋭く見つめる須乃を観察していた。
「アンタ、自分の立場がよくわかっていないようだね。」
「どういう意味ですか?」
美郷は須乃の問いに答えなかった。兵衛から多都馬の家の者を警護する命を受け、何も警戒していない須乃を監視していた。兵衛が危惧していたのは、吉保のところから去った伊兵衛のことだった。内蔵助の暗殺が失敗し、多都馬を脅威に感じていたはずだった。そのような者たちが次の手段として考えるのは、多都馬の家の者に手を掛けるという事だった。
黛多都馬という侍は確かに強い。しかし、どんなに強い者にも必ず弱点はある。大抵は家族がそれにあたる。
美郷は、ここ数日監視をして気付いたことがあった。それは、多都馬と須乃の関係だった。互いを想い気遣っていることに、二人揃って気付いていないということだ。
「少しはアンタも自覚したらどうだい。赤穂と吉良の争いの真っ只中にいるってことをね。」
「そのようなこと言われなくても・・・。」
「わかっちゃいないね。」
美郷が声色を変えて言った。その迫力に須乃は言い返すことが出来ず黙ってしまった。
「とにかく・・・。一人で人気の無いような所に行かぬことだ。わかったな。」
美郷は最後にそう言うと、須乃の前から走り去って行った。
須乃は、美郷が先ほど言った言葉を呟いた。
「私の立場・・・か。」
七
深川の町を安兵衛は一人歩いていた。材木業の盛んな町であり、様々な材木問屋が軒を連ねていた。
多都馬の店がある日本橋を訪れていたのだが、前を素通りしただけで立ち寄りはしなかった。
ふらりと足の赴くままに訪れた深川ではあったが、ここに細井広沢という人物が住んでいた。広沢は林羅山《はやしらざん》の門弟/坂井伯元に朱子学を学び、林信篤(鳳岡)の許で頭角を現し一流とまで目された男だった。
その噂は側用人/柳沢吉保の耳に入り、家臣として取り立てられた。しかし、松平右京太夫に仕官する旧友の一件で揉め事が起こり柳沢家を致仕する。旧友の仕官を渋った右京太夫に噛み付いたことが原因らしい。致仕した後も、その学識を惜しんだ吉保は毎年五十両を広沢に送っている。学者でありながら剣術にも優れ、堀内源太左衛門正春の道場で直心影流を学んでいた。安兵衛とはその道場で親しくなったのだ。
浪人となった広沢は深川で長屋住まいをしていた。通りでは女たちが自分の亭主の話で井戸端会議をしている。広沢の家の前で立ち止まると、隣家の女が安兵衛に声をかけて来た。
「先生なら井戸のところで水を汲んでいるよ。」
ちょうどその時、広沢が桶を抱えて帰ってきた。
「おぉ、安兵衛。」
「広沢先生。」
「狭苦しく少々埃っぽいが入ってくれ。」
安兵衛は広沢に続いて中に入った。安兵衛は手にしていた一升樽を広沢に渡す。
「酒か。いつも済まぬのう。」
安兵衛は侘しい室内を見渡している。
「どうした安兵衛、元気がないな。何かあったのか?」
「いえ、別に・・・。」
「ま、座ってくれ。」
広沢は座布団とは言い難い薄っぺらい敷物を差し出した。
「お主のような男は、何かを隠そうと思っても出来ぬ男だ。話して楽になるなら聞いてやるぞ。」
安兵衛は大きく溜息をつく。
「討ち入りのことか?」
「いえ・・・。いや、まぁそんなところです。」
「大学様に、まだ望みがあるだけに難しいところだな。」
「郡兵衛が、一党から脱盟いたしました・・・。」
安兵衛は肩を落とし俯いて言う。
驚く様子のない広沢に安兵衛は尋ねる。
「驚かないのですか?」
「人には、それぞれ進むべき道というものがあろう・・・。」
「しかし、武士には大義が・・・。」
「それも、人によって違うもの。また、それぞれが置かれておる立場によっても違うであろう。」
広沢は安兵衛が愚痴を言いに来た訳ではない事を知っていた。
「安兵衛。お主、そんな事を言いにここに参ったわけではなかろう。」
安兵衛は、多都馬に言われたことを思い出していた。
「広沢先生、私には命を預けることの出来る友がございます。先生と同じく浪人の身ではありますが、日本橋で商いをやっております。」
「浪人の身で商いを?面白い男だな。」
「はい。それに拙者も敵わぬ武芸の達人でございます。」
「何、安兵衛よりも上か・・・。」
「はい。」
「会うてみたいの・・・。」
安兵衛は広沢の言葉に、この日初めて笑顔になる。
「是非。豪放磊落にて、頭もなかなかにキレる男でございます。」
「お主が認めるその男。討ち入りの事は知っておるのか?」
安兵衛は、広沢の問い掛けに口を閉ざしてしまう。
「元気のない原因は、そこにあるようだな。」
「拙者が頼めば必ずや助勢してくれるはずですが、吉良家とも繋がりのある多都馬を、板挟みに遭わせ苦しめたくはないのです。」
広沢は、おもむろに立ち上がり安兵衛から貰った一升樽を持ってくる。
「お主のおもたせだが・・・まぁ、飲んでくれ。」
「いや、私は・・・。」
広沢は盃の代わりに湯飲み茶碗を安兵衛に差し出した。
「飲めば胸のつかえが取れるぞ。」
広沢は、安兵衛の湯飲み茶碗に酒を注ぐ。
「安兵衛、お主の友への気遣いは誠に見事なものだ。しかしな・・・、それは無用な気遣いだ。」
安兵衛は何を言い出すのかと、目を丸くして広沢を見た。
「お主が命を預けられると思うておるのなら、きっとその男も同じ心持ちなはずだ。通じ合う心も片方が閉ざしておっては通い合うことなど土台無理な話よ。」
注がれていた酒を安兵衛は一気に飲み干した。
「よく考えてみたらどうだ。」
広沢は空になった自分の湯飲み茶碗に再び酒を注ぎ込む。
安兵衛は広沢に返事をする代わりに、一升樽から湯飲み茶碗になみなみと酒を注いだ。
八
萱野重利は、足取りも軽く三平のいる屋敷へ向かっていた。
赤穂藩が改易になり、浪人暮らしとなった息子へ仕官の土産を持って来たのだ。重利の脳裏には三平の喜ぶ顔が浮かんでいた。同志と共に吉良へ討ち入りすると打ち明けられた時は驚いた。
しかし、重利は三平を思い留まらせようと必死に説得を繰り返した。大島家の家老という立場も勿論ある。しかし、三平は我が子なのだ。死ぬとわかっていることに喜んで向かわせる親がどこにいようか。重利は、主である義也の申し出に裏があることなど微塵も感じていなかった。
重利は屋敷に到着すると長屋門前で三平を呼んだ。
「三平!迎えに参ったぞ!」
中から三平の声はなく静まり返っていた。
「おい三平!父じゃ、早く出て参れ!」
いくら待っても三平の声は聞こえてこない。仕方なくその場にて待っていたが、やがて使用人たちの悲鳴が聞こえてくる。
何事かと思い、重利は供の者を待たせて屋敷内に入っていく。
「三平!三平!」
重利の悲痛な叫び声が屋敷内に響き渡っていた。