心の刃 -忠臣蔵異聞-
第15章 浪士たちの危機
          一

 多都馬と長兵衛は、安兵衛の住む本所の借家に来ていた。案内され奥に進むと、そこには弥兵衛と孫太夫もいた。二人とも少し強張った面持ちで座っていた。
「ま、座ってくれ。」
 安兵衛に促され多都馬と長兵衛は静かに腰を下ろす。
 そこへキチが遠慮がちに多都馬と長兵衛に茶を差し出した。
「かたじけない。」
 キチは張り裂けそうな思いを隠し奥へと下がって行った。長兵衛も茶をひとすすりすると、下がって行ったキチの後を追って部屋から出て行く。
 安兵衛一人だけが先程から他の二人とは違い、柔和で落ち着いた表情で多都馬を迎えていた。
「今日は長兵衛を引き連れて如何した?」
「萱野殿が自害されたという話を聞いたのでな。」
  多都馬の言葉に緊張感が漂い空気が張り詰める。いつもは雄弁に話をする孫太夫だが、此度は沈黙したまま座っていた。
「萱野の死は無駄にはせぬ。」
 普段鼻息の荒い安兵衛が、今日は妙に落ち着いていた。 
「多都馬。」
「ん?」
 安兵衛は言いづらいのか暫く沈黙が続いている。
「どうした。」
「今更なのだが。」
「だから、何だ。」
「お主に申しておきたいことがあってな。」
 弥兵衛は目をつむり、孫太夫は先程から下ばかり見つめている。
「お主はワシの真の友ゆえ、もっと早うに話しておくべきだった。許してくれ。」
 安兵衛は、多都馬に頭を下げた。
「やめてくれ、他人行儀な。」
「我等は殿の無念を晴らすため、吉良様の屋敷に討ち入る所存じゃ。」
「わかっておる。」
「そうよな。」
「あのようなこともあったのだ、気付かぬほうがおかしいだろう。」
 過去の襲撃事件を引き合いに出され、安兵衛たちは苦笑いをしている。
「多都馬殿。このこと、決して他言は・・・。」
 弥兵衛が言いかけたところで安兵衛が口を挟む。
「義父上。多都馬は、そのような男ではござらん。安心して下され。」
「そうであったな。これは、失礼致した。」
 弥兵衛が、うっかりしたとばかりに頭を掻く。
「ついてはお主に頼みたいことがある。」
 安兵衛は、思いを伝える前に一呼吸おいた。
「我等に力を貸してもらいたい。」
 安兵衛は多都馬に手を差し伸べる。
「心得た。」
 多都馬は安兵衛に即答したが、心の中は複雑だった。
― ワシは友を死地に送る手助けをするのか・・・。―
 こうした思いと裏腹に多都馬の手は、差し出された安兵衛の手をしっかり握っていた。

          二

 右源太は、色部又四郎の屋敷に来ていた。
 年若の主税を亡きものし、浪士たち一党に多大な動揺を与える企みは失敗した。
「赤穂の者ども、それほどの手練れの集まりか。」
「妻女もなかなかの腕前にて・・・。」
「やるのぉ・・・。」 
 色部又四郎は、敵対している大石内蔵助という男に敬意に似たようなものを感じていた。
「元々一人を相手に集めた配下、三人の手練相手では勝負にならぬ故。配下の者を退かせました。申し訳ござりませぬ。」
「虚をつかれたのであろう。幸い死者も出ておらん。ま、気にするでない。」
「恐れ入り奉ります。」
「萱野三平の件は見事であった。そのことで多くの浪士が盟約を抜けたと聞いておる。」
「はっ。」
「まぁ、大石の嫡男の件は致し方あるまい。狙うたのは良い案であったが、それよりも他の浪士たちを狙うたほうが、彼奴等(きゃつら)に与える影響は大きかろう。特に生活に困窮しておる者を狙うほうがよい。」
 色部又四郎から命を受けた右源太は、即座に生活に困窮している浪士たちを思い浮かべた。
「はっ」
「いつ実行されるか分からぬ討ち入りよりも、先ずは目先の生活であろう。そのあたりに餌を撒いておけば、必ず食いつくはずじゃ。」
「確かに。」
「時をかけ過ぎてもよくないが、急ぎ過ぎると警戒を強めてしまう恐れがある。真綿で首を絞めるようにじわじわと進めるのじゃ。」
「畏まりました。」
「何れ内部に疑心暗鬼が生まれる。そして、最終的には仲間割れじゃ。」
「御意。」
「担ぎ手が居らねば神輿も、ただの飾りとなる。」
 目を合わせた色部又四郎と右源太の表情が険しさを増した。
「藤井と安井の両名はまだ利用価値があります故。我等にまだ分があります。」
「まさか、江戸家老の両名が我等に加担しておるなど思うてはおらんだろう。」
 右源太は色部又四郎の言葉に黙って頷いた。
「徐々に浪士たちの戦力を削いでゆくのだ。これは浅野と上杉の戦だ。」
 色部又四郎の飛ばす檄に答える軒猿たちは、役目のために各自散開し赤穂の浪士たちの下へ向かうのだった。

           三

 橋本平左衛門は遊女/はつと遊女屋の部屋にいた。外はいつの間にか夜になり、蝋燭の灯りが寂しそうに部屋を照らしている。
 はつといるこの部屋は、夢と(うつつ)の間にいるようで平左衛門には安息の場所となっていた。はつは平左衛門の隣で、幸せそうな笑みを浮かべ眠っている。
 刃傷事件前は、赤穂藩にて馬廻り役百石だった。馬回り役とは、上級武士の中から武芸に秀でた者が選ばれ、また大名の側近としての役割もあり、事務などの取次なども行っていた当時の役職である。長矩が刃傷に及び、吉良上野介を討ち果たせず自害したことで平左衛門の人生は一変してしまったのだ。
 以来、上野介を狙い亡き長矩の無念を果たそうと同志たちと誓い合った。しかし、蓄えも底をつき日々の生活も荒んでいってしまった。
― 何故、もっと早う討ち入りが出来んのだ。―
 荒んだ生活の末路は酒と女だ。酒の勢いで立ち寄った遊女屋ではつと知り合い、それ以来はつに生活を支えてもらっていた。”
― こんなはずではなかった。―
 平左衛門の頭の中を、この言葉が駆け巡っていた。
「ワシは、こんなことで終わらんぞ。終わってたまるか!」
 平左衛門は、酒を煽りながら何度も呟いていた。
 酩酊状態の平左衛門は、軒猿たちが忍び寄る気配に全く気付いていなかった。軒猿たちは、立てかけてある刀を抜き平左衛門を押さえつけた。
「何者!」
 口を塞がれたはつも目を覚ますが、刀で胸を貫かれ絶命する。
 平左衛門は大声で叫ばれぬように、軒猿たちに口はしっかり抑えつけられていた。
 必死で抵抗する平左衛門だが、酒浸りの体に力が入らない。
「お主は、この女と心中するのだ。」
 平左衛門を囲む軒猿たちの間から、腹心の荒生庄左衛門が現れる。庄左衛門は、平左衛門の耳元で囁くと配下から平左衛門の刀を受け取る。
「御免。」
 庄左衛門が羽交い絞めにされている平左衛門の腹に刀を突き刺した。絶命しているはつの手には平左衛門の脇差が握られている。
 部屋は、平左衛門とはつの血で真っ赤に染まっていく。
 相対死のように見せかけての暗殺だった。

                  四

 多都馬は安兵衛から知らせを受け、道場を訪れていた。話をする安兵衛の表情には焦りがあった。
「幾人かの同志たちと連絡が取れぬ。」
「どういうことだ?」
「江戸に潜伏している同志たちの居場所は、ワシが全て把握しておる。」
「在宅しておらんということか。」
 安兵衛は黙って頷いた。
「不明な者たちは誰だ。」
「中田理平次、田中貞四郎、鈴田重八、河村伝兵衛、長沢六郎左衛門、橋本平左衛門。まだ他にもおる。」
「足取りが掴めぬのか?」
 安兵衛は、多都馬の問いに声もなく頷く。
 消息不明の同志たちが気掛かりで、多都馬と安兵衛は大きくため息をついた。
「盟約から抜け出たということはないのか?」
「貞四郎なら、それもあるかも知れん。しかし、河村殿や長沢殿に限ってそれは有り得ぬ。」
 田中貞四郎は、片岡源五右衛門や磯貝十郎左衛門等と同じ浅野内匠頭長矩に寵愛されていたが、酒と女色に溺れ病に侵されていた。
「わかった。行方の分からぬ者の潜伏先を教えてくれ。長兵衛たちに探らせる。」
 安兵衛の顔に不安と焦りが浮かぶ。 
 その時、三吉が息を切らせて多都馬と安兵衛のところへ駆け付けて来る。
「旦那!」
「三吉か、ようわかったの。」
「堀部様のところにおられるって須乃様から聞いたもんで・・・。」
「旦那。橋本様っていうお侍をご存知ですか?」
「平左衛門がどうかしたのか!」
 安兵衛が声を荒げて三吉に詰め寄る。
「相対死で先程、自身番へ運ばれて行きやした。」
「何!」
 多都馬と安兵衛は驚きの声を上げる。
「三吉!案内せいっ。」
「へぃ!」
 多都馬と安兵衛は、三吉の後を追って自身番へ向かった。

          五

 多都馬と安兵衛、孫太夫と源蔵は互いに組んで音信不通の同志たちを廻って歩いた。
 調べた結果、中田理平次は物盗りの犯行に遭い斬殺。田中貞四郎と鈴田重八は遺書を残し互いの胸を刺して自害していた。
 その夜、多都馬は安兵衛の道場宅で弥兵衛と孫太夫、源蔵らと話し合っていた。
「安兵衛。あの二人は自害ではない。それに中田理平次殿の刀傷、かなりの遣い手によるものに相違あるまい。ただの物取りなどではない。」
 多都馬が安兵衛の顔を見てはっきりと言った。
「どういうことだ。貞四郎たちは遺書もしたためてあったではないか。」
「ワシもどうも腑に落ちん。」
 孫太夫も多都馬と同様の考えを持っていた。
「貞四郎と重八は、盟約から脱しようとしていた。脱しようとしていた者が自害などするか?」
 安兵衛は力説する孫太夫の顔を見つめる。
「平左衛門殿は盟約を脱しようとはしておらんぞ。むしろ、我等と同じだったはず。」
 源蔵には平左衛門の相対死の理由がわからなかった。
 安兵衛と源蔵、孫太夫は混乱していた。
「多都馬。貞四郎と重八が自害でないとするなら他に何がある。」
 安兵衛の問い掛けに応じず、多都馬は目を閉じて黙したまま考えている。安兵衛も孫太夫も、二人の自害の理由を必死に考えていた。
「暗殺だ。」
 多都馬は頭に過った言葉を呟いた。
「暗殺だと?」
 孫太夫が驚いて飛び上がる。
「その二人だけではない。平左衛門殿や行方の分からぬ者もおそらく・・・。」
「そんなこと・・・。」
 安兵衛は殺される理由がわからないとばかりに叫んだ。
「これはな。お主たち浪士を狙《ねろ》うた暗殺だ。」
 安兵衛、孫太夫、源蔵等三人は突拍子もない話に戸惑う。
「待ってくれ。御家老を狙うなら分かるが、我等を狙うなど意図が分からぬ。」
「神輿の担ぎ手だよ安兵衛。」
「担ぎ手だと?」
 安兵衛には、多都馬の言っていることが分からなかった。
「担ぐ者が居らねば神輿はどうなる。」
 安兵衛と孫太夫、源蔵は互いに相手の顔を見る。
「それに行方知れずになれば脱盟という形でお主たちは認識する。自害となれば萱野殿の時と同じように、同志たちの間に焦りと動揺が走る。」
 安兵衛と孫太夫、そして源蔵は、多都馬の話に身を乗り出し聞いていた。
「動揺しているところへ、今度はあからさまに命を狙いに来る。同志だけしか知らぬ自分たちの情報が漏れていたらお主たちはどうなる。」
 安兵衛は、多都馬の話に言葉を失う。
「詳しいことは調べておらぬが、三平殿の自害も作為的な何かを感じるのだ。」
「敵は吉良か・・・それとも、公儀か。」
「上杉かも知れんぞ。」
 多都馬の言葉に、一同に衝撃を受ける。
「そうか。上杉弾正の父親は上野介だ。」
 源蔵が言う。
「こうしてはおれん。直ぐに他の者たちの安否を確認せねば!」
 安兵衛は腰に刀を差し立ち上がった。
「待て。単独で行動してはならん。必ず二人一組、もしくは多人数で行動するのだ。」
 多都馬と安兵衛たちは、江戸やその近郊に潜伏している同志たちの元へ向かった。

          六

 元赤穂藩江戸家老/藤井又左衛門と安井彦右衛門は、上杉家からの呼び出しに応じ下屋敷に来ていた。
 世情が赤穂浪士討ち入りの噂で賑わう中、二人はひっそりと鳴りを潜めていた。
「又左。度重なる上杉家からの呼び出しということは、柳沢様の庇護はもうなくなったのではないのか?」
 彦右衛門は、自分たちの置かれている環境に不安を覚えていた。
「我等のことが安兵衛たちに知られでもしたら・・・。」
「何もそう怖気づくことはあるまい。米沢藩は十五万石の大大名じゃ。」
「しかし、人目をはばかるような扱いに加え、軒猿とかいう忍びの者が関わってきたではないか。」
 彦右衛門の前で虚勢を張ったものの、又左衛門も実のところは不安だった。
「もう暫くの辛抱じゃ。大石や安兵衛たちがおらぬようになれば、討ち入りの噂など直ぐに吹き飛んでしまうわ。」
 又左衛門たちが控えている部屋の障子が開いて右源太が入って来る。
「どうですかな。変わりありませぬか?」
「禄を失った我等には、身に余るお持て成しにて・・・。」
 又左衛門と彦右衛門は、右源太に頭を下げる。
「先日は、貴重な情報を頂きかたじけない。」
「お役に立ったようで、我等も安心致しました。」
「再びお呼び立てしたのは他でもない。此度は少々、浪士の主要人物たちの情報が欲しい。」
「どのような。例えば、堀部安兵衛や奥田あたりのことを申しておられるのか?」
 彦右衛門が右源太の顔色を伺いながら話す。
「いや、安兵衛や奥田は我等も存じおる。それに杉野や間、勝田、潮田などもなかなかの腕前だとか。」
「ほう、ようご存知で。」
「今、拙者が挙げた方々は少々手間がかかります。我等とて、それなりの覚悟を持って挑まねばならんでしょう。然るべきときまで、戦力はある程度温存せねばなりませんのでな。」
「すると中村清右衛門や多川九左街門あたりが妥当でしょうな。」
「その二人の石高は。」
「多川は四百石、中村は百石あたりでありましょう。」
「共に赤穂藩の重臣ですな。後ほど配下の者を使わせますので潜伏先をお伺いしたい。」
「堀部や奥田ほどではござらぬが、中村は槍を少々遣いまする。御油断なきよう。」
「かたじけない。」
 右源太は笑みを浮かべて又左衛門と彦右衛門に会釈する。
「お二方、もう暫くの辛抱でござる。首尾よく事が運んだ暁には、きっとお二方の望み通りの仕官が叶うことでござりましょう。」
「かたじけない。」
 又左衛門は、上杉家に対し終始下手に出ていた。
「さぁ、そろそろ夕餉の支度が整っております。」
 三人は部屋の障子を開けて、別部屋へ移って行った。

           七

 多川九左衛門は、浅野家持組頭四百石で重臣の家柄であった。
 同志たちが多数潜伏している箇所を避け、妻子と離れ築地の借家に居を構えていた。
「お家再興か・・・それとも。」
 九左衛門は、不安になっていた。
 浅野家のお家再興は、今の段階では難しい。お家再興になったとしても、以前のように大名としてという待遇にはなるまい。また仇討ちとなれば公儀への反逆とみなされ極刑が言い渡され、その罪は親戚縁者にまで及ぶかもしれない。
 しかし、例外もある宇都宮藩で起きた浄瑠璃坂の仇討ちである。このことは以前、孫太夫たちと朝まで語り合った。
 奥平家内の家臣/奥平(おくだいら)内蔵充(くらのじょう)と奥平隼人の口論から発展した一連の刃傷事件だ。内蔵充は切腹の沙汰を受けたが、隼人は追放という長矩の時と同じ片手落ちの事件だった。
 十二歳の元服前の内蔵充嫡子/源八に同情し助太刀する者が多数現れ、その者たちと三年の後隼人を討ち果たした。公儀は源八を伊豆大島への流罪にし、六年後の恩赦で他家へ仕官させている。
― 此度もきっと・・・。―
 九左衛門の脳裏に浮かぶ期待は、ますます大きく膨らみ始めていた。
 その時、家の戸を叩く音が聞こえた。戸を開けるとそこには誰も居なかった。
「なんじゃ?風か?」
 辺りを見渡すと二十間先の家の角から、こちらを覗く怪しい男がいた。
 男は九左衛門と目が合うと、そそくさと逃げるように去って行った。
― 何者だ? ―
 九左衛門は、刀を差して男の後を追った。
 暫く男を尾けていた九左衛門だったが、突然見失ってしまう。
― どこへ行った。―
 辺りを見渡しても男の姿は見つからなかった。
「元赤穂藩士持組頭/多川九左衛門殿だな?」
 不意に後ろから声が聞こえ振り返ると、先程の男が立っていた。
「いや、人違いではないかな。」
 九左衛門は、その場から立ち去ろうとしたが行く手を数人の男たちに塞がれる。
「調べはついておる。九左衛門殿、お命頂戴仕る。」
 男たちは右源太が放った軒猿たちである。
 一斉に斬りかかる軒猿たちを相手に、九左衛門殿も奮戦するのだが敢え無くその刃に斃れる。
― 仕官の道が・・・。―
 薄れゆく意識の中で九左衛門は、桜舞い散る道を出仕していく自分の幻を見ていた。
 軒猿たちは九左衛門の遺体を埋めた後、借家に文を残し発見されやすいよう去っていく。

          八

 多都馬と安兵衛、孫太夫と源蔵は二人一組となって同志の無事を確認していった。
 多都馬と安兵衛が最後になる中村清右衛門宅に駆け付けた。すると清右衛門は刺客との壮絶な斬り合いの末に斃れていた。
「清右衛門!」
「清右衛門殿!」
 多都馬と安兵衛は、襲いかかっている刺客たちを追い払う。
「引けぃ!」
 右源太は、多都馬と安兵衛が現れ形勢不利と判断して立ち去って行く。
 去って行こうとする軒猿たちを多都馬は追いかけた。
 安兵衛が倒れている清右衛門を抱える。
「安兵衛・・・すまぬ。」
 安兵衛の目から涙が溢れていた。
「それは我等のほうだ、すまぬ。来るのが遅かった。」
「稽古不足が祟ったのさ・・・。」
「何を申す、よく戦ったではないか。」
 清右衛門は、安兵衛の言葉にうっすら微笑む。
「無念だ・・・。」
 清右衛門は、安兵衛の胸の中で息を引き取った。
 多都馬は軒猿たちを、追い払い安兵衛のところへ駆け戻って来る。
「安兵衛!」
 安兵衛は、無言で首を横に振った。
「どこの何者の仕業じゃ。」
 怒りに討ち震える安兵衛の目から涙が流れ落ちる。
「あの太刀筋・・・覚えがある。確か、夢覚流。」
「あまり聞き及びのない流派だな。」
「米沢藩の上松義次《うえまつよしつぐ》という者が開祖の流派よ。」
「米沢といえば・・・上杉か!」
 多都馬と安兵衛は一連の浪士暗殺の裏に上杉家が関与していることを知った。米沢藩上杉家は、十五万石の大大名。人も金も五万石の赤穂藩を遥かに凌いでいる。
 すると、暗闇から兵衛が姿を現す。
「多都馬!」
「兵衛。」
 多都馬は、安兵衛の盾になるように兵衛に向き直る。
「お主の差し金か?」
「馬鹿を申すな。ワシは刺客たちを尾けてきただけだ。」
「清右衛門殿を見殺しにしたな。」
 多都馬は兵衛に気付かれぬよう、左手で鞘を握り親指で鍔を掛けた。
「見殺しなどと馬鹿を申すな。あれほど集団、ワシが到着した時はもう遅かったわ!」
「用向きは何だ。」
「さぁ、何だと思う。」
 安兵衛は清右衛門をそっと寝かせて刀の柄に手を置く。
「慌てるな!」
 兵衛が臨戦態勢の多都馬と安兵衛に叫んだ。
 多都馬と安兵衛、二人の動きが一瞬止まる。
「お主たちを裏切っておる者の名を知りとうはないか。」
「裏切り者だと!」
 安兵衛が語気を強めて言う。
「赤穂藩士にそのような者はいないと申すのか。愚か者め。」
「何っ!」
 今にも抜刀して兵衛を斬ろうとする安兵衛を多都馬が止める。
「赤穂藩は、その裏切り者によって売られたのだ。」
「それは誰だ!」
 多都馬は鋭い眼光で兵衛を睨む。
「元赤穂藩江戸家老/藤井又左衛門と安井彦右衛門だ。」
「馬鹿な!そんな訳が・・・。」
 安兵衛が声高に叫んだ。
「その両名、どこに居る。」
 多都馬が踏み出して兵衛に叫ぶ。
「上杉家下屋敷に匿われておるわ。」
「安兵衛、いくぞ!」
 多都馬と安兵衛は、上杉家下屋敷を目指しひた走った。

          九 

 上杉家下屋敷正門の前に多都馬と安兵衛は到着した。ただならぬ様子の多都馬と安兵衛を見て門番は尻込みをしている。
「多都馬どうする。斬り込むか?」
「落ち着け。ここは長兵衛たちに張り番に立ってもらおう。藤井・安井の両名が現れるまで待つしかない。」
「出てくるか?」
「出てくるさ。」
 一先ず引き上げようと背を向け、二人は向かいの大名屋敷の壁に身を隠した。
「長兵衛たちを呼びに行ってくる。」
 安兵衛が動き出そうとした瞬間、通用門の(かんぬき)の開く音が聞こえてくる。
「安兵衛、ちょっと待て。」
 多都馬は安兵衛を引き留め、二人は身を乗り出して覗き込んだ。藤井・安井の両名が目立たぬように通用門から出てくる。又左衛門と彦右衛門は、護衛らしき二名が辺りを警戒している。
 多都馬と安兵衛が、又左衛門と彦右衛門の前に躍り出て行く。又左衛門と彦右衛門は、二人の出現に驚き恐怖する。
「や、安兵衛。」
「ご家老・・・。」
 安兵衛は怒りに討ち震え、刀の柄に手を添える。
「安兵衛!お主は、大事ある身。手出しするな。」 
 護衛の二名が一斉に刀を抜く。
「お主等に用はない、そこの二人を引き渡してもらいたい。」
「戯けたことを!」
 護衛の二名が多都馬に斬りかかる。
 多都馬は、これを難なくかわし刀の柄で二名の胴を打ち気絶させる。落ちている刀を拾い上げ、又左衛門と彦右衛門に詰め寄っていく。
 これを見た又左衛門と彦右衛門は、恐怖に顔を引きつらせて震え出す。
「理由はわかっておろうな。冥途で長矩様に許しを乞うがよい。」
「な・・・何故、我等のことが。」
「ま、待て。話を聞いてくれ。」
 多都馬は逃げる彦右衛門を一刀のもとに斬り捨て、逃げ出す又左衛門には彦右衛門の脇差を投げつけた。
 多都馬の投げた脇差は見事、又左衛門の首を刺し貫いた。
 多都馬と安兵衛は、斃れている二人の遺体を確認する。二人とも目をはっきりと見開いた表情で死んでいた。
 そこへ通りから下屋敷へ歩いてくる山吉新八郎と小林平八郎が鉢合わせる。
「何者だ!」
 安兵衛と多都馬は、声の方へ顔を向けた。
「ん?お主は、堀部安兵衛。」
 平八郎が臨戦態勢を取る。
 新八郎は、斃れている又左衛門を見る。
 多都馬が新八郎と平八郎の前に出て、二人を斬った理由を話した。
「黛多都馬と申す。この両名は主を裏切った奸臣にて成敗いたした。」
「奸臣であろうとなかろうと、その二人は先程まで我が上杉にて預かりし御仁。それを斬ったとなれば、その方もただでは済まぬぞ。」
 新八郎が刀を抜いて正眼に構える。
「山吉新八郎、参る。」
 多都馬は納めた刀に手を置いた。
 新八郎は上段から唐竹に斬り下ろした。
 多都馬は居合抜きで振り下ろされた刃を弾き飛ばした。
 多都馬と新八郎の白刃が、闇夜に煌めく。
 新八郎が逆袈裟から斬り上げる。しかし、多都馬の刀が新八郎の刀を上段から打ち飛ばす。
 新八郎は、すぐさま腰の脇差に手をかける。
 多都馬は、その動作より早く新八郎の首筋めがけて刀を振り下した。
 新八郎は観念するが、多都馬は刀を寸前で止める。
 二人の様子を見ていた平八郎が新八郎に加勢しようと一歩踏み出そうとする。
「来るな!」
 新八郎が平八郎を制して留まらせる。
「拙者に貴殿たちを斬る理由はない。」
 多都馬は刀を鞘に納め、安兵衛と共に下屋敷から立ち去って行った。
「大事ないか。」
 平八郎が膝をついている新八郎の元へ駆け寄る。
 新八郎は頷きながら刀を納めた。
「新八郎、何故止めた?」
「あの男、我等二人掛かりでも敵わぬと見たからだ。」
 新八郎と平八郎は暫くの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。
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