心の刃 -忠臣蔵異聞-
第17章 東下り
一
いつも同志たちで賑わう安兵衛宅だが、その夜は静まり返っていた。
キチは台所で夕餉で使う食材の確認をしている。
安兵衛は、そんなキチの後姿をぼんやりと見つめていた。
討ち入りすれば、キチのこの後姿は二度と見られない。多都馬の拳を受け、漸く安兵衛は周囲の事に目を向けることが出来た。平穏な日々を送ることが出来るという有り難さを、キチの後姿から感じていた。
キチは背後に立つ安兵衛の存在に気づいて驚く。
「旦那様。」
「済まん、驚かせてしまったか。」
「黙って立っておられれば誰でも驚きます。」
キチは安兵衛の口元が切れているのを見つける。
「その口は、どうされたのですか?」
「うむ。多都馬に拳を貰うてしまってな。」
「まぁ!」
「多都馬に言われたよ。」
「何を?」
安兵衛は腰を下ろし柱に寄りかかる。
「事を成す前に、そなたのことをよく考えろ…とな。」
キチは思わぬことを口にする安兵衛に驚いていた。
「多都馬の本音は、ワシに仇討ちなどさせたくはないのだろう。」
「多都馬様は、そのように申されておられるのですか?」
「いや。何もそのようには言ってはおらん。」
「では、何故そのようにお感じなるのですか?」
通じ合っている友の気持ちが有難く、思わず安兵衛の顔も綻ぶ。
「仇討ちから脱盟することは、何も恥ではないと。」
「まぁ。」
キチは驚いて目を丸くしている。
「脱盟には各々にに思い悩んでの上に決めた事。家族のため、友のため、自分のため。人それぞれに死するよりも生きることを選んだことは、それも立派な大義なのだと申しておった。」
「私もそのように思います。」
「そうか。」
何もかも分かったつもりでいた自分が情けなくて安兵衛は自分自身を嘲笑する。
「菅野六郎左衛門殿と義によって叔父・甥の契りを交わし、義によって決闘の助太刀をいたした。また、それが縁となり赤穂藩で禄を得ることとなった。そして、其方にも巡り会えた。殿は新参者であるワシを高禄で召し抱えて下され上に、其方との婚儀もお認め下されたのだ。その殿の御恩に報いることが出来なくて何が侍だと申すのだ。」
この義理堅さは、生まれながらの安兵衛の性質なのだとキチは思った。
「このワシでさえ、その様に思うておるのに古参の藩士共が、此度の仇討ちから次々に離散していくことが理解できなかった。」
キチは黙って安兵衛を見つめる。
僅かな沈黙でも、二人は半刻のように感じていた。
「多都馬から・・・。其方を幸せにすることも、立派な大義であるということを教えてもろうたがな。脱盟するということは、ワシにはどうしても清廉に思えなくてな。それではワシがワシではなくなってしまうのだ。」
安兵衛から目をそらさず見つめているキチの目から涙がこぼれる。安兵衛に言われずともキチには分かっていた。
「済まぬ。最後まで辛い思いをさせる。」
「旦那様。」
安兵衛は、キチの肩を強く抱き寄せた。
「ワシは器用に生きることが出来ぬ性分らしい。残された僅かな時でさえも、其方の為に使うことが出来ぬだろう。殿が討ち果たせなかった吉良を討たねば、ワシの義が立たんのだ。」
キチの肩を抱き寄せる安兵衛の目にも涙がにじんでいた。
キチは“そんなことは気にせぬように”と必死に首を横に振っていた。
「だが知っていてもらいたい。ワシは妻が其方であり、誠に幸せであったということを。」
伝わってくる安兵衛の温もりを、キチは抱き締められながら感じていた。
二
内蔵助は山科で妻/理玖と最後の夜を迎えていた。季節ではないが縁側に座り二人で月を眺めていた。
内蔵助は注がれた酒を飲み干す。
「理玖。苦労をかけた。」
「本当に・・・。」
内蔵助と理玖は見つめあって笑う。
「大石家は代々家老を務める家じゃ。それ故、何かと己の本意というものが言えぬのだ。」
「そうでしょうね。」
「人の上に立つ者というは、うかつに本音ば見せてはならぬ・・・昔、叔父上にそう教育されての。」
「そうでございましたか。」
理玖の温和な笑顔が内蔵助の心を和ませる。
「本音を申せば、それだけで家臣や郎党を死に追いやることもあるのだと。」
「辛いお立場でございますね。」
「うむ。しかし、今に至ってはそれが大いに役に立っておる。」
理玖は、そう言っている内蔵助の横顔を見つめる。
「そうは申してもな・・・。唯一、そなたには本音を見せておったが。」
「そうでしょうか?」
「自慢気に言うつもりはないが、遊興三枚をしておる時がそうじゃ。世の者は、公儀を欺くためだと随分ワシを担いでおったが。あれはただ単純に遊びたかっただけよ。」
内蔵助と理玖は、笑い合った。
「でも旦那様は、そうは申されても心底楽しまれておりませんでしたね。」
内蔵助の動きが一瞬止まる。
「仇討ちなどと世間の方たちが持てはやし、血気盛んな若い者たちがそれに乗らぬようにと、敢えてあのような振る舞いをなさったのでしょう?」
内蔵助は、理玖の言葉を無言で聞いていた。
「旦那様が時勢に乗り、それを味方にすれば同志の方たちも、もっと多くお集まりになられたでしょう。」
頭が上がらぬと苦笑いする内蔵助だった。
「捨てる命に若い者はいらぬ。人も最小限で良いのだ。」
「そのようなお考えであると思っておりました。」
そう言いながら、理玖は控えめに笑っている。
「これは、参ったの。」
大石家に嫁いで十五年、多くは語らなくとも互いを理解し合える二人だった。
「理玖。そなたも内蔵助の妻なれば本音をワシにはなかなか言えなかったであろう。どうじゃ、最後くらい本音を申しては?」
内蔵助がそう言うと理玖は悲しい表情を浮かべた。
「・・・本当は。・・・本当は。」
その先を理玖は、言葉にすることが出来ず幾度となく繰り返していた。
「遠慮はいらぬ。」
内蔵助の優しい声が理玖の心を後押しする。
「最後までお供いたしとうござりました。」
「済まぬ。」
理玖は、内蔵助の横顔を見つめる。
「主税は・・・、主税は連れて行くぞ。」
長い沈黙があり、理玖はうなずいた。
「長い間、世話になった。」
内蔵助は、理玖が注いだ酒を一気に飲み干す。
内蔵助は理玖を離縁した。
三
江戸では、相変わらず赤穂浪士討ち入りの噂で盛り上がっていた。しかし浅野も吉良も上杉も、互いにけん制しつつも静観していた。ところが、これから先の運命を決定づける裁定が幕府から下される。長広の処分が広島藩浅野本家にお預けと決まったのである。
多都馬のところへも情報がもたらされる。武太夫が慌てて多都馬の店に入ってくる。
「多都馬!いるか?」
須乃は、目を丸くして武太夫を迎える。武太夫の声に、奥の部屋から多都馬も出てくる。
「如何した?」
「御舎弟/長広様のご処分が決まった。」
「それで?」
「我が藩にお預けとなった!」
これで赤穂藩の御家再興は、確実に無くなってしまったのだ。
― さぁ、大石殿。これから、どう動く。―
「多都馬、これからどうなる?」
「今まで仇討ちを渋ってきた上方の浪士たちも、これで覚悟を決めねばならなくなった。」
「いよいよというわけだな。」
「うむ。これで安兵衛たちも暫くは落ち着くであろう。」
数馬が多都馬たちの騒ぎを聞いて降りてくる。
「とりあえず、安兵衛の家へ行く。須乃、行って参る。」
多都馬は武太夫を家に残し、すぐさま安兵衛宅へ出向いて行った。
四
多都馬は安兵衛宅へひた走る。多都馬の側には、三吉も付き従っていた。
安兵衛のところへも知らせは来ており、浪士数名が訪れて京へ向かう準備をしていた。
「安兵衛!」
「おうっ、多都馬!」
「大石殿のところへ参るのだな?」
多都馬の言葉に安兵衛が大きく頷く。
「これでやっと・・・。」
奥から弥兵衛も旅支度をして現れる。
「義父上。義父上は、江戸でお待ち下さい。」
「何じゃと?討ち入りが決まるかもしれん会議にワシがおらんでどうする。」
「その儀は、この安兵衛が義父上の名代として行って参ります。来るべき時が来るまで、無理はいけません。」
「年寄り扱いしよって!」
「弥兵衛殿。若い者の話は聞くべきですよ。」
多都馬が弥兵衛を説得して留まらせる。
「義父上、キチ。行って参ります。」
「ワシもすぐ後を追う。」
安兵衛は、高ぶる気持ちを抑えつつ内蔵助のところへ向かった。
勇ましく旅立つ安兵衛とは裏腹にキチの表情はどこか悲しげであった。留守を任された弥兵衛と他の浪士たちを残して奥へと下がっていく。
奥へと下がったキチの姿を多都馬は暫く見つめていた。
五
多都馬も旅支度を整え、一人安兵衛を追いかけて行った。
三吉は多都馬が安兵衛の後を追ったことを長兵衛に伝えるため、調達屋を急いで出て行った。
多都馬と三吉が店を出て行った後、調達屋の外を不穏な空気が包み始める。
元侍女とはいえ武芸の鍛錬を積んでいた須乃は、調達屋を取り囲む者たちの気配を感じていた。
それは人混みにうまく同化し、須乃たちを監視していた。
須乃は、それとなく店の外の様子を窺う。
往来する人々の流れの中に、周囲を警戒しながら忍びよる者たちがいた。
須乃は店に立ち戻り、声を荒立てることなく数馬を呼ぶ。
須乃に呼ばれた数馬は、普段と違う須乃の様子に気付く。
「数馬殿。これから私の言うことをよく聞いてください。」
数馬は何が起こり始めているのか、わからず戸惑っていた。
「いいですか。何やらこの家は不逞の輩に取り囲まれています。」
「えっ?」
やっと事情を飲み込み数馬は震えあがる。
「外にいる輩たちの目的は、数馬殿と私でしょう。しかし、数馬殿が見つからなければ私だけで諦めるでしょう。ことが終わるまで屋根裏にいてください。そして、誰もいなくなったことを確認したら急いで長兵衛さんのところへ行って事の次第をお伝えするのです。」
多都馬の邸宅を囲んでいたのは、吉保の元配下/木造伊兵衛たちだった。
「須乃殿は、どうされるおつもりですか?」
数馬は、震えながら須乃に尋ねる。
「黛家の御嫡男がうろたえてはなりませぬ。」
「はい。」
「いいですか。万が一私が、その輩に連れ去られたとしても助けようなどと思ってはなりませぬ。長兵衛さんには、その旨必ずお伝えするのですよ。」
「そんなこ・・・」
数馬の目にうっすらと涙が浮かび上がる。
「私のことはどうとでもなります。さ、早く屋根裏へ。」
須乃は、素早く数馬を屋根裏部屋へ押し上げた。
六
伊兵衛は、上杉家を新たな主にしていた。内蔵助を討つためには、多都馬の存在がどうしても邪魔だった。須乃と数馬を人質にすれば、多都馬は手出しできなくなると考えたのである。
― しかし、なんと人通りの多い場所じゃ。―
二人を拉致する為調達屋に押し入るのは、人の往来が激し過ぎて厄介な場所だった。
「よいか、生け捕りにするのだぞ。殺してはならんぞ。わかっておろうな。」
伊兵衛の命を受け、側に控えていた三名の男が調達屋に向かう。店内を窺う商人に成りすまして店先を塞いだ。
「頭、早くしないとあの男が戻ってくるかもしれません。」
「わかっておる!」
日本橋が人で賑わっていたのは、魚市場もあったからである。乾物や干物、魚を加工するための刃物、河岸で働く者のための食事処なども誕生していた。そのおかげで街は賑わい、五街道の起点として定められたのである。
「この人の多さだからな時も多くは使えぬぞ。また焦って目立つ行動をとるのではないぞ。裏から慎重に押し込め!」
伊兵衛は配下の者たちを裏から一斉に邸内に突入させる。
中で待ち構えていた須乃が伊兵衛の配下二名を斬り捨てた。須乃を単なる侍女と侮っていた伊兵衛たちがたじろぐ。
「狼藉者!ここから立ち去りなさい!」
密かに侵入してきた一名が、須乃の背後に忍び寄り刀を構える。
須乃は背後の気配を感じて、振向き様に袈裟懸けに斬りつける。須乃の抵抗は思いのほか伊兵衛たちを手こずらした。
しかし多勢に無勢、四方を囲まれている須乃は次第に追い詰められていく。
「一刻を争うのだ。遊んでいる場合ではない!」
伊兵衛の激に配下の者が須乃の刀を弾き飛ばす。
「女!もう一人、小僧はどこへ行った。」
須乃は無言で伊兵衛たちを睨みつけた。もはやこれまでと悟った須乃は、刀を拾い上げ自害しようと刃を自分へ向ける。
「こしゃくな!」
伊兵衛の放った礫が須乃の頭に直撃する。頭に受けた礫の衝撃で、須乃はその場に崩れ落ちる。
須乃は伊兵衛の配下に抱えられ、用意していた籠に入れられる。
数馬を探し一斉に二階へと上がっていく。
「頭、小僧がおりません。」
「よく探せ!」
配下の者が数馬を探そうと屋根裏へ行こうとした瞬間、店の扉を叩く音が聞こえ閉まっていた戸が開く。
「御免。」
伊兵衛が退く合図を配下に下す。
「止むを得ん、引けぃ!」
伊兵衛たちは須乃を乗せた籠と共に、店裏から音も無く立ち去って行く。
しかし、その伊兵衛たちの後を追う美郷がいたことに気づいてはいなかった。
七
長広の処分が決まり、江戸の赤穂浪士たちは活気づいた。各々が役目に努め、仇討決行のための情報収集をする。米屋の手代に身をやつしていた岡野金右衛門は、吉良邸情報収集の任に就いていた。そんな折、いつものようにお艶が金右衛門に会いに米屋にやってくる。
「あの~。九十郎さんはいますか?」
「ちょっと、待ってておくれ。今、呼んできますから。」
神埼与五郎は、お艶と会って来いと金右衛門の背中を押す。
「お艶ちゃん。」
金右衛門が奥から出てくる。
お艶との逢瀬は、金右衛門にとって唯一の安らぎだった。しかし、自身には主君の仇討という最終目的がある。お艶を思う気持ちと役目との板挟みに苦しんでいた。
二人は、いつものように寺の境内を何事もなく歩いている。
お艶は、金右衛門と会えることが嬉しくてはしゃぎ通しである。
「アタシ、今日はこのまま、家に帰るのやめようかな。」
唐突に大それたことを言うお艶に、金右衛門は驚いて躓いてしまう。
「お艶ちゃん、今何て言ったんだい?」
「アタシ、もう家に帰りたくない。」
「どうしたんだい。」
「うん・・・。」
頬を膨らませているお艶の顔を覗き込む。
「言ってごらん?」
「お父っつぁんにいきなり怒鳴られてね。それから、お父っつぁんと喧嘩したの。」
「何故、そんなに怒ったんだろね。」
「アタシが、声もかけずに部屋に入ったから。」
「それだけでかい?」
「ううん。多分、お父っつぁん、あたしに吉良様のお屋敷の絵図を見られてびっくりしたのよ。」
「絵図面?」
「うん。だって吉良様のお屋敷を建てたの、お父っつぁんだし、今騒がれているでしょ。」
思わぬ情報を得て、その場に立ち尽くす金右衛門だった。
「どうしたの?」
「い、いや何でもないよ。それより、お父っつぁんとちゃんと仲直りしなくちゃ。」
金右衛門は、お艶の手を取り歩いて行った。
八
金右衛門は米屋を隠れ蓑にしている前原伊助宅にいた。
目の前にある吉良邸を監視しながらお艶のことを考えていた。
「変化はないか?」
神崎与五郎が、後ろから声をかけた。
金右衛門は与五郎の声が聞こえていないのか返事をしない。
「おい、金右衛門。」
我に返った金右衛門は慌てて返事をする。
「すみません、特にありません。」
「どうした?心ここにあらずって感じだな。」
「いえ、そのような。」
「隠さなくったっていいんだ。お主もまだ若いんだからな。」
「私は・・・。」
「いい娘じゃないか、あのお艶って娘は。」
金右衛門は与五郎の言葉に黙ってしまう。
「神崎様・・・。」
金右衛門が意を決したように与五郎に向き直る。
「どうした?」
「お艶ちゃんのお父っつぁん、大工の頭領なんですが・・・。」
「あぁ、知っているよ。」
「どうやら吉良邸の絵図面を持っているらしいのです。」
「何?」
与五郎は思わぬ情報に驚いている。
二人の会話を聞いていたのか突然、前原伊助が入って来て金右衛門に迫る。
「その絵図面、何とか手に入れて来い。手段は何でもいい。」
金右衛門は無言のまま俯いている。
「それは、その娘を騙すということになるが。」
与五郎が、俯いて黙ったままの金右衛門の気持ちを察して言う。
「町娘一人騙すくらいなんだと言うのだ!大義のためだ!」
「大義のためなら何をしてもよいと言うのか?」
「三平は、そのために死んだのだ!」
「娘一人の人生を狂わせるのだぞ?それも大義のためなら構わないというのか!」
「その通りじゃ。」
伊助の言葉に金右衛門の肩が小刻みに震えていた。
「それほどのことなら、金右衛門にやらせるのではなくお主がやればよかろう。」
「何、もう一度申してみよ。」
伊助と与五郎が睨みあう。
「お二人とも、おやめください。」
争う前原と神崎を止め、金右衛門は決意を表す。
「絵図面、私が必ず手に入れて見せます。」
金右衛門の脳裏に、お艶の優しい笑顔が浮かぶ。
九
長広が広島藩お預けの処分が下り急進派の気運が高まる中、浪士たちの中でも様々なことが起きていた。御家再興の望みが消え一気に討ち入りへと傾いていく中で、内蔵助は預かっていた神文を返却する支持を下したのだ。討ち入りを取りやめることになったと偽って神文を返させ、そのまま受け取った者には、請け取り状を書かせ盟約から外したのだ。一方、討ち入りがなくなったことに対して強く抵抗を示し、怒りを露わにした者には真実を伝え盟約に残したのである。いわゆる神文返しである。
これにより百二十名近くいた同志も、半分の六十名ほどに減ってしまうのだった。脱名者の中には千石の奥野将監、内蔵助の従兄弟である進藤源四郎、潮田又之丞の義父/小山源五右衛門もいた。
内蔵助は円山から戻り、多都馬とともに山科の屋敷にいた。
京都円山安養寺で行われた会議によって、とうとう吉良邸への討ち入りが決定したのである。これにより内蔵助の江戸下向が決まり、安兵衛はその準備のため一足先に江戸へ戻っていた。
多都馬と内蔵助は屋敷の縁側で、酒を飲みながら静まり返る夜に浸っていた。
「大石殿。神文など返さずとも決意のないものは黙っていても同志から抜けていったのではありませぬか?」
「神文を返すことで、足枷を解いてやらねば・・・。」
「足枷?」
「その場の勢いに押され、心ならずも同意した者もおったはず。時が流れ、それぞれに心変わりもいたしましょう。」
「確かに・・・。」
「大義に殉じ名を遺すより、妻子を大事に思うている者もおるはず。足枷を解かねば、次の人生へ踏み切れぬ者もおるかも知れませぬから・・・。」
内蔵助は言い終えた後、残っていた酒を飲み干した。
多都馬は空になった杯に酒を注ぐ。
多都馬は、山科に着いてから理玖の姿が見えないことを内蔵助に尋ねた。
「大石殿。そういえば理玖殿をお見かけしませんが・・・。」
「先日、離縁いたしました故。」
「・・・大石殿。」
多都馬は、内蔵助から伝わってくる迫力が以前より増していることを感じていた。
「忙しゅうなりますな。」
「さて、どうなりますかな。」
多都馬は、内蔵助の慎重さに苦笑いをする。
「少なくとも安兵衛あたりは、落ち着くでしょうな。」
「そうなれば、よいのだが。ワシ自身の不甲斐無さゆえに苦労を掛けてしもうてな。」
「人をまとめるというのは並大抵のことではござりませぬ。大概は、その重圧に押しつぶされるでしょう。」
「まさに、その通り。」
内蔵助は、自分もそのことに当てはまっていると笑い出す。
「大石殿に重圧など・・・。」
「いや、押しつぶされておりました。」
「まさか、そのようには・・・。」
「だから、存分に遊ばせていただきました。今でも思い出します、伏見での遊興三昧。あれは、本当に楽しかった。」
「そうでしたか。」
「何やら世間では、公儀を欺くためなどと言われておったようで・・・。。可笑しゅうござりますなぁ・・・。」
多都馬と内蔵助は、互いに笑い合う。
「欺くつもりなど毛頭ありませんでしたが。実は・・・。」
「何でしょう。」
「いや、私の放蕩ぶりを見て若い藩士たちには考えを改めて欲しかったのです。」
「ほう。」
「武士道だけが人生の全てではないということを。」
内蔵助の思いに多都馬は素直に驚いていた。内蔵助が暗愚を装っていたのは、同志たちに己自身を振り返らせるためだったのだ。
「大石殿。拙者、このところ上野介様とは懇意にさせてもろうております。」
「それは、それは。」
知っていながら知らぬ振りをするところが小憎らしいと多都馬は思った。
「安兵衛より助勢を頼まれておきながら、このような事を申すのは如何なものかと思いますが・・・。」
「何でしょう。」
多都馬は答える前に大きく息を吐いた。
「仇討ち以外の何かこう、お互い面目が立つような手段はないものかと思うております。」
内蔵助は、空を見上げ考え込む。
「多都馬殿。此度のこと、どうも腑に落ちぬことが多くての。」
「どういうことですか。」
多都馬は、わざととぼけて見せた。
「私は、二度江戸へ下向しておるが、いずれの関所ならびに番所においても咎められることはなかった。」
多都馬も内蔵助に同意だった。吉保や上杉よりも大きな勢力が、赤穂に味方しているということなのか。
「私たちは、目に見えない何かに踊らされているような・・・。」
「その目に見えない何かとは、何でしょうか・・・。」
「今の、ご政道に不満を持っている何者かでしょうなぁ。」
他人行儀な内蔵助の言葉に、多都馬は昼行燈と呼ばれた意味を少しだけ理解出来た気がした。多都馬は九州に行く途中赤穂に滞在したことがあった。その時、赤穂藩の内情を話していた藩士のことを思い出した。藩内の政は、次席家老の大野九郎兵衛が実権を握っていたという。この大石内蔵助という男は利権や欲が絡み合う政という血生臭いものに興味がなかったのだろう。
「本所のご老人ですが。彼は、我等が目指す本当の敵ではありません。」
多都馬は黙って内蔵助の話を聞いていた。
「むしろ、あの御老人も我々と同じかもしれない。」
多都馬は、内蔵助の洞察力に驚嘆した。
「最近の吉良様の動向を知るにあたり、私は感じることがあるのですよ。」
「ほう。どのような?」
「早く討ち入って参れ・・・と願いのようなものを感じるのです。」
この時、内蔵助が一瞬悲しみの表情を浮かべた。
「その証とでも言うべきなのでしょうか。米沢へ向かう日を先延ばしにされているとか・・・。」
大石内蔵助と吉良上野介は、敵同士でありながら互いの心情を理解し合っているように思えた。
「どうなのでしょう。」
多都馬は、見透かされているのを承知で敢えてとぼけてみせた。
「討ち入れ討ち入れと、急かされておるような気も致しますが・・・。何やら虚しいことでございますなぁ。」
内蔵助は、夜空を見上げながら呟いた。
「誠に・・・。」
多都馬も内蔵助も、消すことのできない虚無感を抱えていた。
十
お艶の父/政吉は、お艶が連れてきた許婚に家で会っていた。
お艶が連れてきた九十郎という男は、目元が涼やかでなかなかの好青年だった。
九十郎は、政吉に弟子になりたいと申し出る。政吉は快く引き受け、お艶の婚儀とともに話はまとまった。この九十郎は、金右衛門である。
「いいか、九十郎。お艶の旦那になったからって甘やかしたりしねぇからな。大工の修行ってのはな、厳しいもんなんだからよぉ。」
「はい。わかっております。」
「はいって・・・。」
政吉は、武士のように神妙な返事をする九十郎にたじろいでいる。
「オイラな、何ていうか・・・そのぉ~。お前のそういうところ、何か調子狂っちまうんだよなぁ。」
「何でよっ!お父っつぁん何か文句あるの?」
お艶が政吉に口を尖らせて言う。
「お武家様みてぇな立ち居振る舞いだからよ。」
「九十郎さんはね、きっと育ちがいいのよ。ねっ。」
お艶は愛らしい顔を金右衛門に向けた。
「何か?オイラは育ちが悪いってーのか!」
金右衛門は、二人のやり取りに笑みを浮かべていた。
「九十郎さん。お父っつぁんに苛められたらすぐアタシに言ってね。」
「馬鹿野郎。親の前でいちゃつくんじゃねぇ、お天道様はまだ昇ってらっしゃるってーのに!」
話が話が賑やかになったときに、九十郎は政吉に絵図面を数枚見てみたいと切り出した。
「親方。実は、絵図面を見せて頂きたいのですが。」
政吉は弟子になるんだからと見せてやろうとする。すると、九十郎は本所松坂町の吉良邸の絵図面が見たいと言う。
「お艶の旦那になるって言っても、それだけはダメだな。」
「何でよ!お父っつぁんのケチ!」
お艶が納得できない様子で政吉に食ってかかる。
「オイラが図面を描いたのはな、今は吉良様のお屋敷だぞ。赤穂浪士がみんなこれを狙うに決まっている。これが赤穂浪士たちの手に渡ったらオイラ獄門行きだぜ。」
「九十郎さんが、赤穂浪士だっていうの?」
「そうじゃねぇけどさ。」
「お艶ちゃん、無理を言ってはいけないよ。」
九十郎は口論になっている親子の仲裁に入った。政吉は、この時の九十郎の悲痛な表情を見逃さなかった。
十一
内蔵助は円山会議を経て仇討を決行するにあたり江戸へ下向していた。多都馬も京都から内蔵助に同行する。一行は目立ち過ぎないように伴周りの人間を最小限にしていた。同行者は近松勘六、潮田又之丞に妻/ゆう、早水藤左衛門、そして瀬尾孫左衛門だけだった。
伊兵衛は、山科滞在中の内蔵助を監視していた。まだ須乃が拉致されたことなど知る由もない多都馬への優越感に浸っていた。伊兵衛は内蔵助襲撃のため、坂下宿を過ぎた山間で仕掛けを準備していた。
多都馬を含めた内蔵助の一行は、江戸へ向かう表街道を外れ人目につかぬよう裏街道の山間を歩いていた。
伊兵衛が配下の者へ指図する。伊兵衛の手下は歩いてくる多都馬を確認し、配下へ仕掛けの実行を命じた。
人の往来が少ない街道に、風体怪しき二人組が歩いて来る。内蔵助襲撃を警戒し、多都馬は刀の柄に手をかけた。しかし、その二人組は、すれ違い様に多都馬の懐へ文を忍ばせる。
多都馬は懐に入っていた文を取り出しながら、すれ違った男を目で追っていた。
文には須乃を人質として預かっていると認めてあった。また、内蔵助襲撃を邪魔すれば須乃の命はないと、恨みを込めた文字が踊っていた。文を読んだ多都馬は、辺りを警戒し伊兵衛たちの殺気を探ろうとする。
内蔵助は、只ならぬ多都馬の様子を感じ取っていた。内蔵助はそれとなく多都馬に歩調を合わせ、歩きながら事情を聞く。内蔵助は周囲に気を配りながら視線を変えずに話し出した。
「多都馬殿。如何された?」
内蔵助には気づかれまいと取り繕うとする。
「何かあったのであろう。遠慮はいらん、申されよ。」
内蔵助に見透かされ多都馬は観念する。敵の手に須乃が捕らわれているということに、思っている以上に動揺していたのだ。
「すれ違いざまに文を・・・。」
多都馬は歩きながら、それとなく文を内蔵助に渡す。多都馬から受け取った文を読んだ内蔵助は近松勘六を近くに呼び寄せる。
「勘六。多都馬殿の懐にこのような文が・・・。」
勘六は気取られぬように渡された文を読んだ。
「何かよい手立てはないか。」
「暫し、お待ちを・・・。」
勘六が顔を動かさず視線だけ動かし周囲を見渡す。
「大石殿、大事の前にこのような・・・。」
「何を申される。これを捨ておいては安兵衛に合わす顔がないわ。」
内蔵助が大きな声で笑った。
そこへ幸いにも事態を知らせに来た三吉と御牧武太夫が現れた。
「よ、良かった。この裏街道を来ると思うてな。読みが当たって良かった。」
「何言ってるんですか、元締が各街道に人を使わせなさったお陰じゃないですか。」
武太夫が頭を掻きながら肩をすぼめて小さくなる。
「多都馬。一大事じゃ、心して聞くのだ。」
「落ち着け。須乃のことであろう?」
息を切らせながらも武太夫は、須乃が機転を利かして数馬を救ったことを多都馬に伝えた。
「武太夫。まず笑え。そのような深刻な顔は致すな。その者共、どうやら周囲に潜んでおるらしい。」
武太夫が息を止め、顔を強張らせる。
「武太夫。これから近松殿が策を立てる。指示通りに動いてくれぬか。」
「ご家老。」
勘六は前を向いたまま須乃救出の手立てを話し始める。
「この辺りは、幸いにも近くに沢がありまする。沢へ水を汲みに行くふりをしながら、そこで人数を上手く入替ましょう。」
「大石殿。かたじけない・・・。」
「心配無用、討ち入り前の稽古と思えば・・・。」
勘六は内蔵助一行に水を汲みに行くふりをさせて沢へ向かわせた。勘六は自分と腕の立つ又之丞・早水二人を救出役に選んだ。一行と別れたふりをして街道の先で武太夫と三吉は引き返し、沢の岩陰に戻った。又之丞・早水は武太夫と三吉の衣服を入れ替え、伊兵衛たちが潜む森に気付かれぬよう気配を消して駆け込んだ。勘六は上流に向かう振りをして一行から離れた。
衣服を入れ替えた武太夫と三吉は、又之丞と早水の振りをして内蔵助の側に張り付く。又之丞たち三人は二手に分かれ、須乃が拘束されている場所を探索する。剣の達人でもある又之丞は気配を消して森に潜む襲撃者たちを捜索する。すると木々の間から弓矢と鉄砲が見えた。排除しようと忍びよるが、弓矢組鉄砲組は既に排除され何者かに斬られていた。
勘六と早水は、林の中で縛られている須乃を発見する。
「しめた、須乃殿がいる。奪還できれば、形勢はこちらに有利になる。」
「どうする?突っ込むか。」
「いや、途中奴らから奪ったこれを使おう。」
弓の達人/早水が、須乃に張り付いている見張りを射抜く。勘六は須乃が逃げるまでの時を稼ぐため、伊兵衛たちに突進していく。早水は合図の呼び笛を鳴らし、多都馬に救出成功の合図を送った。多都馬は、音のなる方へ抜刀し突き進んだ。早水に射抜かれ絶命している伊兵衛の配下を飛び越え須乃に駆け寄る。
「大事ないか!」
「はい。」
須乃の無事を確認し、勘六の加勢に向かう多都馬に、思いもよらぬ光景が目に入る。兵衛と裏柳生の又八郎たちが加勢していたのだった。
加勢している二人は、背中合わせで伊兵衛配下の者たちと斬り合っていた。
「裏柳生が、何故大石を助ける。」
「お主こそ、大石を狙うていたではないか!」
「大石など、もう興味はないのでな!」
兵衛と又八郎は背を合わせながら伊兵衛の配下たちを次々に斬り捨てる。
「ワシもな。柳沢に一泡吹かせるには、大石に死んでもらっては困るのだ!」
一気に形勢不利となった伊兵衛は、その場から退散していく。
「引けい!引くのだ!」
事が無事済んだと思った矢先、銃声が峠の中に響き渡る。鉄砲を撃ったものは、それを最後に死んでいった。
撃った方向へ多都馬たちが向かうと、須乃を庇った美郷が倒れていた。
須乃は倒れている美郷を抱き起した。
「しっかりしてください!」
多都馬も駆け寄って来る。
「かたじけない・・・。」
多都馬が涙を流し、美郷の手を握った。
「死んではならんぞ。」
「こんな事ぐらいで・・・。」
須乃の腕の中で美郷は痛みに耐えていた。
「何故、このような真似を・・・。」
「アタシには、こんな事しか・・・。」
兵衛がそこへ駆け付ける。
「美郷!」
兵衛が美郷を抱き締めた。
伊兵衛たちを尾行していた美郷は、兵衛に事を知らせ救出させる手筈を整えたのだ。兵衛に抱えられながら、美郷は多都馬に問いかける。
「多都馬殿、私は美しゅうござりますか?」
頷く多都馬を見て、美郷は笑みを浮かべ息を引き取る。兵衛は美郷の亡きがらを抱え多都馬の前から去っていく。
「兵衛!」
多都馬が兵衛の名を叫んで後を追うが、振り返らず美郷を抱きかかえたまま消えて行った。
人の死を目の当たりにした須乃は憔悴しきっている。
多都馬は人目も憚らず須乃を抱きしめた。
十二
内蔵助たちは無事、川崎在平間村の軽部五兵衛の屋敷に宿泊する。
五兵衛は、平間村の大名主で浪士の富森助右衛門と交流があった。軽部五兵衛は村年寄役を務める豪農で、その傍ら赤穂藩の上屋敷へ秣を収めたりしていた。赤穂藩上屋敷の下掃除を田畑の肥料として利用するため、これを回収、分配することも請け負っていた。刃傷事件後には、直ちに人足達を集め赤穂藩上屋敷の引き渡しに大いに貢献した。
屋敷の前に内蔵助一行を待つ、五兵衛や助右衛門と共に安兵衛の姿が見えた。
円山を先に出立していた安兵衛は助右衛門と二人、この平間村で内蔵助を迎える準備をしていたのだ。
「多都馬。ご家老の護衛、かたじけない。」
「いや、此度は大石殿に大変世話になった。」
「ん?どういうことだ?」
安兵衛の反応に、須乃は心痛な表情を浮かべる。
「安兵衛。詳細は後で話す。さぁ、案内してくれ。」
内蔵助が安兵衛を急かして言う。
安兵衛は、多都馬と一緒にいる暗い表情の須乃を見て瞬時に何かを悟る。
「まぁ、とにかく。中で休まれるがよい。」
安兵衛と助右衛門が一行を中へと招く。
五兵衛は、内蔵助を見ると頭を下げ出迎えた。
「五兵衛とやら、暫し世話になる。」
「お待ち申しておりました。どうぞ、ごゆっくりなさってください。」
「傷を負うている女子がおる。気の落ち着く部屋を用意してくれぬか。」
内蔵助は、須乃を気遣い五兵衛に部屋の用意を願う。
「畏まりました。」
浪士たちは、次々に五兵衛宅の離れに入って行った。
十三
その夜、五兵衛の屋敷では人目を気に掛けながらも内蔵助の無事到着を祝う宴を開いていた。
須乃は気分が優れないという理由で出席しなかった。
安兵衛は、宴の最中に多都馬を呼び出し須乃に何があったのか聞く。
伊兵衛に誘拐され内蔵助暗殺のため、人質に取られたことを話す。
「そのようなことが・・・。」
多都馬の話に、安兵衛は衝撃を受けた。
「須乃殿の身体は大丈夫なのか?」
「そのような事をされたら命を絶つ女子だ。向こうもそれでは困るはず・・・。」
「とにかく今は、そっとしておいてやることだ。」
「うむ。」
多都馬は、須乃が休んでいる離れを見つめる。
「多都馬。」
「ん?」
「お主、須乃殿のことをどう思っておる。」
「なんだ、先日の仕返しか?」
「違うわ!」
二人は思い出して笑う。
「須乃殿はお主に惚れておるのだ。」
「わかっておる。」
「そうではない。お主のここはどうなのかと聞いておるのだ。」
安兵衛は自分の胸を数回叩く。
「安心しろ。お主と違い考えておるわ。」
「違うとはなんだ、違うとは。」
安兵衛は口を尖らせて言った。
「数馬が元服をした後、祝言を挙げたいと思うておる。」
「お主の気持ちは知っておるのか?」
「知らぬであろうな。」
「馬鹿者!伝えなければ意味がなかろう。」
「心配せんでも必ず伝えるさ。」
多都馬は、安兵衛の気持ちが嬉しかった。
「しかし、数馬の元服も須乃殿とお主の祝言も、ワシは見ることは出来ぬのだな・・・。」
夜空を仰いで安兵衛は言った。
「安兵衛。」
そんな二人の上に広がる夜空に流れ星がひとすじ通過して行った。
いつも同志たちで賑わう安兵衛宅だが、その夜は静まり返っていた。
キチは台所で夕餉で使う食材の確認をしている。
安兵衛は、そんなキチの後姿をぼんやりと見つめていた。
討ち入りすれば、キチのこの後姿は二度と見られない。多都馬の拳を受け、漸く安兵衛は周囲の事に目を向けることが出来た。平穏な日々を送ることが出来るという有り難さを、キチの後姿から感じていた。
キチは背後に立つ安兵衛の存在に気づいて驚く。
「旦那様。」
「済まん、驚かせてしまったか。」
「黙って立っておられれば誰でも驚きます。」
キチは安兵衛の口元が切れているのを見つける。
「その口は、どうされたのですか?」
「うむ。多都馬に拳を貰うてしまってな。」
「まぁ!」
「多都馬に言われたよ。」
「何を?」
安兵衛は腰を下ろし柱に寄りかかる。
「事を成す前に、そなたのことをよく考えろ…とな。」
キチは思わぬことを口にする安兵衛に驚いていた。
「多都馬の本音は、ワシに仇討ちなどさせたくはないのだろう。」
「多都馬様は、そのように申されておられるのですか?」
「いや。何もそのようには言ってはおらん。」
「では、何故そのようにお感じなるのですか?」
通じ合っている友の気持ちが有難く、思わず安兵衛の顔も綻ぶ。
「仇討ちから脱盟することは、何も恥ではないと。」
「まぁ。」
キチは驚いて目を丸くしている。
「脱盟には各々にに思い悩んでの上に決めた事。家族のため、友のため、自分のため。人それぞれに死するよりも生きることを選んだことは、それも立派な大義なのだと申しておった。」
「私もそのように思います。」
「そうか。」
何もかも分かったつもりでいた自分が情けなくて安兵衛は自分自身を嘲笑する。
「菅野六郎左衛門殿と義によって叔父・甥の契りを交わし、義によって決闘の助太刀をいたした。また、それが縁となり赤穂藩で禄を得ることとなった。そして、其方にも巡り会えた。殿は新参者であるワシを高禄で召し抱えて下され上に、其方との婚儀もお認め下されたのだ。その殿の御恩に報いることが出来なくて何が侍だと申すのだ。」
この義理堅さは、生まれながらの安兵衛の性質なのだとキチは思った。
「このワシでさえ、その様に思うておるのに古参の藩士共が、此度の仇討ちから次々に離散していくことが理解できなかった。」
キチは黙って安兵衛を見つめる。
僅かな沈黙でも、二人は半刻のように感じていた。
「多都馬から・・・。其方を幸せにすることも、立派な大義であるということを教えてもろうたがな。脱盟するということは、ワシにはどうしても清廉に思えなくてな。それではワシがワシではなくなってしまうのだ。」
安兵衛から目をそらさず見つめているキチの目から涙がこぼれる。安兵衛に言われずともキチには分かっていた。
「済まぬ。最後まで辛い思いをさせる。」
「旦那様。」
安兵衛は、キチの肩を強く抱き寄せた。
「ワシは器用に生きることが出来ぬ性分らしい。残された僅かな時でさえも、其方の為に使うことが出来ぬだろう。殿が討ち果たせなかった吉良を討たねば、ワシの義が立たんのだ。」
キチの肩を抱き寄せる安兵衛の目にも涙がにじんでいた。
キチは“そんなことは気にせぬように”と必死に首を横に振っていた。
「だが知っていてもらいたい。ワシは妻が其方であり、誠に幸せであったということを。」
伝わってくる安兵衛の温もりを、キチは抱き締められながら感じていた。
二
内蔵助は山科で妻/理玖と最後の夜を迎えていた。季節ではないが縁側に座り二人で月を眺めていた。
内蔵助は注がれた酒を飲み干す。
「理玖。苦労をかけた。」
「本当に・・・。」
内蔵助と理玖は見つめあって笑う。
「大石家は代々家老を務める家じゃ。それ故、何かと己の本意というものが言えぬのだ。」
「そうでしょうね。」
「人の上に立つ者というは、うかつに本音ば見せてはならぬ・・・昔、叔父上にそう教育されての。」
「そうでございましたか。」
理玖の温和な笑顔が内蔵助の心を和ませる。
「本音を申せば、それだけで家臣や郎党を死に追いやることもあるのだと。」
「辛いお立場でございますね。」
「うむ。しかし、今に至ってはそれが大いに役に立っておる。」
理玖は、そう言っている内蔵助の横顔を見つめる。
「そうは申してもな・・・。唯一、そなたには本音を見せておったが。」
「そうでしょうか?」
「自慢気に言うつもりはないが、遊興三枚をしておる時がそうじゃ。世の者は、公儀を欺くためだと随分ワシを担いでおったが。あれはただ単純に遊びたかっただけよ。」
内蔵助と理玖は、笑い合った。
「でも旦那様は、そうは申されても心底楽しまれておりませんでしたね。」
内蔵助の動きが一瞬止まる。
「仇討ちなどと世間の方たちが持てはやし、血気盛んな若い者たちがそれに乗らぬようにと、敢えてあのような振る舞いをなさったのでしょう?」
内蔵助は、理玖の言葉を無言で聞いていた。
「旦那様が時勢に乗り、それを味方にすれば同志の方たちも、もっと多くお集まりになられたでしょう。」
頭が上がらぬと苦笑いする内蔵助だった。
「捨てる命に若い者はいらぬ。人も最小限で良いのだ。」
「そのようなお考えであると思っておりました。」
そう言いながら、理玖は控えめに笑っている。
「これは、参ったの。」
大石家に嫁いで十五年、多くは語らなくとも互いを理解し合える二人だった。
「理玖。そなたも内蔵助の妻なれば本音をワシにはなかなか言えなかったであろう。どうじゃ、最後くらい本音を申しては?」
内蔵助がそう言うと理玖は悲しい表情を浮かべた。
「・・・本当は。・・・本当は。」
その先を理玖は、言葉にすることが出来ず幾度となく繰り返していた。
「遠慮はいらぬ。」
内蔵助の優しい声が理玖の心を後押しする。
「最後までお供いたしとうござりました。」
「済まぬ。」
理玖は、内蔵助の横顔を見つめる。
「主税は・・・、主税は連れて行くぞ。」
長い沈黙があり、理玖はうなずいた。
「長い間、世話になった。」
内蔵助は、理玖が注いだ酒を一気に飲み干す。
内蔵助は理玖を離縁した。
三
江戸では、相変わらず赤穂浪士討ち入りの噂で盛り上がっていた。しかし浅野も吉良も上杉も、互いにけん制しつつも静観していた。ところが、これから先の運命を決定づける裁定が幕府から下される。長広の処分が広島藩浅野本家にお預けと決まったのである。
多都馬のところへも情報がもたらされる。武太夫が慌てて多都馬の店に入ってくる。
「多都馬!いるか?」
須乃は、目を丸くして武太夫を迎える。武太夫の声に、奥の部屋から多都馬も出てくる。
「如何した?」
「御舎弟/長広様のご処分が決まった。」
「それで?」
「我が藩にお預けとなった!」
これで赤穂藩の御家再興は、確実に無くなってしまったのだ。
― さぁ、大石殿。これから、どう動く。―
「多都馬、これからどうなる?」
「今まで仇討ちを渋ってきた上方の浪士たちも、これで覚悟を決めねばならなくなった。」
「いよいよというわけだな。」
「うむ。これで安兵衛たちも暫くは落ち着くであろう。」
数馬が多都馬たちの騒ぎを聞いて降りてくる。
「とりあえず、安兵衛の家へ行く。須乃、行って参る。」
多都馬は武太夫を家に残し、すぐさま安兵衛宅へ出向いて行った。
四
多都馬は安兵衛宅へひた走る。多都馬の側には、三吉も付き従っていた。
安兵衛のところへも知らせは来ており、浪士数名が訪れて京へ向かう準備をしていた。
「安兵衛!」
「おうっ、多都馬!」
「大石殿のところへ参るのだな?」
多都馬の言葉に安兵衛が大きく頷く。
「これでやっと・・・。」
奥から弥兵衛も旅支度をして現れる。
「義父上。義父上は、江戸でお待ち下さい。」
「何じゃと?討ち入りが決まるかもしれん会議にワシがおらんでどうする。」
「その儀は、この安兵衛が義父上の名代として行って参ります。来るべき時が来るまで、無理はいけません。」
「年寄り扱いしよって!」
「弥兵衛殿。若い者の話は聞くべきですよ。」
多都馬が弥兵衛を説得して留まらせる。
「義父上、キチ。行って参ります。」
「ワシもすぐ後を追う。」
安兵衛は、高ぶる気持ちを抑えつつ内蔵助のところへ向かった。
勇ましく旅立つ安兵衛とは裏腹にキチの表情はどこか悲しげであった。留守を任された弥兵衛と他の浪士たちを残して奥へと下がっていく。
奥へと下がったキチの姿を多都馬は暫く見つめていた。
五
多都馬も旅支度を整え、一人安兵衛を追いかけて行った。
三吉は多都馬が安兵衛の後を追ったことを長兵衛に伝えるため、調達屋を急いで出て行った。
多都馬と三吉が店を出て行った後、調達屋の外を不穏な空気が包み始める。
元侍女とはいえ武芸の鍛錬を積んでいた須乃は、調達屋を取り囲む者たちの気配を感じていた。
それは人混みにうまく同化し、須乃たちを監視していた。
須乃は、それとなく店の外の様子を窺う。
往来する人々の流れの中に、周囲を警戒しながら忍びよる者たちがいた。
須乃は店に立ち戻り、声を荒立てることなく数馬を呼ぶ。
須乃に呼ばれた数馬は、普段と違う須乃の様子に気付く。
「数馬殿。これから私の言うことをよく聞いてください。」
数馬は何が起こり始めているのか、わからず戸惑っていた。
「いいですか。何やらこの家は不逞の輩に取り囲まれています。」
「えっ?」
やっと事情を飲み込み数馬は震えあがる。
「外にいる輩たちの目的は、数馬殿と私でしょう。しかし、数馬殿が見つからなければ私だけで諦めるでしょう。ことが終わるまで屋根裏にいてください。そして、誰もいなくなったことを確認したら急いで長兵衛さんのところへ行って事の次第をお伝えするのです。」
多都馬の邸宅を囲んでいたのは、吉保の元配下/木造伊兵衛たちだった。
「須乃殿は、どうされるおつもりですか?」
数馬は、震えながら須乃に尋ねる。
「黛家の御嫡男がうろたえてはなりませぬ。」
「はい。」
「いいですか。万が一私が、その輩に連れ去られたとしても助けようなどと思ってはなりませぬ。長兵衛さんには、その旨必ずお伝えするのですよ。」
「そんなこ・・・」
数馬の目にうっすらと涙が浮かび上がる。
「私のことはどうとでもなります。さ、早く屋根裏へ。」
須乃は、素早く数馬を屋根裏部屋へ押し上げた。
六
伊兵衛は、上杉家を新たな主にしていた。内蔵助を討つためには、多都馬の存在がどうしても邪魔だった。須乃と数馬を人質にすれば、多都馬は手出しできなくなると考えたのである。
― しかし、なんと人通りの多い場所じゃ。―
二人を拉致する為調達屋に押し入るのは、人の往来が激し過ぎて厄介な場所だった。
「よいか、生け捕りにするのだぞ。殺してはならんぞ。わかっておろうな。」
伊兵衛の命を受け、側に控えていた三名の男が調達屋に向かう。店内を窺う商人に成りすまして店先を塞いだ。
「頭、早くしないとあの男が戻ってくるかもしれません。」
「わかっておる!」
日本橋が人で賑わっていたのは、魚市場もあったからである。乾物や干物、魚を加工するための刃物、河岸で働く者のための食事処なども誕生していた。そのおかげで街は賑わい、五街道の起点として定められたのである。
「この人の多さだからな時も多くは使えぬぞ。また焦って目立つ行動をとるのではないぞ。裏から慎重に押し込め!」
伊兵衛は配下の者たちを裏から一斉に邸内に突入させる。
中で待ち構えていた須乃が伊兵衛の配下二名を斬り捨てた。須乃を単なる侍女と侮っていた伊兵衛たちがたじろぐ。
「狼藉者!ここから立ち去りなさい!」
密かに侵入してきた一名が、須乃の背後に忍び寄り刀を構える。
須乃は背後の気配を感じて、振向き様に袈裟懸けに斬りつける。須乃の抵抗は思いのほか伊兵衛たちを手こずらした。
しかし多勢に無勢、四方を囲まれている須乃は次第に追い詰められていく。
「一刻を争うのだ。遊んでいる場合ではない!」
伊兵衛の激に配下の者が須乃の刀を弾き飛ばす。
「女!もう一人、小僧はどこへ行った。」
須乃は無言で伊兵衛たちを睨みつけた。もはやこれまでと悟った須乃は、刀を拾い上げ自害しようと刃を自分へ向ける。
「こしゃくな!」
伊兵衛の放った礫が須乃の頭に直撃する。頭に受けた礫の衝撃で、須乃はその場に崩れ落ちる。
須乃は伊兵衛の配下に抱えられ、用意していた籠に入れられる。
数馬を探し一斉に二階へと上がっていく。
「頭、小僧がおりません。」
「よく探せ!」
配下の者が数馬を探そうと屋根裏へ行こうとした瞬間、店の扉を叩く音が聞こえ閉まっていた戸が開く。
「御免。」
伊兵衛が退く合図を配下に下す。
「止むを得ん、引けぃ!」
伊兵衛たちは須乃を乗せた籠と共に、店裏から音も無く立ち去って行く。
しかし、その伊兵衛たちの後を追う美郷がいたことに気づいてはいなかった。
七
長広の処分が決まり、江戸の赤穂浪士たちは活気づいた。各々が役目に努め、仇討決行のための情報収集をする。米屋の手代に身をやつしていた岡野金右衛門は、吉良邸情報収集の任に就いていた。そんな折、いつものようにお艶が金右衛門に会いに米屋にやってくる。
「あの~。九十郎さんはいますか?」
「ちょっと、待ってておくれ。今、呼んできますから。」
神埼与五郎は、お艶と会って来いと金右衛門の背中を押す。
「お艶ちゃん。」
金右衛門が奥から出てくる。
お艶との逢瀬は、金右衛門にとって唯一の安らぎだった。しかし、自身には主君の仇討という最終目的がある。お艶を思う気持ちと役目との板挟みに苦しんでいた。
二人は、いつものように寺の境内を何事もなく歩いている。
お艶は、金右衛門と会えることが嬉しくてはしゃぎ通しである。
「アタシ、今日はこのまま、家に帰るのやめようかな。」
唐突に大それたことを言うお艶に、金右衛門は驚いて躓いてしまう。
「お艶ちゃん、今何て言ったんだい?」
「アタシ、もう家に帰りたくない。」
「どうしたんだい。」
「うん・・・。」
頬を膨らませているお艶の顔を覗き込む。
「言ってごらん?」
「お父っつぁんにいきなり怒鳴られてね。それから、お父っつぁんと喧嘩したの。」
「何故、そんなに怒ったんだろね。」
「アタシが、声もかけずに部屋に入ったから。」
「それだけでかい?」
「ううん。多分、お父っつぁん、あたしに吉良様のお屋敷の絵図を見られてびっくりしたのよ。」
「絵図面?」
「うん。だって吉良様のお屋敷を建てたの、お父っつぁんだし、今騒がれているでしょ。」
思わぬ情報を得て、その場に立ち尽くす金右衛門だった。
「どうしたの?」
「い、いや何でもないよ。それより、お父っつぁんとちゃんと仲直りしなくちゃ。」
金右衛門は、お艶の手を取り歩いて行った。
八
金右衛門は米屋を隠れ蓑にしている前原伊助宅にいた。
目の前にある吉良邸を監視しながらお艶のことを考えていた。
「変化はないか?」
神崎与五郎が、後ろから声をかけた。
金右衛門は与五郎の声が聞こえていないのか返事をしない。
「おい、金右衛門。」
我に返った金右衛門は慌てて返事をする。
「すみません、特にありません。」
「どうした?心ここにあらずって感じだな。」
「いえ、そのような。」
「隠さなくったっていいんだ。お主もまだ若いんだからな。」
「私は・・・。」
「いい娘じゃないか、あのお艶って娘は。」
金右衛門は与五郎の言葉に黙ってしまう。
「神崎様・・・。」
金右衛門が意を決したように与五郎に向き直る。
「どうした?」
「お艶ちゃんのお父っつぁん、大工の頭領なんですが・・・。」
「あぁ、知っているよ。」
「どうやら吉良邸の絵図面を持っているらしいのです。」
「何?」
与五郎は思わぬ情報に驚いている。
二人の会話を聞いていたのか突然、前原伊助が入って来て金右衛門に迫る。
「その絵図面、何とか手に入れて来い。手段は何でもいい。」
金右衛門は無言のまま俯いている。
「それは、その娘を騙すということになるが。」
与五郎が、俯いて黙ったままの金右衛門の気持ちを察して言う。
「町娘一人騙すくらいなんだと言うのだ!大義のためだ!」
「大義のためなら何をしてもよいと言うのか?」
「三平は、そのために死んだのだ!」
「娘一人の人生を狂わせるのだぞ?それも大義のためなら構わないというのか!」
「その通りじゃ。」
伊助の言葉に金右衛門の肩が小刻みに震えていた。
「それほどのことなら、金右衛門にやらせるのではなくお主がやればよかろう。」
「何、もう一度申してみよ。」
伊助と与五郎が睨みあう。
「お二人とも、おやめください。」
争う前原と神崎を止め、金右衛門は決意を表す。
「絵図面、私が必ず手に入れて見せます。」
金右衛門の脳裏に、お艶の優しい笑顔が浮かぶ。
九
長広が広島藩お預けの処分が下り急進派の気運が高まる中、浪士たちの中でも様々なことが起きていた。御家再興の望みが消え一気に討ち入りへと傾いていく中で、内蔵助は預かっていた神文を返却する支持を下したのだ。討ち入りを取りやめることになったと偽って神文を返させ、そのまま受け取った者には、請け取り状を書かせ盟約から外したのだ。一方、討ち入りがなくなったことに対して強く抵抗を示し、怒りを露わにした者には真実を伝え盟約に残したのである。いわゆる神文返しである。
これにより百二十名近くいた同志も、半分の六十名ほどに減ってしまうのだった。脱名者の中には千石の奥野将監、内蔵助の従兄弟である進藤源四郎、潮田又之丞の義父/小山源五右衛門もいた。
内蔵助は円山から戻り、多都馬とともに山科の屋敷にいた。
京都円山安養寺で行われた会議によって、とうとう吉良邸への討ち入りが決定したのである。これにより内蔵助の江戸下向が決まり、安兵衛はその準備のため一足先に江戸へ戻っていた。
多都馬と内蔵助は屋敷の縁側で、酒を飲みながら静まり返る夜に浸っていた。
「大石殿。神文など返さずとも決意のないものは黙っていても同志から抜けていったのではありませぬか?」
「神文を返すことで、足枷を解いてやらねば・・・。」
「足枷?」
「その場の勢いに押され、心ならずも同意した者もおったはず。時が流れ、それぞれに心変わりもいたしましょう。」
「確かに・・・。」
「大義に殉じ名を遺すより、妻子を大事に思うている者もおるはず。足枷を解かねば、次の人生へ踏み切れぬ者もおるかも知れませぬから・・・。」
内蔵助は言い終えた後、残っていた酒を飲み干した。
多都馬は空になった杯に酒を注ぐ。
多都馬は、山科に着いてから理玖の姿が見えないことを内蔵助に尋ねた。
「大石殿。そういえば理玖殿をお見かけしませんが・・・。」
「先日、離縁いたしました故。」
「・・・大石殿。」
多都馬は、内蔵助から伝わってくる迫力が以前より増していることを感じていた。
「忙しゅうなりますな。」
「さて、どうなりますかな。」
多都馬は、内蔵助の慎重さに苦笑いをする。
「少なくとも安兵衛あたりは、落ち着くでしょうな。」
「そうなれば、よいのだが。ワシ自身の不甲斐無さゆえに苦労を掛けてしもうてな。」
「人をまとめるというのは並大抵のことではござりませぬ。大概は、その重圧に押しつぶされるでしょう。」
「まさに、その通り。」
内蔵助は、自分もそのことに当てはまっていると笑い出す。
「大石殿に重圧など・・・。」
「いや、押しつぶされておりました。」
「まさか、そのようには・・・。」
「だから、存分に遊ばせていただきました。今でも思い出します、伏見での遊興三昧。あれは、本当に楽しかった。」
「そうでしたか。」
「何やら世間では、公儀を欺くためなどと言われておったようで・・・。。可笑しゅうござりますなぁ・・・。」
多都馬と内蔵助は、互いに笑い合う。
「欺くつもりなど毛頭ありませんでしたが。実は・・・。」
「何でしょう。」
「いや、私の放蕩ぶりを見て若い藩士たちには考えを改めて欲しかったのです。」
「ほう。」
「武士道だけが人生の全てではないということを。」
内蔵助の思いに多都馬は素直に驚いていた。内蔵助が暗愚を装っていたのは、同志たちに己自身を振り返らせるためだったのだ。
「大石殿。拙者、このところ上野介様とは懇意にさせてもろうております。」
「それは、それは。」
知っていながら知らぬ振りをするところが小憎らしいと多都馬は思った。
「安兵衛より助勢を頼まれておきながら、このような事を申すのは如何なものかと思いますが・・・。」
「何でしょう。」
多都馬は答える前に大きく息を吐いた。
「仇討ち以外の何かこう、お互い面目が立つような手段はないものかと思うております。」
内蔵助は、空を見上げ考え込む。
「多都馬殿。此度のこと、どうも腑に落ちぬことが多くての。」
「どういうことですか。」
多都馬は、わざととぼけて見せた。
「私は、二度江戸へ下向しておるが、いずれの関所ならびに番所においても咎められることはなかった。」
多都馬も内蔵助に同意だった。吉保や上杉よりも大きな勢力が、赤穂に味方しているということなのか。
「私たちは、目に見えない何かに踊らされているような・・・。」
「その目に見えない何かとは、何でしょうか・・・。」
「今の、ご政道に不満を持っている何者かでしょうなぁ。」
他人行儀な内蔵助の言葉に、多都馬は昼行燈と呼ばれた意味を少しだけ理解出来た気がした。多都馬は九州に行く途中赤穂に滞在したことがあった。その時、赤穂藩の内情を話していた藩士のことを思い出した。藩内の政は、次席家老の大野九郎兵衛が実権を握っていたという。この大石内蔵助という男は利権や欲が絡み合う政という血生臭いものに興味がなかったのだろう。
「本所のご老人ですが。彼は、我等が目指す本当の敵ではありません。」
多都馬は黙って内蔵助の話を聞いていた。
「むしろ、あの御老人も我々と同じかもしれない。」
多都馬は、内蔵助の洞察力に驚嘆した。
「最近の吉良様の動向を知るにあたり、私は感じることがあるのですよ。」
「ほう。どのような?」
「早く討ち入って参れ・・・と願いのようなものを感じるのです。」
この時、内蔵助が一瞬悲しみの表情を浮かべた。
「その証とでも言うべきなのでしょうか。米沢へ向かう日を先延ばしにされているとか・・・。」
大石内蔵助と吉良上野介は、敵同士でありながら互いの心情を理解し合っているように思えた。
「どうなのでしょう。」
多都馬は、見透かされているのを承知で敢えてとぼけてみせた。
「討ち入れ討ち入れと、急かされておるような気も致しますが・・・。何やら虚しいことでございますなぁ。」
内蔵助は、夜空を見上げながら呟いた。
「誠に・・・。」
多都馬も内蔵助も、消すことのできない虚無感を抱えていた。
十
お艶の父/政吉は、お艶が連れてきた許婚に家で会っていた。
お艶が連れてきた九十郎という男は、目元が涼やかでなかなかの好青年だった。
九十郎は、政吉に弟子になりたいと申し出る。政吉は快く引き受け、お艶の婚儀とともに話はまとまった。この九十郎は、金右衛門である。
「いいか、九十郎。お艶の旦那になったからって甘やかしたりしねぇからな。大工の修行ってのはな、厳しいもんなんだからよぉ。」
「はい。わかっております。」
「はいって・・・。」
政吉は、武士のように神妙な返事をする九十郎にたじろいでいる。
「オイラな、何ていうか・・・そのぉ~。お前のそういうところ、何か調子狂っちまうんだよなぁ。」
「何でよっ!お父っつぁん何か文句あるの?」
お艶が政吉に口を尖らせて言う。
「お武家様みてぇな立ち居振る舞いだからよ。」
「九十郎さんはね、きっと育ちがいいのよ。ねっ。」
お艶は愛らしい顔を金右衛門に向けた。
「何か?オイラは育ちが悪いってーのか!」
金右衛門は、二人のやり取りに笑みを浮かべていた。
「九十郎さん。お父っつぁんに苛められたらすぐアタシに言ってね。」
「馬鹿野郎。親の前でいちゃつくんじゃねぇ、お天道様はまだ昇ってらっしゃるってーのに!」
話が話が賑やかになったときに、九十郎は政吉に絵図面を数枚見てみたいと切り出した。
「親方。実は、絵図面を見せて頂きたいのですが。」
政吉は弟子になるんだからと見せてやろうとする。すると、九十郎は本所松坂町の吉良邸の絵図面が見たいと言う。
「お艶の旦那になるって言っても、それだけはダメだな。」
「何でよ!お父っつぁんのケチ!」
お艶が納得できない様子で政吉に食ってかかる。
「オイラが図面を描いたのはな、今は吉良様のお屋敷だぞ。赤穂浪士がみんなこれを狙うに決まっている。これが赤穂浪士たちの手に渡ったらオイラ獄門行きだぜ。」
「九十郎さんが、赤穂浪士だっていうの?」
「そうじゃねぇけどさ。」
「お艶ちゃん、無理を言ってはいけないよ。」
九十郎は口論になっている親子の仲裁に入った。政吉は、この時の九十郎の悲痛な表情を見逃さなかった。
十一
内蔵助は円山会議を経て仇討を決行するにあたり江戸へ下向していた。多都馬も京都から内蔵助に同行する。一行は目立ち過ぎないように伴周りの人間を最小限にしていた。同行者は近松勘六、潮田又之丞に妻/ゆう、早水藤左衛門、そして瀬尾孫左衛門だけだった。
伊兵衛は、山科滞在中の内蔵助を監視していた。まだ須乃が拉致されたことなど知る由もない多都馬への優越感に浸っていた。伊兵衛は内蔵助襲撃のため、坂下宿を過ぎた山間で仕掛けを準備していた。
多都馬を含めた内蔵助の一行は、江戸へ向かう表街道を外れ人目につかぬよう裏街道の山間を歩いていた。
伊兵衛が配下の者へ指図する。伊兵衛の手下は歩いてくる多都馬を確認し、配下へ仕掛けの実行を命じた。
人の往来が少ない街道に、風体怪しき二人組が歩いて来る。内蔵助襲撃を警戒し、多都馬は刀の柄に手をかけた。しかし、その二人組は、すれ違い様に多都馬の懐へ文を忍ばせる。
多都馬は懐に入っていた文を取り出しながら、すれ違った男を目で追っていた。
文には須乃を人質として預かっていると認めてあった。また、内蔵助襲撃を邪魔すれば須乃の命はないと、恨みを込めた文字が踊っていた。文を読んだ多都馬は、辺りを警戒し伊兵衛たちの殺気を探ろうとする。
内蔵助は、只ならぬ多都馬の様子を感じ取っていた。内蔵助はそれとなく多都馬に歩調を合わせ、歩きながら事情を聞く。内蔵助は周囲に気を配りながら視線を変えずに話し出した。
「多都馬殿。如何された?」
内蔵助には気づかれまいと取り繕うとする。
「何かあったのであろう。遠慮はいらん、申されよ。」
内蔵助に見透かされ多都馬は観念する。敵の手に須乃が捕らわれているということに、思っている以上に動揺していたのだ。
「すれ違いざまに文を・・・。」
多都馬は歩きながら、それとなく文を内蔵助に渡す。多都馬から受け取った文を読んだ内蔵助は近松勘六を近くに呼び寄せる。
「勘六。多都馬殿の懐にこのような文が・・・。」
勘六は気取られぬように渡された文を読んだ。
「何かよい手立てはないか。」
「暫し、お待ちを・・・。」
勘六が顔を動かさず視線だけ動かし周囲を見渡す。
「大石殿、大事の前にこのような・・・。」
「何を申される。これを捨ておいては安兵衛に合わす顔がないわ。」
内蔵助が大きな声で笑った。
そこへ幸いにも事態を知らせに来た三吉と御牧武太夫が現れた。
「よ、良かった。この裏街道を来ると思うてな。読みが当たって良かった。」
「何言ってるんですか、元締が各街道に人を使わせなさったお陰じゃないですか。」
武太夫が頭を掻きながら肩をすぼめて小さくなる。
「多都馬。一大事じゃ、心して聞くのだ。」
「落ち着け。須乃のことであろう?」
息を切らせながらも武太夫は、須乃が機転を利かして数馬を救ったことを多都馬に伝えた。
「武太夫。まず笑え。そのような深刻な顔は致すな。その者共、どうやら周囲に潜んでおるらしい。」
武太夫が息を止め、顔を強張らせる。
「武太夫。これから近松殿が策を立てる。指示通りに動いてくれぬか。」
「ご家老。」
勘六は前を向いたまま須乃救出の手立てを話し始める。
「この辺りは、幸いにも近くに沢がありまする。沢へ水を汲みに行くふりをしながら、そこで人数を上手く入替ましょう。」
「大石殿。かたじけない・・・。」
「心配無用、討ち入り前の稽古と思えば・・・。」
勘六は内蔵助一行に水を汲みに行くふりをさせて沢へ向かわせた。勘六は自分と腕の立つ又之丞・早水二人を救出役に選んだ。一行と別れたふりをして街道の先で武太夫と三吉は引き返し、沢の岩陰に戻った。又之丞・早水は武太夫と三吉の衣服を入れ替え、伊兵衛たちが潜む森に気付かれぬよう気配を消して駆け込んだ。勘六は上流に向かう振りをして一行から離れた。
衣服を入れ替えた武太夫と三吉は、又之丞と早水の振りをして内蔵助の側に張り付く。又之丞たち三人は二手に分かれ、須乃が拘束されている場所を探索する。剣の達人でもある又之丞は気配を消して森に潜む襲撃者たちを捜索する。すると木々の間から弓矢と鉄砲が見えた。排除しようと忍びよるが、弓矢組鉄砲組は既に排除され何者かに斬られていた。
勘六と早水は、林の中で縛られている須乃を発見する。
「しめた、須乃殿がいる。奪還できれば、形勢はこちらに有利になる。」
「どうする?突っ込むか。」
「いや、途中奴らから奪ったこれを使おう。」
弓の達人/早水が、須乃に張り付いている見張りを射抜く。勘六は須乃が逃げるまでの時を稼ぐため、伊兵衛たちに突進していく。早水は合図の呼び笛を鳴らし、多都馬に救出成功の合図を送った。多都馬は、音のなる方へ抜刀し突き進んだ。早水に射抜かれ絶命している伊兵衛の配下を飛び越え須乃に駆け寄る。
「大事ないか!」
「はい。」
須乃の無事を確認し、勘六の加勢に向かう多都馬に、思いもよらぬ光景が目に入る。兵衛と裏柳生の又八郎たちが加勢していたのだった。
加勢している二人は、背中合わせで伊兵衛配下の者たちと斬り合っていた。
「裏柳生が、何故大石を助ける。」
「お主こそ、大石を狙うていたではないか!」
「大石など、もう興味はないのでな!」
兵衛と又八郎は背を合わせながら伊兵衛の配下たちを次々に斬り捨てる。
「ワシもな。柳沢に一泡吹かせるには、大石に死んでもらっては困るのだ!」
一気に形勢不利となった伊兵衛は、その場から退散していく。
「引けい!引くのだ!」
事が無事済んだと思った矢先、銃声が峠の中に響き渡る。鉄砲を撃ったものは、それを最後に死んでいった。
撃った方向へ多都馬たちが向かうと、須乃を庇った美郷が倒れていた。
須乃は倒れている美郷を抱き起した。
「しっかりしてください!」
多都馬も駆け寄って来る。
「かたじけない・・・。」
多都馬が涙を流し、美郷の手を握った。
「死んではならんぞ。」
「こんな事ぐらいで・・・。」
須乃の腕の中で美郷は痛みに耐えていた。
「何故、このような真似を・・・。」
「アタシには、こんな事しか・・・。」
兵衛がそこへ駆け付ける。
「美郷!」
兵衛が美郷を抱き締めた。
伊兵衛たちを尾行していた美郷は、兵衛に事を知らせ救出させる手筈を整えたのだ。兵衛に抱えられながら、美郷は多都馬に問いかける。
「多都馬殿、私は美しゅうござりますか?」
頷く多都馬を見て、美郷は笑みを浮かべ息を引き取る。兵衛は美郷の亡きがらを抱え多都馬の前から去っていく。
「兵衛!」
多都馬が兵衛の名を叫んで後を追うが、振り返らず美郷を抱きかかえたまま消えて行った。
人の死を目の当たりにした須乃は憔悴しきっている。
多都馬は人目も憚らず須乃を抱きしめた。
十二
内蔵助たちは無事、川崎在平間村の軽部五兵衛の屋敷に宿泊する。
五兵衛は、平間村の大名主で浪士の富森助右衛門と交流があった。軽部五兵衛は村年寄役を務める豪農で、その傍ら赤穂藩の上屋敷へ秣を収めたりしていた。赤穂藩上屋敷の下掃除を田畑の肥料として利用するため、これを回収、分配することも請け負っていた。刃傷事件後には、直ちに人足達を集め赤穂藩上屋敷の引き渡しに大いに貢献した。
屋敷の前に内蔵助一行を待つ、五兵衛や助右衛門と共に安兵衛の姿が見えた。
円山を先に出立していた安兵衛は助右衛門と二人、この平間村で内蔵助を迎える準備をしていたのだ。
「多都馬。ご家老の護衛、かたじけない。」
「いや、此度は大石殿に大変世話になった。」
「ん?どういうことだ?」
安兵衛の反応に、須乃は心痛な表情を浮かべる。
「安兵衛。詳細は後で話す。さぁ、案内してくれ。」
内蔵助が安兵衛を急かして言う。
安兵衛は、多都馬と一緒にいる暗い表情の須乃を見て瞬時に何かを悟る。
「まぁ、とにかく。中で休まれるがよい。」
安兵衛と助右衛門が一行を中へと招く。
五兵衛は、内蔵助を見ると頭を下げ出迎えた。
「五兵衛とやら、暫し世話になる。」
「お待ち申しておりました。どうぞ、ごゆっくりなさってください。」
「傷を負うている女子がおる。気の落ち着く部屋を用意してくれぬか。」
内蔵助は、須乃を気遣い五兵衛に部屋の用意を願う。
「畏まりました。」
浪士たちは、次々に五兵衛宅の離れに入って行った。
十三
その夜、五兵衛の屋敷では人目を気に掛けながらも内蔵助の無事到着を祝う宴を開いていた。
須乃は気分が優れないという理由で出席しなかった。
安兵衛は、宴の最中に多都馬を呼び出し須乃に何があったのか聞く。
伊兵衛に誘拐され内蔵助暗殺のため、人質に取られたことを話す。
「そのようなことが・・・。」
多都馬の話に、安兵衛は衝撃を受けた。
「須乃殿の身体は大丈夫なのか?」
「そのような事をされたら命を絶つ女子だ。向こうもそれでは困るはず・・・。」
「とにかく今は、そっとしておいてやることだ。」
「うむ。」
多都馬は、須乃が休んでいる離れを見つめる。
「多都馬。」
「ん?」
「お主、須乃殿のことをどう思っておる。」
「なんだ、先日の仕返しか?」
「違うわ!」
二人は思い出して笑う。
「須乃殿はお主に惚れておるのだ。」
「わかっておる。」
「そうではない。お主のここはどうなのかと聞いておるのだ。」
安兵衛は自分の胸を数回叩く。
「安心しろ。お主と違い考えておるわ。」
「違うとはなんだ、違うとは。」
安兵衛は口を尖らせて言った。
「数馬が元服をした後、祝言を挙げたいと思うておる。」
「お主の気持ちは知っておるのか?」
「知らぬであろうな。」
「馬鹿者!伝えなければ意味がなかろう。」
「心配せんでも必ず伝えるさ。」
多都馬は、安兵衛の気持ちが嬉しかった。
「しかし、数馬の元服も須乃殿とお主の祝言も、ワシは見ることは出来ぬのだな・・・。」
夜空を仰いで安兵衛は言った。
「安兵衛。」
そんな二人の上に広がる夜空に流れ星がひとすじ通過して行った。