心の刃 -忠臣蔵異聞-
第18章 苦 衷
          一

 伊兵衛は内蔵助暗殺失敗から急ぎ上杉家上屋敷に戻っていた。
 上杉家江戸家老/色部又四郎は、氷のような冷たい表情で伊兵衛を見つめていた。右源太は俯いたまま色部又四郎の側に控えている。
「右源太が期待をかけておったが、見事にそれを裏切ってくれたようじゃの。」
「面目次第もござりませぬ。」
「浪士共の戦力を多少なりとも、削いでくるならいざ知らず。それどころか、彼奴等の絆を更に深めてしまうとは・・・。」
「されど、次こそ・・・。」
「次などない。」
 抑揚のない色部又四郎の声は、伊兵衛の背筋を凍らせた。
「役に立たぬ者には用はないのだ。命は取らぬ故、このままどこへともなく行くがよい。」
 色部又四郎は踵を返し伊兵衛に背を向けた。
― おのれ。―
 伊兵衛は屈辱に表情を歪め、手が脇差の柄に伸びる。右源太も色部又四郎に従うように、伊兵衛に背を向けた。
「余計なことは考えないほうがよろしい。」
 背を向けたまま発せられる右源太の声に、伊兵衛は身をすくめた。色部又四郎は、何事もなかったかのように部屋を出て行った。
 その時、後ろで物音がして異変を感じた伊兵衛が振り返る。庭を見ると控えていた伊兵衛の配下が、軒猿の手にかかり殺害されていた。
「そういうことだ。」
 右源太は、伊兵衛にそう言い残して去って行った。
 伊兵衛は上杉家からも見放されたのだ。

           二

 伊兵衛は上杉上屋敷から引き揚げていく中、次第に数が減って行く配下たちを見ていた。柳沢や上杉の鼻をあかす起死回生の策はないものかと、奥歯に力を込めながら考えていた。
「お頭、ワシ等このままでいいんですかい?」
「いいわけがなかろう。」
「しかし、あの上杉の忍軍はただの忍びじゃねーぜ。」
「ただの忍びじゃねぇとは・・・。」
「知らねぇのか。あれは、忍びを相手にする特別隊だ。」
「忍びを殺るために鍛錬された連中ということだ。知らぬのか?」
「わし等が束になって戦っても勝ち目はねぇーよ。」
 絶望感だけが伊兵衛たちにのし掛かっていた。
 元々、伊兵衛たちは吉保の密偵であったため江戸の町には詳しく情報網は確固たるものだった。普段は江戸の市井の者たちと暮らし、地域に根を張り溶け込んで諜報活動を行っていたのだ。
「お前たち、何かいい情報を掴んではいないか。」
 伊兵衛は使える策がなく、苛立ちは益々強くなっていた。
「お頭。さっき色部の屋敷で言いそびれたんだが・・・。」
「なんだ?」
「江戸の大工の棟梁に政吉ってのがいるんですがね。こいつのところにしょっちゅう若い男が出入りしているらしいんです。」
「それがどうしたというのだ。」
「政吉は吉良様のお屋敷の絵図面を持っている大工ですぜ。」
「すると、その出入りの若者というのは・・・。」
「赤穂の侍に違いありません。」
 伊兵衛たちの情報網に吉良邸絵図面のことがひっかかっていたのだ。江戸大工の棟梁を務める政吉が、本所吉良邸絵図面の設計者だった。そして、政吉宅に出入りする若者が元赤穂藩士だと気づくのだった。伊兵衛は己の名誉を回復するため、そして絵図面を手に入れ上杉家を強請ろうと計画する。

           三

 お艶と金右衛門は、いつも通り神社の境内を歩いていた。
 街中では、やはり人目が気になる。周りを木々に囲まれた境内は、逢瀬を重ねている二人にとって心安らぐ場所だった。
「この境内は、お祭りでもないと人があまり来ないのよ。」
「寂しい感じはするけど、誰にも邪魔されずお艶ちゃんといることが出来るから好きだなぁ。」
「本当?」
「うん。吹いている風も心地いいしね。」
「ここは死んだおっ母さんとよく来たところなの。」
「大切な場所なんだね。」
 お艶は時折見せる、金右衛門の思いつめた表情が気がかりでならなかった。政吉に絵図面を見せてもらえなかったことが相当残念だったのかと心を痛めていた。
「九十郎さん。吉良様の絵図面、そんなに見たい?」
 お艶は、九十郎=金右衛門に聞く。
「そりゃ、お父っつぁんの最大の大仕事だからね。」
「吉良様の絵図面を見たら元気出る?」
「見られるのかい?」
「任せておいて。」
 金右衛門の顔が明るくなったことに安堵するお艶だった。
 輝くような笑顔で見つめるお艶の顔が金右衛門の胸を締め付ける。
― こんな娘《こ》を騙すのか・・・。―
 お艶を家の前まで送り、金右衛門は吉良邸前の米屋に戻った。

           四

 多都馬は、須乃と共に無事江戸へ戻ってきた。
 長兵衛宅に預けられていた数馬は、須乃の無事を涙を浮かべて喜んだ。
 しかし、須乃は家に着くなり、多都馬と数馬の許から去ろうと身支度を整え始める。荷づくりをしている須乃を、数馬が見つけ慌てて多都馬に知らせる。
「叔父上、須乃殿の様子が変でございます。」
 二人は、急いで二階にある須乃の部屋へ上がっていく。
 多都馬と数馬は、須乃の部屋の外で声をかける。
「須乃。何をしておる。」
 部屋の中から返事は聞こえてこない。
「入るぞ。」
 多都馬と数馬は襖を開けて中に入った。
「何をしているのだ。」
 須乃は俯いて何も言葉を発しなかった。
「暇を出した覚えはないぞ。」
 多都馬は、俯いたままの須乃に優しく言う。
「私は・・・。」
 多都馬は、須乃の言葉を待った。
「私は、あのまま見捨てて欲しかったのです。」
「何!」
「私も武家の女子|《おなご》です。拉致された折、死は覚悟しておりました。」
 須乃の目から大粒の涙がこぼれる。
 多都馬は、須乃の言葉を黙って聞いていた。
「大石様も堀部様も、仇討という大義のために数々の苦難を乗り越えておられます。私のような者のために大義に支障が出ては、浪士の皆さまに面目がありません。」
「助かったのだから良かったではないか。」
 多都馬が慰めたが、納得出来ない須乃は涙声で叫んだ。
「良くありません!」
「良いのだ。」
「良くありません!」
「・・・この大馬鹿者め。」
 多都馬は須乃を静かに優しい声で(たしな)める。
「須乃。お主、命というものを何と心得ている。」
 須乃の心は多都馬から送られてくる暖かいものを感じていた。
「残された者の思いを何と心得る?」
 見上げると優しい眼差しで多都馬は見つめていた。
「そなたには父上様や母上様、兄上や妹御もおる。」
 数馬は、須乃に話す多都馬の横顔を見つめていた。
「それに数馬や長兵衛、三吉、おみねの思いを何とするのだ。」
 須乃の目からは涙が溢れ出て止まらない。
「それと、ワシの思いを何とするのだ?」
 多都馬は両手で優しく須乃の肩を抱き寄せた。
「ワシは赤穂の浪士たちに同意などしてはおらんぞ。」
 須乃は思いもよらぬ多都馬の言葉に驚く。
「先日、須乃も申しておったではないか。安兵衛を助勢しているようには見えぬと。」
 須乃は多都馬の顔をじっと見つめている。
「その通りだ。ワシは仇討ちなどで大事な友を失いたくはない!」
 多都馬の目は悲しみに満ちていた。
「仇討ちなど…。ワシにしてみればの、大義でもなんでもないわ!」
 驚く須乃に多都馬は優しく語りかけていた。
「大義などという目に見えぬ不確かなものより・・・。、其方のほうが何よりも大事な・・・ワシの全てなのだ。」
 須乃の目から涙が溢れ出てくる。
 数馬は須乃を優しく抱きしめる多都馬を見て安心したように微笑んだ。
 伊兵衛に拉致される事件以来、数馬の須乃への態度が見違えるように柔らかくなった。拉致されても須乃の毅然とした態度を見なおしたようである。そして、嫌いだった武芸の鍛錬を始める数馬だった。

           五

 多都馬のもとへ、長兵衛が情報を携えて訪ねてくる。
 須乃が息の荒い長兵衛に水を差し出した。長兵衛は須乃に一礼して、差し出された水を一気に飲み干した。
「多都馬様。ちょっと気になることが。」
「いかがした。」
「大工の棟梁、政吉は御存じで?」
「あぁ、知っているさ。この店だって政吉がやってくれたのだろう?」
「そうでしたね。」
 長兵衛が頭を掻きながら、苦笑いをしている。
「確か、江戸の大工たちの元締めって話だよな。」
「はい。その政吉の家を何やら目つきの鋭い、怪しい輩が取り巻いているようなんです。」
「何?」
「今、私の配下の者が見張っておりやす。」
 米屋は赤穂浪士たちの隠れ家の一つであることは多都馬も知っている事実である。しかし、大工棟梁/政吉が赤穂浪士たちに関わりがあるとは思えなかった。
「よし、政吉のところへ行ってみようではないか。」
「須乃様と数馬様は、三吉と配下の者に命じて警護に当たらせやす。」
 三吉と長兵衛配下の者たちは、全て多都馬に武芸の手解きを受けていた。軒猿相手では歯が立たぬが、伊兵衛等程度であれば問題はなかった。
 多都馬と長兵衛は、三吉等の到着を待って政吉宅の様子を窺いに行った。見張っていると長兵衛の言うとおり、目つきの違う数人の男が政吉宅を監視していた。
「あの動き・・・忍だな。」
「えっ・・・。じゃ、上杉様の。」
「いや、違うな。しかし、あの薬売りの男には見覚えがある。」
 暫くすると、政吉の娘/お艶が男と一緒に家へ入っていった。多都馬は、その男に見覚えがあった。病で急死した父の代わりに仇討に参加した浪士がいるというのを聞き、安兵衛にその男を紹介してもらったことがあった。男の名は岡野(おかの)金右衛門(きんえもん)包秀(かねひで)
「岡野殿ではないか。」
 多都馬は思わず名前を口に出してしまう。
「えっ。やはり赤穂の浪士が絡んでいやがったんですね。」
「そのようだ。」
 多都馬と長兵衛は、暫く政吉宅を監視することにした。
             
          六

 お艶は九十郎=金右衛門を家へ招き入れると、床の間で少し待つように伝える。暫くすると、手に絵図面を持ってお艶が入ってきた。
「お艶ちゃん、それは・・・。」
「吉良様の絵図面よ。九十郎さん見たがっていたでしょ。」
「しかし、お父っつぁんは承知しているのかい?」
 項垂れてお艶は首を横に振った。
「いいの。持って行って。」
 受け取るものの金右衛門は、暫く考え込んでいる。
「これは持っていけないよ。そんなことをしたら、お艶ちゃんがお父っつぁんに勘当されてしまう。」
「そしたら、九十郎さんのところへ行く。」
「だめだよ。お艶ちゃんを男でひとつ育てたお父っつぁんじゃないか。そんなことをしちゃいけない。絵図面は諦めるから。」
「・・・九十郎さん。」
「済まない。そんな思いをさせて・・・。」
 自分の為に親子の縁まで切ろうとしているお艶が愛おしくて堪らなかった。九十郎は思いのまま、お艶を抱きしめた。
 すると、どこからともなく数十人の男たちが家になだれ込んでくる。
「必要ないなら、こちらに渡してもらえないだろうか。」
 金右衛門が周囲を見渡すと、伊兵衛が配下を引き連れて入ってきていた。
「何者だ!」
「答えたら渡してくれるのかの?」
「お艶ちゃん逃げるんだ!」
 金右衛門は、自分が盾となってお艶を逃がそうとする。
「殺れ!」
 伊兵衛の命で一斉に金右衛門とお艶に斬りかかる。
 お艶を庇いながら金右衛門は伊兵衛等の刃をかいくぐる。
 金右衛門は、伊兵衛たちの刃からお艶を守ることで精一杯であった。
「さすが赤穂の浪人だ。なかなかしぶといじゃないか。」
「赤穂の?」
 お艶が驚いて金右衛門を見上げる。
「うそ、嘘よ!」
 お艶が金右衛門の手を振りほどいて、逃げようとするところへ伊兵衛たちの白刃が光る。
「お艶ちゃん!」
 金右衛門がお艶を庇い、背中を浅くだが斬られてしまう。
 膝をついて金右衛門がその場に昏倒する。
「九十郎さん!」
 駆け寄るお艶は、倒れる金右衛門を抱きあげる。
「お艶ちゃんへの気持ち本当なんだ。俺はお艶ちゃんが好きだ。だから、早く逃げてくれ。」
「九十郎さん。」
 伊兵衛がしびれを切らして配下に命じる。
「早く殺れ!」
 その時、多都馬が政吉宅に乗り込んでくる。
「黛殿!」
「岡野殿、助太刀いたす。」
 伊兵衛の配下の者数名が、息もつかせぬうちに多都馬に斬られていた。
「おのれ!」
 伊兵衛が引き上げの合図を出そうとしたとき、多都馬が「心の一方」を繰り出す。
 一瞬にして身動きが取れなくなり、呼吸も出来なくなった伊兵衛は苦しみもがいている。
「美郷の命を奪い、須乃を拉致した己たちは許さん。」
 呼吸することを封じられた伊兵衛の配下の一人が、目を剥き出しにしながら息絶えていく。
「ただの心の一方ではない。お主たちの体の動き全てを麻痺させておる。呼吸をすることも出来まい。」
 伊兵衛たちは、喉を掻きむしりながら多都馬を凄まじい形相でにらむ。
「呪うのなら己が所業を呪うがよい。」
 次々に息絶えていく伊兵衛の配下たち。伊兵衛は力を振り絞り「心の一方」から抜け出そうと必死に足掻(あが)くが、呼吸が出来ず苦しみ抜いた末に果てていった。
「長兵衛。後の始末を頼む。」
「へい。」
 長兵衛以下数人の配下の者たちで、伊兵衛たちの遺体を片付ける。
 そうしたところへ驚愕している政吉が帰宅する。
「こりゃ一体?」
 多都馬を見て、政吉が事の次第を尋ねる。
「黛のダンナ、この有様は?」
「理由は、この男が答えるさ。」
 多都馬は金右衛門の肩を叩き、政吉にそう言い残して去っていった。
「九十郎。どうしたっていうんでぇ。」

          七
 
 金右衛門は、全てを政吉に話した。この一件の全て、仇討、そして何よりお艶への本当の気持ちを。
 傷を負った金右衛門は全てを話した後、絵図面も受け取らず政吉宅を出て行った。
 お艶は突然突き付けられた出来事に呆然となっていた。
 暫く黙ったままの政吉だったが、意を決したようにお艶に向き直る。
「お艶。何をしているんでぇ!早く後を追っかけて行かねぇか。」
 お艶は泣き腫らした目を大きく開いて政吉を見た。
「おめぇは、お武家さまの妻になったんじゃねぇのか。」
「お父っつぁん。」
「九十郎が赤穂の浪士だったからって、気持ちは変わらねんだろう?」
 お艶は政吉の言葉に力強く頷く。
「最後まで、九十郎の側にいてやれよ。」
 お艶は絵図面を手に、金右衛門の後を追っていった。
 お艶の後を護衛役として長兵衛の配下が追う。
 多都馬と長兵衛は政吉宅の前で、その様子を見守っていた。
 長兵衛は走り去ったお艶の後姿を見て大きく溜息をもらす。
「多都馬様。御武家様の大義ってーのは、そんなに成し遂げなきゃならねぇ大事なことなんでしょうかね。私には理解出来ねぇことで・・・。」
「武士とは、そういうものよ。」
「多都馬様も、あの御仁と同じ立場だったらあのように?」
「ワシは、武士を半ば捨てた男よ。奴のようにはなれねぇさ。」
 長兵衛は多都馬の思いを感じ取っていた。
― 討ち入りだけが男の本懐じゃない。惚れた女を一生かけて幸せにするのも、男の本懐じゃないのか。―
 多都馬は、そう金右衛門に言いたかったのだろうと。
 多都馬の目には、うっすらと光るものが浮かんでいた。
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