心の刃 -忠臣蔵異聞-
第2章 元禄栄耀
一
漸く戦乱の世が過ぎ、庶民が安心して暮らせる元禄の時代。関ヶ原の戦から百年、島原の乱から六十余年が経ち、人々は次第に争いのない平和な時代に慣れていった。
文化芸術が社会に広がり俳諧/茶道/浄瑠璃が発展し、古からの武芸は本来の役割を失い衰退し始めていた。武家社会の中でも武を要する番方よりも筆を要する役方が重要視されていた。腰の差料も刃が傷つかぬように、また重たく歩行に困難であると普段は竹光を差していたというのだ。侍の根源である武というものは、重んじられる時代では無くなったのである。
町人が商品を売って金を儲け、次第にその力が強くなっていった。それに比べて武士は参勤交代、公務などの儀式や祭典など出費が増え商人などに借金をするようになっていったのだ。富を得て力をつけた商人たちは、独自の文化で元禄時代を華やかに形成していった。幕府や藩だけでなく農民たちも、自ら耕地を開墾し溜池や用水路をつくって新田開発が行われた。
秀吉統括期の約百六十万町歩だったものが、元禄時代には約三倍の三百万町歩になっていたという。農民の社会も変化があり、今までは結婚できなかった隷属的農民が結婚して世帯を構えることが可能となったのも人口増加の要因であった。そうした中で江戸の人口は百万を超え、世界の大都市ロンドンをも凌ぐほどであった。
二
日本橋に調達屋という一風変わった店があった。大名/旗本からの依頼を受け、武具や茶器、さらには屏風絵などを調達し、販売または貸し付けなどを行う店である。財力のない小藩、禄の低い軽輩たちなど利用者も多く店は繁盛していた。
この店の主人を黛多都馬という三十半ばの侍がやっていた。黛家の次男であったが部屋住みであることを良しとせず、諸国武者修行の旅に出ていた。兄である登馬《とうま》の死後、多都馬が黛家を相続する運びとなっていたがこれを辞退。登馬の忘れ形見、数馬に家督を譲った。徒目付常御用、芸州広島藩剣術指南などを勤めていたが、現在は禄を得ず江戸の市井の中で悠々自適に暮らしていた。
店の手配は、江戸口入れ屋の元締め/長兵衛の口利きで日本橋に構えた。場所を日本橋にしたのは、武家や大店からの依頼が多いためだった。武家社会という柵の多い世界に嫌気がさし浪人となったのだが、背に腹は代えられず繋がりは断ち切れていない。口入れ屋の元締め/長兵衛は、多都馬の亡き兄/登馬の徒目付時代に繋がりのある男だった。長兵衛の男気に惚れた登馬が徒目付の役儀上、長兵衛に助力を頼んでいたのだ。
母親も幼い頃に亡くしていた嫡男/数馬は、登馬の死で多都馬の許に身を寄せ暮らしていた。生活の細々としたものは、二人のことを心配した長兵衛が何かと面倒を見ていた。他に赤穂藩・阿久里姫付の侍女だった築山須乃が役目を辞して調達屋に住み込み、二人の身の周りの世話をしている。武家の娘としての婚期はとうに過ぎていたが、明るく大らかで算術などにも長けている才女であった。歳のほどは多都馬より八つ歳年若であった。
店の客は大半が大名や旗本たちで、嗜好品や茶器、掛け軸や屏風絵、時には武具などの調達依頼があった。調達屋の店には刀や槍などを納める部屋はあるが、その他の茶器や屏風絵などの商品の多くの在庫を管理する大きな蔵はない。その代わり各大名、商人が抱えている茶器、掛け軸や屏風絵、武具などが記載している帳簿がある。
多都馬自身が集めたものもあるが、その大半は江戸口入れ屋の元締/長兵衛からの情報だった。その情報を駆使し、客が求める品を売ったり貸したりしているのだ。
店の中の切り盛りは全て須乃に任せている。御用聞きなどは、須乃だけで十分である。多都馬の調達屋の仕事はもっぱら品物手配や客との交渉であった。
多都馬は店の主人であるものの、寝たい時に寝て起きたい時に起きるという自由奔放な生活を送っている。何しろ城勤めという枠組みから解放され、毎日が楽しくてしようがないのだからやりたい放題である。
ところが父の性格に似て真面目な性格の数馬は、多都馬のこうした生活態度がどうしても気に入らない。多都馬とは、どうも馬が合わないのだ。剣術の達人であり学問にも通じている叔父ではあるが、普段の自由奔放さが理解できないのだ。さらには、父/登馬の時代から付き合いのある長兵衛が多都馬に一目置いている理由もわからない。
武士たるもの主君に忠義を尽くして日々努めなければならいというのは、亡き父を見ていてそう思っていた。しかし、多都馬は忠義や大義など武士の本分をわきまえず自由気ままに生きているのだ。
十歳になっていた数馬は、武道については伸び悩んではいるが亡き登馬の息子だけに学問の成績などは、同世代の子供たちの中で抜きん出る才を放っていた。元服したら早く叔父の許を離れ、然るべき藩に仕官をする。数馬は、そのことばかり考えていた。
三
多都馬と長兵衛は、朝の眩しい日差しを背に受けながら家路についていた。
冬の足音が聞こえ始める季節、明け方は吐く息も白くなっている。
「長兵衛。お主、体のほうは大事ないか。」
「何ですか急に・・・。」
「ワシに付き合うて朝まで飲むのはよいがの、そろそろ己の歳を考えねばならんぞ・・・。」
「多都馬様、何を仰いますか。私はまだまだ、そんじょそこらの若い奴には負けはしませんよ。」
「何を言う。この間は、お主が潰れてしもうてワシと三吉とで家まで送ったのだ。その際、おみよにワシらはこっぴどく絞られたわ。」
「はぁ・・・こいつはどうも。」
知らぬところとはいえ多都馬に世話を焼かせてしまったことに、長兵衛は恐縮して頭を掻いている。
「ま、お主も歳を取ったということだな。」
長兵衛は、横にいる多都馬を見て調達屋を開き始めた頃を思い出していた。
店を始めるにあたり、多都馬は一件の売上を長兵衛と折半しようと考えていた。その思わぬ申し出に愕然としてしまい長兵衛は、必死に多都馬を説得していた。
「多都馬様。折半なんてとんでもねぇ、そんなことをされたら亡き登馬様に顔向け出来ません。せめて多都馬様が八分、私が二分で勘弁してくだせぇ。」
「いかん、いかん。それでは、ワシが儲けを搾取しているではないか。」
「いやいや搾取なんてとんでもございません。多都馬様の御商売の手助けは、亡き登馬様のご恩に報いるため。元々金なんざぁ、頂くつもりはありません。」
多都馬も譲らなかったが、兄/登馬の事を引き合いに出されると弱い。
「本当によいのか?」
「十分でございます。」
「では、そういたすか。」
「御納得して頂けてよろしゅうございました・・・。」
長兵衛は、やっと納得した多都馬を見て一安心した。
「多都馬様。あなたも、存外欲がねぇ御人でございますね~。」
「それを言うなら、お主こそ商売人のくせに欲がねぇんじゃないか?」
「何をおっしゃいます。商売人だって分別くらいあります。あなた様と登馬様のことで欲を出したら、バチが当たりますよ。」
「ワシは兄上ほど、人格者ではないぞ。」
「いいえ。登馬様が生前おっしゃっておりました。多都馬は、武もさることながら人の心を察する情の厚い男だと・・・。」
「兄上は買い被りが過ぎるのさ。」
「しかし、多都馬様も変わってらっしゃる。」
「何がだ?」
「だってそうじゃありませんか、御徒目付や広島藩剣術指南役の禄を自らお辞めになるなんざ。」
「広島藩剣術指南役は、綱長様に強引に登用されただけだ。だから御徒目付は辞めてはおらん。」
「こりゃ、どうも。でも剣術指南役はお辞めになったじゃありやせんか。」
「性に合わなかっただけさ。」
「性にねぇ・・・。」
多都馬の何とも言えぬふてぶてしさに、ため息が出る長兵衛だった。
「ワシはな。広島藩でお勤めしていた時より、贅沢な暮しをしておるのだぞ。」
「はぁ?」
「わからぬか?」
確かに、調達屋の商売は客や品物など扱っているものが違う。入って来る金も桁違いの額が入る時がある。しかし、商売たるもの儲かるという保証はない。藩にて役付きの勤めをしていれば安定した生活が送れるのだ。
― 不思議なお人だ。全く・・・。―
多都馬には、湧き出でてくる泉のような魅力があった。
「その一日一日を、思いのまま自由に送ることが出来るのだぞ。こんな贅沢が他にあるか。」
多都馬は、笑いながら長兵衛と肩を組む。
知り合い始めた頃、多都馬のこうした行動にも長兵衛は戸惑っていた。武士と町人とでは身分が違う。その身分を気にして半歩下がって歩いていた。
しかし、長兵衛の気遣いを“ 話がしづらい ”と言いやめさせている。それは長兵衛に限った事ではなく配下の者にも同じであった。多都馬にとって身分や家柄など、どうでもいいことなのである。同じ刻を共に楽しく過ごす仲間に身分の上下はないのだ。
「長兵衛。如何した?急に黙り込んで…。」
「多都馬様は、つくづく不思議なお方だと思っていたところなんですよ。」
「なんだ?」
「いやいや、ご本人様に御説明したところでお分かりにはなりませんよ。」
長兵衛は、笑いながら多都馬と歩いて行った。
四
日本橋に店を構える調達屋の店先はいつも賑やかである。五街道の拠点でもあり事実上の日本の中心地であった。水上交通が整備され大量の商品が輸送されるようになり、町人街の発展に大いに役立っていた。他にも大店の店や中村座などの芝居小屋もあり、橋のたもとには魚河岸が並んで人々が活気に溢れていた。
人々の往来の中を美濃苗木藩の家老たち一行が歩いて来る。
美濃苗木藩は茶会を開催するにあたり、玄関に飾る屏風絵を多都馬の店から借りようとしていたのだ。
多都馬の店“ 調達屋 ”は、日本橋に構えてはいるが大きさは左程ではない。
奥に貸し出し用の品々を納める蔵はあるが、幅は三間ほどである。
「御免。」
「はい。いらっしゃいませ!」
店の奥から須乃が顔を出す。
「苗木藩江戸家老、脇権右衛門でござる。」
須乃は三つ指を立て、丁寧に出迎える。
「多都馬様、苗木藩のご家老様がお見えになっております!」
奥の部屋にいる多都馬を呼ぶ須乃が大声を張り上げる。
待てど暮らせど多都馬からの返事は返ってこない。
「多都馬様!多都馬様!」
幾度となく呼んでも音沙汰がない。
学問所へ行く支度をして、出て行く数馬が困っている須乃の側を通り多都馬のことを話す。
「叔父上なら、昨夜から帰ってきておりません。」
「えっ。」
多都馬のことなど何も気にならないという数馬は、家老たちに一礼し学問所に行くため店を出て行った。
数馬の話が耳に入り、権右衛門は不快な表情で須乃を見つめる。
「あ…い、いえ。少々お待ち下さい。」
不快な表情の家老たちを店に残し、須乃は多都馬を起こしに行くふりをして奥の部屋に入って行った。
家老は、店先で供の侍と落ち着かぬ様子で多都馬が現れるのを待っている。
その時丁度、多都馬が暖簾をかきわけ入って来た。
「おっ、これはこれは・・・。え~っと・・・。」
「苗木藩江戸家老・脇権右衛門でござる。」
「あ、失礼仕りました。脇様でございましたね。遠路ご苦労様でございます。」
多都馬は、今まで飲み屋にいた様子がわかってしまうように酒臭い。
全身から漂う酒臭さに、家老たちは思わず仰け反ってしまう。
「貴公は?」
「あ、いや。これは失礼いたした。調達屋の主、黛多都馬でござる。」
「多都馬様!」
店先に現れた多都馬を見つけ、店の奥から須乃が呆れた様子で出て来る。
「済まん、済まん。」
「本日、約束の品が手に入るということで参ったが。用意は出来ておいでかな?」
多都馬の風体や物腰を家老たちは訝しく見つめている。
「勿論、約束の墨絵の屏風。間違いなく我が店に入っておりまする。」
「かたじけない。我等苗木藩は小藩にて財政も豊かではない、故に殿には肩身の狭い思いをさせておる。此度行われる茶会には、どうしても入用でな。」
「心中、お察しいたします。」
「茶会は、明日の予定じゃ。お貸し頂ける期間は・・・三日間でござったな。」
「いかにも。」
家老は、配下の侍に金子を出させる。
「代金は、七両でござったな?」
「有難うございます。」
「しかし、財政豊かな藩が羨ましい・・・。この屏風を即座に貸し出せる藩とは、どのような藩でござろう。」
多都馬は、受け取った代金を須乃に渡した。
「御家老様。それは聞かぬ約束でございます。」
うっかり店との取り決めを忘れた家老が狼狽える。
「これは失礼いたした。」
「また、お貸しいたしましたものに傷または破損などありました場合、金では済まぬことがございます。高価な品物の場合、細心の注意を願わしゅう存じます。」
多都馬の言葉に苗木藩の一行は、青ざめた表情で互いの顔を見合わせている。
「ま、今回の墨絵は左程のものではござりませぬ故ご安心を・・・。」
「もれ聞くところによりますと、黛殿は広島藩の元藩士だとか・・・。」
「いやいや、昔の昔のお話でございます。」
須乃は、面倒臭そうに話している多都馬の様子を部屋の隅から見つめていた。多都馬との出会いは、ある事件がきっかけとなっていた。
須乃は多都馬を見つめながら、ふとその事件を思い出すのだった。
漸く戦乱の世が過ぎ、庶民が安心して暮らせる元禄の時代。関ヶ原の戦から百年、島原の乱から六十余年が経ち、人々は次第に争いのない平和な時代に慣れていった。
文化芸術が社会に広がり俳諧/茶道/浄瑠璃が発展し、古からの武芸は本来の役割を失い衰退し始めていた。武家社会の中でも武を要する番方よりも筆を要する役方が重要視されていた。腰の差料も刃が傷つかぬように、また重たく歩行に困難であると普段は竹光を差していたというのだ。侍の根源である武というものは、重んじられる時代では無くなったのである。
町人が商品を売って金を儲け、次第にその力が強くなっていった。それに比べて武士は参勤交代、公務などの儀式や祭典など出費が増え商人などに借金をするようになっていったのだ。富を得て力をつけた商人たちは、独自の文化で元禄時代を華やかに形成していった。幕府や藩だけでなく農民たちも、自ら耕地を開墾し溜池や用水路をつくって新田開発が行われた。
秀吉統括期の約百六十万町歩だったものが、元禄時代には約三倍の三百万町歩になっていたという。農民の社会も変化があり、今までは結婚できなかった隷属的農民が結婚して世帯を構えることが可能となったのも人口増加の要因であった。そうした中で江戸の人口は百万を超え、世界の大都市ロンドンをも凌ぐほどであった。
二
日本橋に調達屋という一風変わった店があった。大名/旗本からの依頼を受け、武具や茶器、さらには屏風絵などを調達し、販売または貸し付けなどを行う店である。財力のない小藩、禄の低い軽輩たちなど利用者も多く店は繁盛していた。
この店の主人を黛多都馬という三十半ばの侍がやっていた。黛家の次男であったが部屋住みであることを良しとせず、諸国武者修行の旅に出ていた。兄である登馬《とうま》の死後、多都馬が黛家を相続する運びとなっていたがこれを辞退。登馬の忘れ形見、数馬に家督を譲った。徒目付常御用、芸州広島藩剣術指南などを勤めていたが、現在は禄を得ず江戸の市井の中で悠々自適に暮らしていた。
店の手配は、江戸口入れ屋の元締め/長兵衛の口利きで日本橋に構えた。場所を日本橋にしたのは、武家や大店からの依頼が多いためだった。武家社会という柵の多い世界に嫌気がさし浪人となったのだが、背に腹は代えられず繋がりは断ち切れていない。口入れ屋の元締め/長兵衛は、多都馬の亡き兄/登馬の徒目付時代に繋がりのある男だった。長兵衛の男気に惚れた登馬が徒目付の役儀上、長兵衛に助力を頼んでいたのだ。
母親も幼い頃に亡くしていた嫡男/数馬は、登馬の死で多都馬の許に身を寄せ暮らしていた。生活の細々としたものは、二人のことを心配した長兵衛が何かと面倒を見ていた。他に赤穂藩・阿久里姫付の侍女だった築山須乃が役目を辞して調達屋に住み込み、二人の身の周りの世話をしている。武家の娘としての婚期はとうに過ぎていたが、明るく大らかで算術などにも長けている才女であった。歳のほどは多都馬より八つ歳年若であった。
店の客は大半が大名や旗本たちで、嗜好品や茶器、掛け軸や屏風絵、時には武具などの調達依頼があった。調達屋の店には刀や槍などを納める部屋はあるが、その他の茶器や屏風絵などの商品の多くの在庫を管理する大きな蔵はない。その代わり各大名、商人が抱えている茶器、掛け軸や屏風絵、武具などが記載している帳簿がある。
多都馬自身が集めたものもあるが、その大半は江戸口入れ屋の元締/長兵衛からの情報だった。その情報を駆使し、客が求める品を売ったり貸したりしているのだ。
店の中の切り盛りは全て須乃に任せている。御用聞きなどは、須乃だけで十分である。多都馬の調達屋の仕事はもっぱら品物手配や客との交渉であった。
多都馬は店の主人であるものの、寝たい時に寝て起きたい時に起きるという自由奔放な生活を送っている。何しろ城勤めという枠組みから解放され、毎日が楽しくてしようがないのだからやりたい放題である。
ところが父の性格に似て真面目な性格の数馬は、多都馬のこうした生活態度がどうしても気に入らない。多都馬とは、どうも馬が合わないのだ。剣術の達人であり学問にも通じている叔父ではあるが、普段の自由奔放さが理解できないのだ。さらには、父/登馬の時代から付き合いのある長兵衛が多都馬に一目置いている理由もわからない。
武士たるもの主君に忠義を尽くして日々努めなければならいというのは、亡き父を見ていてそう思っていた。しかし、多都馬は忠義や大義など武士の本分をわきまえず自由気ままに生きているのだ。
十歳になっていた数馬は、武道については伸び悩んではいるが亡き登馬の息子だけに学問の成績などは、同世代の子供たちの中で抜きん出る才を放っていた。元服したら早く叔父の許を離れ、然るべき藩に仕官をする。数馬は、そのことばかり考えていた。
三
多都馬と長兵衛は、朝の眩しい日差しを背に受けながら家路についていた。
冬の足音が聞こえ始める季節、明け方は吐く息も白くなっている。
「長兵衛。お主、体のほうは大事ないか。」
「何ですか急に・・・。」
「ワシに付き合うて朝まで飲むのはよいがの、そろそろ己の歳を考えねばならんぞ・・・。」
「多都馬様、何を仰いますか。私はまだまだ、そんじょそこらの若い奴には負けはしませんよ。」
「何を言う。この間は、お主が潰れてしもうてワシと三吉とで家まで送ったのだ。その際、おみよにワシらはこっぴどく絞られたわ。」
「はぁ・・・こいつはどうも。」
知らぬところとはいえ多都馬に世話を焼かせてしまったことに、長兵衛は恐縮して頭を掻いている。
「ま、お主も歳を取ったということだな。」
長兵衛は、横にいる多都馬を見て調達屋を開き始めた頃を思い出していた。
店を始めるにあたり、多都馬は一件の売上を長兵衛と折半しようと考えていた。その思わぬ申し出に愕然としてしまい長兵衛は、必死に多都馬を説得していた。
「多都馬様。折半なんてとんでもねぇ、そんなことをされたら亡き登馬様に顔向け出来ません。せめて多都馬様が八分、私が二分で勘弁してくだせぇ。」
「いかん、いかん。それでは、ワシが儲けを搾取しているではないか。」
「いやいや搾取なんてとんでもございません。多都馬様の御商売の手助けは、亡き登馬様のご恩に報いるため。元々金なんざぁ、頂くつもりはありません。」
多都馬も譲らなかったが、兄/登馬の事を引き合いに出されると弱い。
「本当によいのか?」
「十分でございます。」
「では、そういたすか。」
「御納得して頂けてよろしゅうございました・・・。」
長兵衛は、やっと納得した多都馬を見て一安心した。
「多都馬様。あなたも、存外欲がねぇ御人でございますね~。」
「それを言うなら、お主こそ商売人のくせに欲がねぇんじゃないか?」
「何をおっしゃいます。商売人だって分別くらいあります。あなた様と登馬様のことで欲を出したら、バチが当たりますよ。」
「ワシは兄上ほど、人格者ではないぞ。」
「いいえ。登馬様が生前おっしゃっておりました。多都馬は、武もさることながら人の心を察する情の厚い男だと・・・。」
「兄上は買い被りが過ぎるのさ。」
「しかし、多都馬様も変わってらっしゃる。」
「何がだ?」
「だってそうじゃありませんか、御徒目付や広島藩剣術指南役の禄を自らお辞めになるなんざ。」
「広島藩剣術指南役は、綱長様に強引に登用されただけだ。だから御徒目付は辞めてはおらん。」
「こりゃ、どうも。でも剣術指南役はお辞めになったじゃありやせんか。」
「性に合わなかっただけさ。」
「性にねぇ・・・。」
多都馬の何とも言えぬふてぶてしさに、ため息が出る長兵衛だった。
「ワシはな。広島藩でお勤めしていた時より、贅沢な暮しをしておるのだぞ。」
「はぁ?」
「わからぬか?」
確かに、調達屋の商売は客や品物など扱っているものが違う。入って来る金も桁違いの額が入る時がある。しかし、商売たるもの儲かるという保証はない。藩にて役付きの勤めをしていれば安定した生活が送れるのだ。
― 不思議なお人だ。全く・・・。―
多都馬には、湧き出でてくる泉のような魅力があった。
「その一日一日を、思いのまま自由に送ることが出来るのだぞ。こんな贅沢が他にあるか。」
多都馬は、笑いながら長兵衛と肩を組む。
知り合い始めた頃、多都馬のこうした行動にも長兵衛は戸惑っていた。武士と町人とでは身分が違う。その身分を気にして半歩下がって歩いていた。
しかし、長兵衛の気遣いを“ 話がしづらい ”と言いやめさせている。それは長兵衛に限った事ではなく配下の者にも同じであった。多都馬にとって身分や家柄など、どうでもいいことなのである。同じ刻を共に楽しく過ごす仲間に身分の上下はないのだ。
「長兵衛。如何した?急に黙り込んで…。」
「多都馬様は、つくづく不思議なお方だと思っていたところなんですよ。」
「なんだ?」
「いやいや、ご本人様に御説明したところでお分かりにはなりませんよ。」
長兵衛は、笑いながら多都馬と歩いて行った。
四
日本橋に店を構える調達屋の店先はいつも賑やかである。五街道の拠点でもあり事実上の日本の中心地であった。水上交通が整備され大量の商品が輸送されるようになり、町人街の発展に大いに役立っていた。他にも大店の店や中村座などの芝居小屋もあり、橋のたもとには魚河岸が並んで人々が活気に溢れていた。
人々の往来の中を美濃苗木藩の家老たち一行が歩いて来る。
美濃苗木藩は茶会を開催するにあたり、玄関に飾る屏風絵を多都馬の店から借りようとしていたのだ。
多都馬の店“ 調達屋 ”は、日本橋に構えてはいるが大きさは左程ではない。
奥に貸し出し用の品々を納める蔵はあるが、幅は三間ほどである。
「御免。」
「はい。いらっしゃいませ!」
店の奥から須乃が顔を出す。
「苗木藩江戸家老、脇権右衛門でござる。」
須乃は三つ指を立て、丁寧に出迎える。
「多都馬様、苗木藩のご家老様がお見えになっております!」
奥の部屋にいる多都馬を呼ぶ須乃が大声を張り上げる。
待てど暮らせど多都馬からの返事は返ってこない。
「多都馬様!多都馬様!」
幾度となく呼んでも音沙汰がない。
学問所へ行く支度をして、出て行く数馬が困っている須乃の側を通り多都馬のことを話す。
「叔父上なら、昨夜から帰ってきておりません。」
「えっ。」
多都馬のことなど何も気にならないという数馬は、家老たちに一礼し学問所に行くため店を出て行った。
数馬の話が耳に入り、権右衛門は不快な表情で須乃を見つめる。
「あ…い、いえ。少々お待ち下さい。」
不快な表情の家老たちを店に残し、須乃は多都馬を起こしに行くふりをして奥の部屋に入って行った。
家老は、店先で供の侍と落ち着かぬ様子で多都馬が現れるのを待っている。
その時丁度、多都馬が暖簾をかきわけ入って来た。
「おっ、これはこれは・・・。え~っと・・・。」
「苗木藩江戸家老・脇権右衛門でござる。」
「あ、失礼仕りました。脇様でございましたね。遠路ご苦労様でございます。」
多都馬は、今まで飲み屋にいた様子がわかってしまうように酒臭い。
全身から漂う酒臭さに、家老たちは思わず仰け反ってしまう。
「貴公は?」
「あ、いや。これは失礼いたした。調達屋の主、黛多都馬でござる。」
「多都馬様!」
店先に現れた多都馬を見つけ、店の奥から須乃が呆れた様子で出て来る。
「済まん、済まん。」
「本日、約束の品が手に入るということで参ったが。用意は出来ておいでかな?」
多都馬の風体や物腰を家老たちは訝しく見つめている。
「勿論、約束の墨絵の屏風。間違いなく我が店に入っておりまする。」
「かたじけない。我等苗木藩は小藩にて財政も豊かではない、故に殿には肩身の狭い思いをさせておる。此度行われる茶会には、どうしても入用でな。」
「心中、お察しいたします。」
「茶会は、明日の予定じゃ。お貸し頂ける期間は・・・三日間でござったな。」
「いかにも。」
家老は、配下の侍に金子を出させる。
「代金は、七両でござったな?」
「有難うございます。」
「しかし、財政豊かな藩が羨ましい・・・。この屏風を即座に貸し出せる藩とは、どのような藩でござろう。」
多都馬は、受け取った代金を須乃に渡した。
「御家老様。それは聞かぬ約束でございます。」
うっかり店との取り決めを忘れた家老が狼狽える。
「これは失礼いたした。」
「また、お貸しいたしましたものに傷または破損などありました場合、金では済まぬことがございます。高価な品物の場合、細心の注意を願わしゅう存じます。」
多都馬の言葉に苗木藩の一行は、青ざめた表情で互いの顔を見合わせている。
「ま、今回の墨絵は左程のものではござりませぬ故ご安心を・・・。」
「もれ聞くところによりますと、黛殿は広島藩の元藩士だとか・・・。」
「いやいや、昔の昔のお話でございます。」
須乃は、面倒臭そうに話している多都馬の様子を部屋の隅から見つめていた。多都馬との出会いは、ある事件がきっかけとなっていた。
須乃は多都馬を見つめながら、ふとその事件を思い出すのだった。