心の刃 -忠臣蔵異聞-
第4章 饗 応 役
                  一

 先の事件以来、安兵衛と孫太夫との間にも友情が芽生え、二人の口利きもあり各藩からの依頼は後を絶たなかった。調達屋の商売は、まさに順風満帆であった。
 長矩自身も用事を見つけては、家臣たちに多都馬の店を利用するよう命じていたのだ。それは多都馬への罪滅ぼしなのか、実直な長矩を象徴していた。
 多都馬と安兵衛、孫太夫の三人は、江戸の小石川にある堀内道場へ向かっていた。
「安兵衛。長矩様は生真面目過ぎる。先の一件は、もう済んだこと。気に病むにも程がある。」
「何を申すか。浪人の身でありながら、藩主である長矩様に拝謁できるなど、普通なら有り得んのだぞ。」
「それはわかっておる。しかし、ワシに負い目を感じることなどないのだ。あの一件から、何年経つと思う。」
「そこがあの殿の良い所よ。」
「御心優しい殿なのじゃ。我等は、果報者よ。なぁ、安兵衛!」
 高笑いして歩く安兵衛と孫太夫をよそに、そんな長矩の性質から多都馬は赤穂藩の将来を危惧していた。
 堀内道場に着くと、中から威勢のよい掛け声が聞こえてくる。中に入ると一心不乱に稽古に励んでいる若者が振り返った。
「安兵衛様!孫太夫様!」
 その若者は稽古を中断して、多都馬たちの元へ駆け寄ってくる。
「一学!励んでおるのぉ!」
「はい!」
 この青年が吉良家で中小姓を務める清水(しみず)一学(いちがく)であった。江戸で評判の堀内(ほりうち)源太左衛門《げんたざえもん》の道場で剣の腕を磨いていたのだ。
「多都馬。この若者、お主に引き合わせたいと思うてな。」
「清水一学と申します。安兵衛様より、お噂は耳にしております。」
 安兵衛は多都馬に一学との手合わせを勧める。
「どうじゃ、多都馬。一学と立ち合うてみたら。」
 一学も、純粋な眼差しで多都馬に懇願する。
「二階堂平法の太刀さばき、是非ご教授願いたいと存じます。」
 爽やかな春の風を、思い浮かべるような青年であった。
             
                  二

 側用人/柳沢(やなぎさわ)吉保(よしやす)は下屋敷を造成している六義園の庭を、二人の家老/曽根保挌(そねやすただ)鈴木主水(すずきもんど)を引き連れ歩いていた。
 徳川五代将軍/綱吉に重用され側用人まで上り詰めた吉保だったが、綱吉の治世は庶民から支持されなくなっていた。
 学問の奨励にともなう造寺・造宮、明暦の大火による江戸の町の復興、他にも朝廷対策などで費用もかさみ財政難に陥っていた。
 中でも「生類憐みの令」は、庶民の生活を脅かしていた。財政逼迫の大きな原因となる保護する犬の小屋の増築費、餌代などが日に日に増していた。犬だけではなく鳥や魚、家畜に至るまであらゆる殺生が禁じられているのだ。
― このままでは・・・。―
 人心が次第に綱吉の幕政から離れていっていることに吉保は苦慮していた。
「・・・殿。」
 歩みを止めた吉保に保挌が声をかける。
「ん、如何した?」
「殿は、ここ数ヶ月の間、夜もなかなかご就寝出来ぬご様子。保挌、殿のお体が心配でございます。」
「うむ・・・。」
 幕府の財政状況を思えば、体の事に気を配る余裕などあるわけがない。莫大な資金が必要な寺社の建築費は幕府財政の悪化要因であり、これらは仏教に深く帰依している桂昌院によるものなのだ。
「金のかかることが多くてのぉ・・・。逼迫しておる幕府の財政は、どのような手を尽くせば持ち直すのか。」
「御意。勅使をお迎えせねばならぬことも、儀式としての金が掛かりますゆえ・・・。」
 主水がため息交じりに、逼迫する幕府の財政を憂いつぶやく。
「神君・家康公の代から、数えて上様で五代じゃ。ここで再び乱世となるわけにはいかぬ。何か策はないかと日々考えておるのだが・・・。」
 吉保たちは再び歩き出した。
「何か良い案はござりましょうや・・・。」
 吉保と保挌の後ろを歩く主水が声をかけた。
「うむ・・・。」
 吉保は暫く沈黙し後、ゆっくりと話し始めた。
「本意ではないのだが、先代様のご政策を参考にしようと思案しておるのだが。」 
「御先代家綱様のご政策でござりましょうか?」
 保挌が吉保の顔色を伺いながら言う。
「いや、秀忠様じゃ。」
「秀忠公の?」
「うむ・・・。」
 吉保は何か思いめぐらせているのか目は閉じたまま天を見上げていた。
「二代将軍秀忠様は、数多くの大名の改易を画策されたとか。」
「秀忠公は、どれほどの数を改易なされたのでございますか。」
「五十四だ。」
 あまりの数の多さに主水と保挌が愕然としている。
「上様にも、それに習い大名を改易させよと。」
「改易させる火種は、各藩必ず一つや二つ転がっておるではないか。」
「御意。」
 この頃、幕府は各地に隠密を放っており、「土芥寇讎記(どかい こうしゅうき)」という資料が残っている。
「但し、幕府が表立って画策したのでは外様大名たちの心も離れ、逆意を持たせてしまうことになる。故に、奇策をもって事に当たらねばならぬ。」
「なるほど、改易させれば外様大名たちの結束力も弱まります。合わせて譜代の大名を入府させれば、幕府の直轄地のようなもの・・・。」
 主水が、吉保の顔を伺う。
「で、手ごろな外様大名は既にいくつありましょうや。」
 吉保は、草履を脱ぎ庭から座敷へと上がる。これに保挌と主水も続いた。
 屋敷の板間に座している男が平伏し、吉保たちを迎える。
「殿。この者は?」
「保挌、主水。良い機会ゆえ、そち達にも引き合わせる。これから、ワシの手足となって働いてくれることとなった石堂(いしどう)兵衛(ひょうえ)と申す者だ。」
「石堂兵衛と申します。以後、お見知りおきを・・・。」
 保挌と主水は、素性の知れぬ男に警戒する。
「ご家老様、先ほどのお話ですが・・・。」
「ん?何の話じゃ。」
「大名の改易の話しでございます。」
 離れた庭での会話を知っていた兵衛に驚く保挌と主水だった。
「皆様方の口の動きを、こちらから伺っておりましたので。」
 保挌と主水は言葉もなく顔を見合わせる。
「先ほどのお話しにうってつけの藩がございます。」
「どこの藩じゃ。」
「赤穂藩でございます。」
 兵衛が標的として、長矩が当主を務める播州赤穂藩を挙げた。元は3万石だった赤穂藩は、塩田開発より地道に石高を伸ばして5万5千石にまでなっていた。兵衛はこれに目をつけたのである。勅使饗応接待の役目の日が数ヶ月後に迫っていることを利用し、吉良義央と浅野長矩の間に事が起こる企てを考えていた。兵衛の目論見通りに進めば、江戸城中で刃傷事件に発展し兼ねないというのである。
「事を起こすには、いかがな事をする?」
 吉保は兵衛に訊ねた。
「堀田正俊様と稲葉正休様の件、そして越後高田藩の騒動。これらの件を上手く模倣すればいかがでしょう。」
 堀田正俊は「生類憐みの令」の発令に対し、強く反対していた。これを予てより快く思っていなかった綱吉が、吉保に含みを持たせ自身の意図を伝えていた。
 堀田正俊の暗殺である。吉保は「淀川の治水事業」の任から外され、堀田正俊に恨みを持っていた稲葉正休を利用し暗殺を実行させたのだ。
「兵衛。お主、あの二つの事件、何故我らが黒幕と断定致す。」
「皆、上様や御前のご威光が恐ろしく口を閉ざしているだけでござる。」
 主水は、兵衛を恐ろしげに見つめている。
「浅野家と吉良家、そう両者がうまくいがみ合うでしょうか・・・。」
 部屋の隅に座している兵衛が、吉保に代わって保挌の問いに答える。
「浅野長矩様には、痞という持病を抱えており、故に時折錯乱状態になるとか・・・。これを利用すれば、我等の思惑通りに事は運ぶかと存じます。」
 吉保は兵衛の言葉に、黙ってうなずく。
「それに赤穂藩には、そういった長矩様の御乱心の被害に遭った家臣たちが不満を膨らませおります。これが利用できると存じますが・・・。」
 吉保は一点を凝視したまま小さく首を縦に振った。
「更に事が思った以上に大きゅうなれば、思わぬ大物も引っかかるかも知れませぬ。」
「思わぬ大物とは?」
 主水が兵衛に訊ねた。
 吉保は兵衛が、これから発することが理解しているかのように目を閉じ深く息を吸った。
「分かりませぬか?吉良様の御子は、上杉弾正大弼綱憲様です。」
「ま、まさか上杉家まで・・・。」
「上手くいけば米沢藩十五万石が、幕府のものとなりましょう。」
  兵衛から発せられる重々しい殺気に、身震いしている保挌と主水は吉保の顔色を窺った。その表情は何かに取り憑かれたようであった。

                 三

 浅野家上屋敷では、安兵衛が長矩と剣術の稽古をしていた。
 長矩自ら武道を奨励しているだけあって、安兵衛に及ばないもののなかなかの腕前であった。
「どうじゃ安兵衛。ワシも腕を上げたであろう。」
「はい。しかし、慢心はなりませぬ。」
「わかっておる。」
 長矩は稽古の木刀を小姓に持たせ体の汗を拭う。
「殿。近々、老中よりお役目が言い渡されるとか。」
「朝廷の御勅使饗応役じゃ。」
「それは、大役を・・・。」
 安兵衛の誇らしげな表情とは逆に、長矩の顔は暗くなっていく。
「それを考えると気が重うなるわ。」
「何を仰せられますか。御勅使饗応役は、十八年前も見事成し遂げられておりまする。此度も、きっと。」
「以前は、訳も分からず頼母《たのも》の言われるがままにしておった。それでは何もわからぬのと同じよ。」
 “頼母”とは、一六八三年勅使饗応役を初めて仰せつかった時の江戸家老/大石《おおいし》頼母《たのも》良重《よししげ》である。長矩は、この頼母の補佐により饗応役の勤めを無事果たしていた。 
「では此度も、それでよろしかろうと存じます。」
「そうはいかぬわ。ワシも齢《よわい》三十四じゃ、十八の童とは違う。年若い伊達左京亮殿の手本にもならなければ…。」
「そのように自らを律せずともよいではありませぬか。」
「御勅使接待のお役目は、作法・しきたりが細こうての。気骨の折れることなのじゃ。」
 長矩は長い溜息をついて目を閉じた。
「御家老や我等が常に側におります。ご安心くださりませ。」.
「うむ、頼りにしておるぞ。」
 長矩は、大きなため息をついた。 

                  四

 元禄十四年二月四日、浅野内匠頭長矩は勅使饗応接待の役目を命ぜられる。一方、吉良(きら)上野介(こうずけのすけ)義央(よしひさ)は一月から、将軍/綱吉の名代として京都の朝廷に使わされていた。義央を勅使饗応の日の間際まで、多忙にさせ長矩との関係を遠のかせようという吉保の画策である。高家筆頭としては当然の役目であるため、周囲に吉保の意図が悟られるようなことはない。
 重要なのは義央とのつなぎ役の奥高家/畠山義寧(はたけやま よしやす)である。吉保の魔の手は、この畠山義寧にも及んでいた。畠山義寧は奥高家に昇格したばかりで、義央の補佐的立場の人間であった。高家とは幕府の儀式や典礼を司る役職で、畠山家は、代々この役職に就くことが出来る家柄であった。
畠山義寧は、吉保の呼び出しに部屋で待っていた。廊下を歩く吉保の足音が聞こえ即座に平伏する義寧。
「お待たせいたしたかな。」
 吉保が、家老の曽根保挌を引き連れ入ってくる。
「いえ。」
「義寧殿をお呼びし致したのは、ちと込み入った話があったゆえ。」
「どのようなお話でしょう。」
「義寧殿、よろしいかな。内匠頭への勅使饗応接待お役目の儀、事を首尾よく進ませてはならぬ。」
「おっしゃる意味がわかりませぬ。」
「上野介は、上様の御名代で御上の元へ参らせる。義寧殿は、高家旗本ゆえ上野介不在のおりは補佐役をせねばならぬが、この時、浅野方は上野介に指導を仰いで来るはず。浅野方には伝達の一切をせき止め、間違った指導を申し伝えよ。さすれば、それに憤慨し吉良への恨みを勝手に抱くようになる。その裁量はな、其方に任せようと思うておるのだ。」
「何故、そのようなことを・・・。」
 吉保は、眼光鋭く義寧を睨む。
「上様がかつて隠密を使い各地の大名の素行調査をなさったことがある。民の暮らしを気にされてのことじゃ。その中に浅野内匠頭のことも記述されておる。」
「どのようなことが・・・。」
「武芸を好み、日夜鍛錬に勤しむ。が、しかし女色に溺れ、政務は家老など家臣に任せきり・・・と。加えて内匠頭の好む女子を献上すれば、出世も思いのままであるとも報告されておる。」
「そのような。」
「これを諌める家臣はことごとく禄を失い、自身の言いなりになる家臣ばかりを重用しておる。藩主にあるまじき行為じゃな。」
 義寧は、公儀の恐ろしさを改めて感じていた。
「しかし、そうであればこのような策を弄さずとも・・・。」
 言いかけた義寧を遮り、吉保は強い口調で話す。
「ワシもそなたも、上様・・・そして幕府あっての御身ぞ。」
「ならば余計に、御勅使饗応接待の儀滞りなく済ませねば・・・。」
「ワシの考えに同意出来ぬと申すのだな。」
「いえ。決して、そのような。」
「いつぞやの拝謁禁止のような沙汰、もう二度と受けたくはなかろう。」
 将軍/綱吉への拝謁禁止の沙汰を受けたことを思い出し衝撃を受ける。
「御身大事、御家大事と心得よ。」
 吉保の恐ろしさに顔から血の気が引いていく。
「心配には及ばぬ。内匠頭は痞えという持病があるのだ。それを利用すればよい。」
 吉保は、こう言い伝えると義寧の前から立ち去っていった。
 数十年前の将軍家への拝謁禁止という弱みを握られていた義寧は、吉保の指示通りに動く他はなかった。

                 五

 義寧が事を上手く運べば、長矩はいずれ義央に対し不満を爆発させ、何らかの行動に出るのが目に見えていた。長矩が痞えによる症状で起こす所業は、藩内では有名であり数々の被害者も出ていた。
 吉保は、義寧との密談を終え屋敷内の自室へ入ってくる。先に室内に控えていた兵衛は頭を下げ出迎える。
「ご用意して頂いた故、先に失礼いたしております。」
 酒の支度が整えられており、兵衛は手酌で酒を飲んでいた。
「構わん、構わん。どんどんやってくれ。」 
「恐れ入りまする。」
 吉保が屋敷に戻ったので、兵衛と同じ支度を整えようと小姓たちが来る。
 小姓たちは手際よく支度を整え、足早に部屋を出ていった。
 兵衛は目の前の膳を横にずらし、吉保の前に座って酒を注ぐ。
「御前。義寧様は、お引き受けになられましたでしょうか。」
「引き受けぬわけはなかろう・・・。」
 吉保と兵衛は互いに目を見合わせ、含み笑いを浮かべている。
「内匠頭様は、あの病状に加え何やら自身の妄想を膨らませる傾向にあるようでございます。」
「上野介に対し勝手な遺恨を抱くであろうな・・・。」
「ここが我らの狙い目。」
「義寧だけではなく、内匠頭や上野介の周辺にも人の配備が必要じゃの。」
「既に浅野家の家老には手を打っておりまする。」
「うむ。吉良家は如何する。」
「あまり人を要さぬほうがよろしいでしょうな。」
「吉良にも配備しておいたほうが得策に思えるが。」
「謀は必要最小限で行うのが常でございます。関係する者が多ければ、露見する危険も増すことでございましょう。」
「なるほど、申す通りじゃな。」
 兵衛が吉保の杯に酒を注ぐ。
「しかし、此度のこと(さじ)加減が少々難しゅうございます。」
 兵衛は言い終えると杯の酒を一気に飲み干す。
「そうじゃの。」
「あまり追い詰め過ぎますと、肝心な時に何れかが途中で姿を消す可能性も出て参ります。」
「うむ。」
「内匠頭様と上野介様。御両名様、何としても三月十四日までお役目についてもらわねば・・・。」
「赤穂藩の江戸家老/藤井と安井、土壇場で尻込みせんであろうな。」
「御心配には及びません。誰も皆、己の保身が最優先でございます。」
 吉保は、目を閉じ思案し始める。
「幕府の財政は逼迫しておるのだ。上様の代で徳川の世を終わらせるわけにはいかん。」
兵衛は、吉保を冷ややかな面持ちで見つめていた。

                 六

 人里離れた廃寺の本殿に、兵衛は美郷(みさと)を伴い来ていた。
 美郷は、兵衛が武者修行の途中で出会った女子だった。当時、山賊に囚われていた村の女児数名を兵衛が助け出した。美郷を除く数名は親たちが待つ村落へ戻ったが、親を殺された美郷はそのまま兵衛の側に付き従った。美郷は兵衛から剣術や体術などを体得し、兵衛の手足となって動いていた。
 障子戸の紙は破れ、部屋の四隅には蜘蛛の巣が張っている。
本殿の中は、無数にある破れた障子の隙間から差し込まれる西日で明るく照らしていた。
「御免。」
本殿の扉を開け、藤井又左衛門(ふじい またざえもん)が入って来る。
「半刻ほど遅れておるが・・・。」
「申し訳ござらん。問題の多い主を持つといろいろ大変でな・・・。」
「尾けられてはおらんな?」
 又左衛門は、黙って頷いた。
 兵衛は、美郷を見つめて尾行などの有無を確かめる。
 美郷は素早く周囲を見渡して、兵衛に問題がない事を伝える。
「それよりも確かであろうな?事を成し遂げた際には、我等を他家に推挙して頂けるというのは・・・。」
「御側用人様のお墨付きじゃ、心配なさるな。それよりも、例の件は着々と進んでおるのじゃな?」
「我等、家老の身なれば細工に問題はござらん。」
 美郷は終始、本殿の外を警戒している。
「本日、呼び出したのは・・・。お主の覚悟のほどを、再度確認したかったのでな。」
「無論、揺るぎない。」
 兵衛と美郷が突き刺すような視線を又左衛門に送る。
「ご・・・ご心配召さるな。」
 又左衛門は、二人の視線に恐怖した。
「左様でござるか。」
 兵衛と美郷から伝わってくる威圧感に耐えながら答える。
「勿論だ。」
「そうか。」
 理解を示した兵衛の表情を見て安心する又左衛門だった。
「やはりこうして、顔を直接見ないことには安心出来ぬでな。」
「それは、どういう意味でござるか?」
「主君を裏切るのだぞ。今更、後悔されても困るのでな。」
「御安心めされい。あのような主に何の未練もござらんでな。」
 美郷が一瞬、又左衛門を睨みつける。
「今まで殿の御乱心によって禄を失った者が何人もおる。明日は我が身かと思うと夜も眠れんのだ。あのようになるのは御免被りたい。」
「では、お頼み申したぞ。」
 兵衛の鋭い眼光が又左衛門を見つめていた。
「他に何かご心配事は、ござらぬな。無ければ拙者、これにて失礼仕る。」
 又左衛門は本殿の扉を開けて出て行く。
「兵衛様。」
「どうした美郷。」
 障子戸の隙間から見える又左衛門の後ろ姿を見ながら美郷は呟いた。
「事が首尾よく運んだ暁には、あの者の願い聞き届けなさいますのでしょうか。」
「さて・・・。それはワシの一存では決められぬこと。」
「後の憂いが無きよう斬り捨ててしまえばよろしいのでは?」
 美郷の言葉には、強い憎しみと憤りが感じられた。
 兵衛は美郷を見つめ、笑みを浮かべる。
「美郷。あの男が嫌いか。」
 美郷は答える変わりに、崩れかけの扉を刀で叩き斬った。
 
                 七

 京都に到着していた義央は綱吉の名代役を終え、京都所司代/松平信庸の屋敷に逗留していた。
 昼は公務に夜は所司代からの接待と続き六十になった義央の体には大分堪えていた。
 義央は肘掛に体を預け溜め息を一つつく。
 側に用人/鳥居利右衛門《とりい りえもん》が義央の側に控えていた。 
「殿。本日もお疲れのご様子。もう、お休みなされませ。」
「これ、年寄り扱いをいたすな。」
「何を申されますか、殿は十分にお年を召されているではありませんか。」
「それが臣たる者の物言いか?」
 義央は利右衛門の言葉に苦笑する。
「殿は我等の苦言をお聞きになられます故、吉良家は歩む道筋を間違えることはありませぬ。」
「左様かの。」 
 義央の落ち着いた表情を見て、利右衛門の心も和やかになる。
「しかし、これから先、江戸に戻られましても御勅使饗応差添役もございます。お体を少しでも休ませねばお役目に支障が出て参りまする。」
「そうじゃの。内匠頭殿や左京亮殿もお役目のため励んでおられるのだからの。」
「浅野様は、二度目のお役目にて伊達様にご指導をされておられるとか・・・。」
「頼もしいの。」
「御意。」
 安堵感からか義央の顔から力みが消えて行く。
「ワシも粗相無きよう、幾度となく書状を認めておいた。」
「万事抜かりはございませぬ。」
「義寧との連絡は、必ず漏れのないよういたすのじゃ。」
「はっ。畏まりました。」
「何にしても気骨の折れるお役目よな。」
 義央は目を閉じて大きく溜め息をついた。
「さ、御寝所のお仕度も整えておりますれば・・・。」
 利右衛門に促され部屋を出て行った。
 その日の京都は、一段と静かな夜だった。

                  八

 一方、朝から浅野家上屋敷は騒然となっていた。
「なんじゃ、これは!」
 長矩は義央から送られてきた勅使出迎えの品々の書状を見て愕然としていた。
「畠山殿に伺いを立てた時、当家にある墨絵の屏風でもよいと申していたではないか。」
 長矩の体が震え出し、息が荒くなってくる。
「また、吉良様の横槍にございますか。殿になんの恨みがあってこのような嫌がらせ!」
 又左衛門も興奮して話す。
「接待料も十八年前の七百両で決まっておったはずじゃ。・・・それを。」
「吉良様がご提示された金子は確か・・・。」
「千五百両じゃ!」
 長矩は声高に叫んだ。
「又左。如何いたす。国許へ行けば調達できるが江戸の御城下ではどうなるか・・・。」
 長矩の不安を煽るかのように彦右衛門が話をする。
「今から急ぎ国許へ知らせを送って五日か六日。探索や買い付けに五日から十日。送り届けるまでさらに日数を要する。」
「今からでは、間に合うまい。」
 現在の状況に観念したかのような又左衛門の言葉であった。
「もうよい。咎めは余が受ける。」
 互いに示し合わせていた又左衛門と江戸家老/安井彦右衛門(やすい ひこえもん)は、長矩の動揺振りを見て思わず口元が緩む。
「殿!」
 江戸留守居役/堀部弥兵衛《ほりべ やへえ》の声が部屋の外から聞こえて来る。
 障子を開け弥兵衛が眦《まなじり》を上げ入って来る。
「お主たち家老であろう!落胆せずに策を考えぬか!」
 弥兵衛は、両家老の不甲斐無さに我慢できずにいたのだ。
「弥兵衛。無礼であろう!」
 彦右衛門が弥兵衛に詰め寄った。
「彦右衛門、控えぃ!」
 長矩は弥兵衛に詰め寄る彦右衛門に手を上げてそれを制した。
「殿。心配はご無用でござる。」
「何?」
「安兵衛たちが今、江戸中を駆け回り、金屏風を探しておりまする!」
「弥兵衛!」
 長矩は弥兵衛の手を取り、その手を強く握りしめた。
 又左衛門と彦右衛門は、この光景を苦々しい表情で見つめていた。

                  九

 安兵衛は、多都馬と共に長兵衛宅にいた。
 落ち着くことが出来ずに、座ったり立ったりと(せわ)しない。
「多都馬、まだかの。」
 多都馬は座ったまま目を閉じ、キセルを燻らせながら長兵衛たちの報告を待っていた。
 長兵衛の妻/おみよは店先で駆け付けてくる者の到着を待っている。
「まだかの。もう二刻半は経ったはずじゃ。」
 多都馬は、安兵衛の言葉に微動だにせず座ったままである。
「堀部様!来ましたよ!」
 おみよが店先から甲高い声で叫んでいる。
「旦那!」
 長兵衛配下の三吉(さんきち)が息を切らせて駆け込んでくる。
「来たか!」
 安兵衛が三吉の到着に吉報を願った。
「お待たせしやした!元締めからの繋ぎで参りました!」
 多都馬は、眼を開いて三吉から報告を聞く。
「元締めの話では紀伊国屋(きのくにや)文左衛門(ぶんざえもん)の屋敷にあるということで。」
「よし!案内せい!」
 三吉の先導で、多都馬と安兵衛は紀伊国屋文左衛門の屋敷へ向かった。

                  十

 紀伊国屋文左衛門の屋敷前で、長兵衛は多都馬たちを待っていた。
「多都馬様!」
 紀伊国屋文左衛門の店は、手代たちの出入りが激しく繁盛しているのが伺える。
「安兵衛、お主は長兵衛と外で待っておれ。」
「馬鹿な、我が藩の事だぞ。」
「こんなところで赤穂藩の名前でも出してみろ、長矩様の御名に傷がつくではないか。ここは、調達屋に任せておけ。」
「し…しかし。」
「安兵衛。」
 多都馬が安心しろとばかりに安兵衛の肩に手をかけた。
「・・・すまぬ。」
 安兵衛が多都馬に頭を下げる。
「何を言う。これは商売じゃ。」
「わかった。頼んだぞ。」
「後でたんまり頂くぞ。」
 乗り込もうとする多都馬を長兵衛が呼び止める。
「多都馬様。ちょっとお待ちください。御一人で行かれるおつもりですか?」
「あぁ。」
「相手は天下の豪商/紀伊国屋文左衛門ですぜ。まともに取り合ってもらえるかどうか。」
「なぁに、心配ねぇよ。」
「心配いたしますよ。私も一緒に参ります。」
「長兵衛は、顔も名前も知れ渡っておる。お主がついてくると安兵衛よりも始末が悪い。ここは、ワシ一人の方が上手くいく。」
「多都馬様!さっきも申しました通り、紀伊国屋は普通の商人じゃありません。私共の間じゃ、裏の稼業にもそれなりにコネがあるとか・・・。」
「多都馬。長兵衛にも同行してもらえ。お主の身に何かあったら・・・。」
「至誠、天に通ず!何とかなるさ!」
 多都馬は笑いながらそう言い残して、店内に入って行った。

                 十一

 紀伊国屋の奥座敷に案内された多都馬は、部屋の上座に座り文左衛門を待っていた。
 廊下を歩く音が聞こえ座敷の障子に影が映る。
 障子の外から声が聞こえ、文左衛門が入って来る。
― お、何だ随分若いの。ワシと同じか? ―
「紀伊国屋文左衛門にございます。失礼いたします。」
 文左衛門は、多都馬の対面に座り再び頭を下げた。
「調達屋の黛多都馬と申す。」
「おぉ。今、お武家様の間で評判の調達屋とはあなた様でございましたか。」
「そんなに評判になっておるのか?」
「そりゃもう。うまい事お考えなさったなぁ・・・と。」
「お主も一口乗ってみるか。」
「私は材木の商いで手一杯でございますよ。」
 多都馬は気付いていた。文左衛門の襖の後ろから、只ならぬ殺気が漂ってくる。
― 長兵衛の申していた事は、このことか。―
「店の者から聞きました。手前どもが所蔵しております金の屏風絵が欲しいとのことだとか?」
「いかにも。譲るか貸すか、どちらかで考えてもらいたい。」
「手前共は商人でございます。金以外に物の貸し借りはいたしません。お買い求め頂くしかありませんが、・・・。」
「いかほどで譲ってもらえる。」
「土佐光起の作なれば、百両は頂きとう存じまする。」
「高いの。」
「では、お諦めくださいませ。」
 文左衛門は、多都馬に深々と頭を下げた。
「それが、そうは参らぬ。」
 頭を上げた文左衛門の顔から和やかな表情が消える。
「お主が所蔵しておる屏風絵が、どうしても入り用なのだ。時も無い故、今この場にて譲ってもらいたい。」
「先程も申しましたが、お譲りいたします御代は百両でございます。」
「ワシも先程申したが、お主と話し合うてる猶予はないのだ。それ相応の代金を言うてくれれば金は払う。」
 文左衛門の目つきがさらに険しくなって多都馬を睨む。
「黛様。屏風絵をどうしてもと仰るなら、百両持ってきて下さいませ。」
「堂々巡りだな。」
「申し訳ございませぬ。商売でございますれば・・・。」
「やむを得んな。」
「どうされるおつもりですかな・・・。」
「どうしても吹っ掛けるつもりなら、強引だが力尽くでも貰い受ける。」
 多都馬が腰を浮かして前屈みになる。
 多都馬が言い終える前に文左衛門が手をかざして話し始める。
「黛様。妙なお考えはお止め下さいませ。手前共もそれなりの手立ては済ましてございます。」
 文左衛門がそう言い終えると同時に襖が開く。そこには浪人が二十人ほど刀を構えて多都馬を囲もうとしていた。
「文左衛門。お主の覚悟も分からんではないが、ワシの覚悟も伝わらぬのか?」
 多都馬の眼が文左衛門を鋭く見つめる。
「諦めてお帰り頂けるのであれば、手前も手荒な事はいたしません。」
「何を言うておる。残念だが、お主たちでは相手にならぬ。」
「強がるのはお止めなさいませ。お刀は、店先にてお預け頂いたはず。」
「強がりかどうか試してみるか。」
 多都馬が片膝を上げ、二階堂平法/心の一方の構えに移る。
 文左衛門の後方にいる浪人たちも一斉に抜刀する。
 張り詰めた弦のような緊張感が暫く続き、多都馬と文左衛門が睨み合う。
 後方の浪人たちは文左衛門の号令を待っていた。
「どうした。文左衛門、来ぬのか?」
 文左衛門は多都馬を睨んだまま動かなかった。
― 窮地に立たされておるはずだが、この落ち着きようは何じゃ?―
 浪人たちも焦りからか、じりじりと多都馬との間合いを詰めて来る。
 文左衛門は自分の鼓動が、部屋中に聞こえているかのような錯覚を起こす。
― このような男は初めてだ。あの目は虚勢を張っている目ではない。しかし、この人数を相手に出来るとは考えられん。・・・どうする。―
 文左衛門の額から汗が滴り落ちてくる。
― しかし、何か変だぞ。このお侍からは殺気が漂うてこん。何故だ・・・。―
 文左衛門は、経験したことのない恐怖とは違う何かを感じていた。
― 邪心が感じられぬ。それどころか何だ、この涼やかな眼差しは・・・。―
「来ぬのなら、こちらから参るぞ。」
 多都馬の腰が一瞬浮いた時、文左衛門が立ち上る。襲い掛かろうとする浪人たちを、腕を広げて制する。
 そして、そのまま多都馬に背を向け部屋を出て行こうとする。
「黛様。御用の件、承りました。お代は二十両頂きまする。」
 文左衛門は、多都馬に背を向けたままそう言って座敷を後にした。
「おぉ。かたじけない。」
 張り詰めた空気から解放され、文左衛門の顔に爽やかな風が当たる。
 文左衛門の文左衛門の口元が緩み、僅かにほほ笑んだ。

                 十二

 紀伊国屋の前で、安兵衛と長兵衛が多都馬の帰りを手に汗握りながら待っていた。
 紀伊国屋から何食わぬ顔をして多都馬が出て来る。
「多都馬!」
「おう!安兵衛。待たせたっ。!」
「首尾は?」
「問題ないわ。早う二十両を持って参れ!」
「かたじけない。」
「ちと高いが向こうも商売だ。こちらの足許を見ておる。」
「二十両で済むなら安いもんだ。」
 安兵衛は、多都馬の言葉を聞いて一目散に赤穂藩上屋敷目指して走って行った。
「多都馬様。よくぞ御無事で・・・。」
「紀伊国屋文左衛門、なかなかの人物だったぞ。さすが一代でここまできた築き上げた商人じゃ。」
「何を感心なさっているんですか。私は、十年寿命が縮まりました。」
 腰を抜かして座り込んでいる長兵衛を見て大笑いする多都馬だった。
 裏門から出てきた文左衛門は、三人の様子を店の端から番頭と共に見ていた。
「旦那様。よろしいのですか?」
 番頭が不満気に文左衛門に耳打ちをした。
「何がだ?」
「侍なんぞ、べら棒にふっかけてやればよかったではございませんか。」
 文左衛門は番頭の言葉に苦笑いする。
「何を言うか。あのまま仕掛けておれば、地面に突っ伏していたのは我等の方なのだぞ。」
「まさか、あのお侍は身に寸鉄も帯びていらっしゃらなかったではありませんか。」
「いや。何がどうなのかはっきりとは分からないが、あの御仁には得体の知れぬ自信があったのだ。」 
「自信ですか?」
 納得のいかない番頭は眉を顰めた。
「それに近頃の腑抜けた侍とは違って、あのお方には涼やかな心地よさを感じてしまってな。」
「心地よさですか?」
「分からんか?」
「はぁ?、アッシには何のことだが・・・。」
 番頭は文左衛門の話す言葉にますます理解が出来ずそのまま店に引っ込んでしまう。
― いやぁ、負けましたよ。あなた様には・・・。―
 安兵衛を待っている多都馬と長兵衛を、文左衛門は暫くの間清々しい思いで見つめていた。
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