心の刃 -忠臣蔵異聞-
第9章 探 索
一
旧赤穂藩士の仇討ちが噂され、芸州広島藩筆頭家老/浅野忠義は内蔵助の動向が気になっていた。もし、吉良義央に仇討ちが行われれば公儀に対して明らかに反逆であり、本家浅野家も改易となりかねない。
元赤穂藩士/進藤源四郎の叔父である進藤八郎右衛門を派遣し、内蔵助や上方の浪士たちに身を慎み自重するよう御触れも出していた。
忠義はもうひとつ、裏向きの用で武太夫を呼んだ。
「武太夫。急ぎ多都馬と繋ぎを取り、ワシの依頼を伝えてもらいたい。」
「御家老のご依頼とは?」
「うむ。大石内蔵助と旧赤穂藩士共の監視、ならびにその始末じゃ。」
「し・・・始末!」
驚きの余り武太夫は、開いた口が閉まらない。
「いかにも。我が広島本家に害が及ぶなら大石等の命、始末する他ない。」
「しかし、それを多都馬に引き受けさせるというのは・・・。」
「武太夫。多都馬に何としてもこの依頼引き受けさせるのだ。」
「監視だけなら引き受けもしましょうが。仇討ちの意志あらば殺せとは・・・。」
「引き受けぬと申すか。」
「御意。多都馬は剣客にて刺客ではありませぬ。」
「長矩様の刃傷事件、上様のご沙汰に不満を持っている大名がいるのは分かっておる。それにより、長矩様への同情論が広まりつつあるのが実状であろう。」
「では、暗殺などせずとも・・・。」
「しかし、今この時期に仇討ちはまずい。世情はまだ、我等浅野家にとって追い風にはなっておらぬ。そのような時、大石等旧赤穂藩士共に騒動を起こされては困るのだ。」
「多都馬が大石等を始末したとしても我等の関与は隠しようがないのではありませぬか?」
「多都馬は、我が広島藩の禄は得ておらぬ。公儀から何か問われても知らぬ存ぜぬで通す事が出来よう。」
「それでは多都馬があまりにも・・・。」
「武太夫。今、そのような甘い事を申している場合ではない。我等浅野家四十二万石の運命は、大石の行動如何によって決まるのじゃ。」
武太夫は、多都馬にこのような依頼を受けさせねばならないことに胸を痛める。
「それに多都馬に思い定めた事には理由がもうひとつある。大石内蔵助、東軍一刀流の遣い手とも聞いておる。大石と同等の腕では駄目だ。それ以上の遣い手でなければ務まらぬ。多都馬の腕ならば、いかなる相手であろうと問題あるまい。」
「問題ないなどとそのような・・・。」
「心配無用じゃ。多都馬ならば必ずや引き受けてくれる。」
武太夫は首をかしげながら、忠義の部屋から出て行った。
部屋から出て行く武太夫を見つめながら忠義は思った。
― 必ず引き受ける。殿や我等のためでなく、広島藩を支える下々の者たちのためにな。 ―
ニ
忠義の命を受けた武太夫は、多都馬の店を訪れていた。
武太夫は、手をついて多都馬に頼み込んでいた。
「大石の行動いかんで、御本家まで被害が及ぶのだ。」
武太夫は、多都馬の顔色を窺う。
「大石の動向と浪士の監視ねぇ・・・。」
「お主は堀部安兵衛と懇意にしておるはずだな。そのあたりも図られてのことだと思う。」
武太夫から聞かずとも多都馬には忠義の魂胆が手に取るようにわかる。赤穂の浪士たちに警戒されずに近付けるのは多都馬が適任だった。
「それと・・・。」
武太夫は言葉に詰まってしまう。
「それと、なんだ?言ってみろ。」
「いや、あの・・・。その・・・。」
動揺する武太夫を見て、忠義が多都馬を選んだ理由を思いつく。
武太夫の額にはうっすらと汗がにじみ出ていた。
「ワシが言ってやろう。仇討ちの志あれば、始末せよと仰せつかったのだろう。」
「御家老の命なのだ、すまぬ。」
武太夫が頭を下げる。
「武太夫。お主が頭を下げることではないわ。」
― 人のいい武太夫を利用しよって。―
狡猾な忠義の薄笑いを思い浮かべ、多都馬の表情が一層険しくなる。
「まぁ、あの男のことなど、どうでもよい。」
「あの男とは、御家老のことか?」
「他に誰が居る。」
未だ世情は赤穂の者たちに表立って同情的ではない。今の段階で、もし仇討の意向が確認された場合、本家浅野家を守るため内蔵助を亡きものにするという暗殺の命令なのだ。
「この依頼、ワシだけか?」
「い、いや。それは、わからぬが・・・。」
武太夫は申し訳なさそうに縮こまっている。
「この重大なことを、あの男がワシだけに頼むわけがなかろう。」
「もしそうであっても、そのようなことワシが知るわけがなかろう。」
多都馬に申し訳ない気持ちでいる武太夫は、半分泣いているかのような声で訴える。
― それもそうだ。武太夫に悟られるほど愚鈍な男ではあるまい。―
「とにかく、全てはお家のため、綱長様のためなのだ。」
「わかった、わかった。ご本家には御依頼の儀、確かに承ったと伝えろ。」
多都馬は藩主/綱長公のため、禄を失うかも知れぬ藩士たちのため、本意ではないが忠義の依頼を受け赤穂浪士の動向を探るという依頼を引き受けた。
忠義が多都馬を選んだのは、堀部安兵衛とは旧知の仲であり赤穂藩士との繋がりがあったからである。広島藩のため利用できるものは何でも利用しよう貪欲さがヒシヒシと伝わってきた。
― いちいち、癇に障る男よ。―
二人の声が聞こえたのか、須乃は不安な顔で台所に立っていた。
須乃は台所から、多都馬の表情を覗き込んだ。
部屋では多都馬に何度も頭を下げる武太夫がいた。
「多都馬。お主と御家老の繋ぎはワシが務める。報告はワシにすればよい。」
「わかった。」
武太夫は、疲れ切った表情で立ち上がる。
「須乃。」
多都馬に呼ばれ、須乃が台所から出てくる。
「武太夫が帰るそうだ。」
「あ、須乃殿。見送りなど無用でござる。」
武太夫は恐縮しながら調達屋を後にした。
武太夫と入れ違いに、三吉が息を切らせて訪ねて来る。
「旦那!てーへんだ!」
「いかがした!」
須乃の耳に入れたくない内容のため、多都馬に目で合図を送る。
「ちょ、ちょいと御耳を・・・。」
三吉が多都馬に耳打ちをする。
「何!それはどこだっ!案内せいっ!」
「へい!」
多都馬と三吉は、脱兎のごとく店を飛び出して行った。
多都馬の様子から尋常でない事態であることを感じた須乃は、駆けていく二人の姿を心配そうに見送った。
三
三吉に案内され、多都馬は旅籠の一室に入った。
長兵衛が障子の隙間から鋭い目つきで、外の様子を窺っている。
「どのような様子だ?」
「ひっそりと、息を殺して待ち伏せているようでございます・・・。」
「特に動きはないな?」
「へい。」
多都馬も視線を外へ向ける。
多都馬と長兵衛が見つめていたのは、小さな煮売り酒屋だった。三吉の報告では安兵衛以下五名の浪士が、煮売り酒屋に潜んで吉良上野介の行列を襲うというものだった。
安兵衛等が潜んでいる煮売り酒屋は、空き家のように静まり返っている。
「吉良様がお通りになるのはいつだ。」
「あと四半刻ほどかと・・・。」
多都馬は溜め息をついて、忠義の意向を静かに話し出した。
「長兵衛。ワシは今し方、大石の動向と浪士たちの監視を浅野本家から仰せつかってきた。」
「それは大変なお役目を・・・。」
「そうでもないさ、しくじればそれで終いだ。広島藩は知らぬ存ぜぬを通すだろうな。」
「何ですって!」
多都馬へのあまりの扱いに、長兵衛は憤りを隠せず体を震わせている。
「ま、それは追々考えておく。」
「・・・はぁ。」
忠義から大石暗殺の命を受けたことは言えなかった。
「目の前の店か?」
「はい、この旅籠の目の前です。」
「待ち伏せている者は誰か特定できておるのか?」
「堀部安兵衛様、奥田孫太夫様、高田郡兵衛様、赤埴源蔵様、中村清右衛門様、総勢五名ってとこですか。」
赤埴源蔵は馬廻役であり、安兵衛と同役である。馬廻役はいわば武芸に秀でた傑人たちの集団である。
「馬鹿な。たった五名で何が出来る。」
「吉良様のお行列に突っ込んで、潔く斬り死にでもしようとお考えなのでは?」
「犬死にだ。」
「堀部様たちは、そりゃ、もう慌ただしくあの店の者を避難させたようでして・・・。」
「追いやられた店の者は如何した。」
「途方に暮れていやしたので、アッシ等が匿っておりやす。」
三吉が長兵衛に代わって答えた。
― 馬鹿者共が。罪もない者たちを巻き込みおって・・・。―
三吉は部屋の隅で、これから始まるかも知れない斬り合いに震えている。
「多都馬様、どういたしやすか?あと四半刻もすれば、吉良様の御行列がお通りになります。」
多都馬は腕を組んで考え込む。
― 理屈を言うても分かるまい・・。―
「よし、わかった。ワシが参る!」
「多都馬様、そりゃ無茶だ。いくら多都馬様がお強くても、向こうは赤穂の手練れが五名もいるんですぜぃ。」
「迷っている暇はない!」
多都馬は、旅籠を飛び出して安兵衛たちが立て籠もる煮売り酒屋へ乗り込んで行った。
四
「安兵衛!孫太夫殿!」
多都馬が、煮売り酒屋の前の通りから叫ぶ。
中からの返事はなく、煮売り酒屋は静まり返っている。
「返事がないなら、こちらから参るぞ!」
戸を開け家の中に入ると、安兵衛たちが鬼気迫る表情で身構えていた。
「多都馬!何故、ここがわかった。」
安兵衛を中心に、孫太夫たちが左右に分かれる。
「お主たち、何をこれから始めようというのだ?」
郡兵衛が、立てかけてあった槍を手に取り多都馬に向け構える。
「お主には関係ない!出て行けっ。」
「ここを通る吉良様を襲うつもりか。」
「邪魔立てするか!」
赤埴源蔵が刀を抜く。
「笑わせるな、これで奇襲のつもりか。」
「何っ!」
郡兵衛の槍が多都馬を狙う。
「城詰めの連中は腰抜け故、我等で亡き殿の仇を討つのだ。」
清右衛門も抜刀して構える。
「仇討ちだと?何を戯けたことを・・・。」
「我等は、殿が上野介より受けた数々の恥辱を知っておるのだ。殿は・・・上野介によって武士の面目を潰されたのだ!」
源蔵が叫びながら刀を上段に構える。
「犬死だぞ・・・。」
「黙れ!事ここに至ってはどうでもよい!」
槍をしならせて郡兵衛が吼えた。
「お主たち、知らぬのか?吉良家の行列に上杉家の手勢も加わっておる。」
安兵衛たちは、多都馬の情報にたじろいている。
「安兵衛。」
郡兵衛が不安げに安兵衛を見る。
「多都馬殿。引いてくれ、頼む。さもないと・・・。」
「斬るか?」
孫太夫は、多都馬の問いに答えず鞘から刀を抜く。
安兵衛だけは、刀を抜かず微動だにせず立っていた。
「安兵衛!何をしている、もうすぐ吉良が通るぞ!」
興奮している源蔵が、苦悶に満ちた表情の安兵衛をけしかける。
「何を言っても無駄なようだな。」
多都馬の大小の刀が静かに鞘から抜かれる。
多都馬を挟んで左に孫太夫と源蔵、右に清右衛門と郡兵衛という具合に四人は左右に分かれ臨戦態勢をとった。
鞘から抜かれた多都馬の二刀は右の太刀を孫太夫と源蔵に向け、左手に持った脇差を清右衛門と郡兵衛に交差して構える。
向いの旅籠から長兵衛と三吉も出てくる。
多都馬が目を閉じて、四人の気配に集中する。
四人は一斉に多都馬に襲い掛かった。郡兵衛の槍が間合いの外から、多都馬の首目掛けて唸りを上げ襲いかかる。多都馬はそれより早く交差した腕を広げ、凄まじい剣気を孫太夫等四人にぶつける。雷鳴のような衝撃が四人を襲い、弾き飛ばされ壁に叩きつけられた。
「心の一方。」
安兵衛がボソッと呟く。
四人は壁に叩きつけられた衝撃で気を失っていた。
多都馬は、剣を納め安兵衛に向き直る。
「安兵衛。頭を冷やせ、このような闇討ちなど卑怯極まりない。第一、お主らしくないぞ。こんなことで武士の面目が立つのか。」
安兵衛は、多都馬の言葉に膝を落として項垂れる。
「済まん。」
五
気を失っている孫太夫等四人は、長兵衛達配下の者が安兵衛宅へ運び込んだ。
知らせを受け弥兵衛も駆け付けた。
「この大馬鹿者が!」
弥兵衛は、安兵衛等五人を殴りつけた。
弥兵衛の剣幕に五人とも項垂れ、拳による制裁を存分に受けていた。
興奮している弥兵衛は、さらに殴りつけようと掴みかかる。
「弥兵衛殿。もうその辺で勘弁なされては・・・。」
「いいや、多都馬殿。こ奴らの性根を叩き直すには、まだ殴り足らぬわ!」
多都馬は、振りかざした弥兵衛の拳を掴む。
「多都馬殿。」
「もう十分ですよ。」
「・・・かたじけない。」
弥兵衛は、肩を震わしてその場に膝を落した。
武士には、様々な面子がある。安兵衛等には、主君が果たせなかった義央を討つということ。弥兵衛には、赤穂藩の同志たちと揃って事を成すという面子がある。内蔵助には、長広を擁立し浅野家の再興をするという御家の面子がある。
面子が保てないということが武士の最大の屈辱なのだ。
「安兵衛。長矩様が果たせなかったことを家臣である、お主が討つという心情は痛いほど分かる。しかし、お主たちも何故長矩様が刃傷に及んだのか理由を知らぬであろう。」
「それは、上野介より受けた数々の恥辱が・・・。」
力なく源蔵が多都馬に言う。
「その恥辱とは真なのか。」
源蔵は勿論、その場にいた誰もが答えられなかった。
「遺恨と申すが、長矩様は吉良様を本当に殺す気だったのか?それさえも疑わしい。」
安兵衛を除く四人は、先ほどからずっと項垂れている。
「長矩様が使うた小さ刀は、本来ならば振り回すより突く方が確実に仕留められるのだ。」
主君の未熟さを指摘され、弥兵衛の顔が屈辱感で震えていた。
「事を成すには大義名分が必要だ。根も葉もない噂に惑わされおって何が仇討ちだ。」
安兵衛の表情は悔しさで引きつっていた。
「それから・・・。事を成す前にもっと周囲を見てくれ。吉良上野介を討てば、お主たちはもとより親族ならびに一族郎党まで罪が及ぶ。お主たちを失う我等のこともよく考えて欲しい。」
安兵衛は、多都馬の言葉をただ黙って聞いていた。
六
この騒動の後、多都馬は刃傷の真相を探るべく呉服橋にある吉良家を目指して歩いていた。以前、吉良家上屋敷は鍛冶橋にあったが火災で延焼したため呉服橋に移転したのだ。呉服橋の屋敷は、日本橋にある多都馬の店から左程遠くはなかった。
本来、一介の浪人である多都馬が高家筆頭の格式を持つ義央に目通りできることはない。しかし、吉良家で小姓をしている一学とは堀内道場で知り合って以来親しくしていた。多都馬は深めていた交流を利用し、予てより義央との目通りを願っていたのだ。
赤穂浪士が吉良邸に討ち入るとの噂が出ているというのに、屋敷の内外は警戒すらされていなかった。実際、安兵衛たちが襲撃しようとしていたのである。
「無警戒にもほどがあるなぁ。」
「多都馬様!」
吉良邸玄関より爽やかな声と共に一学が現れる。
「お待ち申しておりました。どうぞ、こちらへ。」
「待っていたとは、どういうことでござるか?」
「恥ずかしながら多都馬様のお話は随分前から上様に申し上げておりました。すると大変興味を持たれ早く連れて参れと催促されておったのでございます。」
― 一学は大分尾ひれを付けて話をしたに違いない。―
多都馬は、面倒なことになるのではないかと訪ねたことを後悔していた。
「上野介様は、大事ないか?」
「はい。傷は元々深くなく大したことはござりませぬ。」
一学に、屋敷内を案内され義央がいる奥の間に入る。
義央と対面した多都馬は、安兵衛の会話から聞いた情報とは違う印象を感じる。
「黛多都馬と申します。」
「上野介義央じゃ。面を上げてくれ。」
多都馬の思い描いていた義央とは実際に会ってみると大分違っていた。赤穂の浪士たちと親しかった多都馬は、勅使饗応役のお役目に横槍を入れてきた義央に狡猾な印象を抱いていたのだ。
しかし、目の前にいる義央は何の変哲もない年老いた老人だった。
「一学から常日頃聞いておる、日の本一の剣士だと。」
「一学殿は、若年の割に世辞が上手いと存じまする。」
「お主が使いよる二階堂平法。この日本において遣い手はそうおらんと聞き及ぶが。」
「遣い手がおらぬゆえ、比べる相手がございませぬ。」
義央は、多都馬の申し様に高笑いをする。
「多都馬と申したな?お主、剣の腕もさることながら頭の方も切れそうじゃの。」
一学が側で頷いている。
「此度の一件、義央様におかれましては思いもよらぬ災難でござりました。」
義央は、暫く多都馬の顔を見つめる。
「多都馬。」
「はっ」
「心がこもらぬ言葉というものは、よ~うわかるのぉ・・・。お主、ワシに何が聞きたいのじゃ?」
「は?」
「何か腑に落ちぬ点でもあると申すか?」
多都馬は、自身の心底を見抜かれ観念する。
「恐れ入ります。」
「此度の一件、このワシにも腑に落ちぬ点がいくつかある。」
「・・・と申されますと?」
「今までワシは、内匠頭殿は乱心故に斬りかかってきたと思うてきた。しかし、このところ城内で噂が飛び交っておってな。」
「噂?」
「そうじゃ。内匠頭殿は何やらワシに遺恨があったようなのだ。」
多都馬は、義央が勅使饗応役の所作に幾度となく横槍を入れてきたことを思い出していた。
「遺恨ですか・・・。」
多都馬は知らぬ振りをして答えた。
「ワシは、斬られるまで内匠頭殿が遺恨を持っていたことなど露ほども感じておらんなんだ。」
「遺恨を持たれる側というものは、得てしてそのようなものでございます。」
「多都馬様!」
側にいた一学が多都馬の遠慮をしない物言いに反応する。
「一学、よい。」
義央は、手で一学をなだめる。
「多都馬。そなた、強いばかりではないようじゃの。」
「無学な無法者故、無礼はお許しくださりませ。」
「肝っ玉とでも言うのかの。なかなかのものだ。」
義央は清々しいまでの多都馬の度胸に惚れ込んでしまう。
「多都馬。」
「はい。」
「この刃傷沙汰、何者かの作為を感じておるのであろう。」
「恐れ入りまする。」
「ワシは二月二十六日まで京都御所におったでな。内匠頭殿には一切会うはておらんのじゃ。」
「では、どのようにご指導を?」
「畠山義寧を通し書状にて指導をしておった。」
「では内匠頭様へ、直接の御指導はどなたが?」
「その畠山義寧じゃ。」
続いて多都馬は、浅野家からではない長矩の行動を吉良家側から聞いてみた。義央から聞いた長矩の様子は、勅使饗応接待役を二度もやった人物とは思えなかった。
「拙者。縁あって此度、赤穂藩へ勅使饗応接待に使う金屏風の手配をいたしております。」
「おぉ。あの土佐光起の金屏風はお主が目利きしたのか。」
「元は紀伊国屋文左衛門所有の物故、目利きは拙者ではありませぬ。」
多都馬は軽く頭を下げた。
「しかし、そもそも。上野介様におかれましては当初、墨絵の屏風をご指示いたされていたとか?」
「なんと!」
義央は多都馬の言葉を聞いて驚愕する。
「ワシは、始めから勅使お出迎えに飾る屏風絵は、縁起物の金屏風にと指示いたして居る。」
「内匠頭様には、そのような指示は届いておりませぬ。」
「どういうことじゃ・・・。」
「様々な行き違いが浅野家と吉良家に起きているようですな。」
「ワシの指示通りに義寧が伝えておらなかった・・・ということじゃな。」
「畠山様でなければ、浅野家の誰かが・・・。」
「江戸に戻り所作指導をしたおりも、どこか落ち着きのない様子。勅使出迎えのおりは左様なことでは困ると窘めたが。」
神妙な表情の義央は、長矩を窘めたことを後悔しているようだった。
「お役目のためなら、致し方ないと存じます。」
「初めて勅使饗応役を内匠頭殿が仰せつかった時は、所持万端何も問題はなかったがの。」
「その折は、大石頼母なるものが江戸家老を勤めておったと聞き及んでおります。老練にてなかなかの知恵者でござりました。」
「その者は如何したのじゃ?」
「数年前に亡くなっておりまする。」
義央は、残念そうにため息をついた。
「上野介様、もうひとつお尋ねしたき儀がございます。」
「なんじゃ。」
「内匠頭様が勅使饗応接待役を仰せつかるにあたり、上野介様は指導料として多額の賄いを要求するとか。」
側に控える一学は、多都馬の遠慮ない申し様に腹を立てる。
「多都馬様!無礼にもほどがありまする。」
「一学、よいのじゃ。」
「賂いと申しても、お上から十両と定められておる。これを指導と呼ぶか賂いと呼ぶかは受け取る側、つまり内匠頭殿次第じゃ。それにの、内匠頭殿はその十両も出してはおらん。」
「ま・・・まさか、そのような。」
「嘘は申さぬ。」
― 補佐役の藤井/安井の両家老たちは、いったい何をしていたのだ。―
この刃傷事件に大きな陰謀の影を感じた多都馬であった。
七
多都馬と須乃は、安兵衛の道場を訪れていた。
先日の一件から、さほど日数も経っていなかった。時折、安兵衛の大きな声が道場の外にいても聞こえてくる。
「仇討ちだ!吉良のそっ首、安兵衛が貰い受けるっ」
「三吉。済まぬが番所の連中が来たら面倒故、ここで暫く様子を見ていてくれぬか。」
「へい。畏まりやした。」
三吉を道場の扉の前に立たせ、多都馬と須乃は場内へ入って行った。
キチに案内され奥の座敷に入ると、安兵衛は酒に酔い荒れていた。
安兵衛の傍らには義父の弥兵衛がいた。
「下戸のくせに深酒しても美味くはあるまい。」
「下戸は飲んではいけぬのか。」
「飲んでもよいが、酒は楽しむために飲むものだ。」
「楽しんでおられるわけがなかろう!」
「安兵衛。声がでかい、近所に筒抜けじゃ。」
弥兵衛が安兵衛を窘める。
「構わんではありませんか!どうせワシは、噂に惑わされる戯け者よ!」
「何を言っておる。」
弥兵衛は部外者の多都馬の手前もあって、義央への仇討ちをごまかそうとする。
そして、弥兵衛の顔のしわが一層深くなる。
「吉良め、今に見ておれ!」
「ば、馬鹿を申すでない。先ほどから物騒なことを申しおって・・・。」
「おぉ、その通り。ワシは大馬鹿者じゃ!多都馬、お主も先日言うておったのぉ。」
安兵衛は、そう言ってそのまま眠ってしまった。
「旦那様。こんなところで眠ってはなりません。」
眠ってしまった安兵衛を起こそうとするキチを弥兵衛は止めた。
「キチ。そのまま寝かせてやれ。」
キチは眠ってしまった安兵衛に羽織をかけてやった。
弥兵衛は多都馬に向き直り深々と頭を下げる。
「多都馬殿。先日の一件、誠にかたじけない。」
「弥兵衛殿、よしてください。安兵衛はワシの数少ない友ゆえ、あのようにしたまで。」
弥兵衛は多都馬の言葉に再び頭を下げた。
「弥兵衛殿。詮索するつもりではありませぬが・・・。」
「何でござろうかの。」
「安兵衛のように妙な考えを持つものは、他にも居るのではないでしょうか。仇だ、何だかんだと騒ぎ立てては公儀からも目を付けられてしまいますぞ。」
多都馬は、弥兵衛の表情を読もうと覗き込む。
「いやいや仇討ちなど、御公儀に弓引くような真似を我等がするわけなかろう。今は、大学様をもってお家の再興を願うばかりでござる。」
弥兵衛は、多都馬の問いにとぼけて見せた。
「何か日々の生活で御苦労がございましたら、遠慮なく訪ねて来てくださいませ。私たちの店は、調達屋でございますから。」
須乃は、重くなった空気を振り払うように明るい笑顔を見せていた。
旧赤穂藩士の仇討ちが噂され、芸州広島藩筆頭家老/浅野忠義は内蔵助の動向が気になっていた。もし、吉良義央に仇討ちが行われれば公儀に対して明らかに反逆であり、本家浅野家も改易となりかねない。
元赤穂藩士/進藤源四郎の叔父である進藤八郎右衛門を派遣し、内蔵助や上方の浪士たちに身を慎み自重するよう御触れも出していた。
忠義はもうひとつ、裏向きの用で武太夫を呼んだ。
「武太夫。急ぎ多都馬と繋ぎを取り、ワシの依頼を伝えてもらいたい。」
「御家老のご依頼とは?」
「うむ。大石内蔵助と旧赤穂藩士共の監視、ならびにその始末じゃ。」
「し・・・始末!」
驚きの余り武太夫は、開いた口が閉まらない。
「いかにも。我が広島本家に害が及ぶなら大石等の命、始末する他ない。」
「しかし、それを多都馬に引き受けさせるというのは・・・。」
「武太夫。多都馬に何としてもこの依頼引き受けさせるのだ。」
「監視だけなら引き受けもしましょうが。仇討ちの意志あらば殺せとは・・・。」
「引き受けぬと申すか。」
「御意。多都馬は剣客にて刺客ではありませぬ。」
「長矩様の刃傷事件、上様のご沙汰に不満を持っている大名がいるのは分かっておる。それにより、長矩様への同情論が広まりつつあるのが実状であろう。」
「では、暗殺などせずとも・・・。」
「しかし、今この時期に仇討ちはまずい。世情はまだ、我等浅野家にとって追い風にはなっておらぬ。そのような時、大石等旧赤穂藩士共に騒動を起こされては困るのだ。」
「多都馬が大石等を始末したとしても我等の関与は隠しようがないのではありませぬか?」
「多都馬は、我が広島藩の禄は得ておらぬ。公儀から何か問われても知らぬ存ぜぬで通す事が出来よう。」
「それでは多都馬があまりにも・・・。」
「武太夫。今、そのような甘い事を申している場合ではない。我等浅野家四十二万石の運命は、大石の行動如何によって決まるのじゃ。」
武太夫は、多都馬にこのような依頼を受けさせねばならないことに胸を痛める。
「それに多都馬に思い定めた事には理由がもうひとつある。大石内蔵助、東軍一刀流の遣い手とも聞いておる。大石と同等の腕では駄目だ。それ以上の遣い手でなければ務まらぬ。多都馬の腕ならば、いかなる相手であろうと問題あるまい。」
「問題ないなどとそのような・・・。」
「心配無用じゃ。多都馬ならば必ずや引き受けてくれる。」
武太夫は首をかしげながら、忠義の部屋から出て行った。
部屋から出て行く武太夫を見つめながら忠義は思った。
― 必ず引き受ける。殿や我等のためでなく、広島藩を支える下々の者たちのためにな。 ―
ニ
忠義の命を受けた武太夫は、多都馬の店を訪れていた。
武太夫は、手をついて多都馬に頼み込んでいた。
「大石の行動いかんで、御本家まで被害が及ぶのだ。」
武太夫は、多都馬の顔色を窺う。
「大石の動向と浪士の監視ねぇ・・・。」
「お主は堀部安兵衛と懇意にしておるはずだな。そのあたりも図られてのことだと思う。」
武太夫から聞かずとも多都馬には忠義の魂胆が手に取るようにわかる。赤穂の浪士たちに警戒されずに近付けるのは多都馬が適任だった。
「それと・・・。」
武太夫は言葉に詰まってしまう。
「それと、なんだ?言ってみろ。」
「いや、あの・・・。その・・・。」
動揺する武太夫を見て、忠義が多都馬を選んだ理由を思いつく。
武太夫の額にはうっすらと汗がにじみ出ていた。
「ワシが言ってやろう。仇討ちの志あれば、始末せよと仰せつかったのだろう。」
「御家老の命なのだ、すまぬ。」
武太夫が頭を下げる。
「武太夫。お主が頭を下げることではないわ。」
― 人のいい武太夫を利用しよって。―
狡猾な忠義の薄笑いを思い浮かべ、多都馬の表情が一層険しくなる。
「まぁ、あの男のことなど、どうでもよい。」
「あの男とは、御家老のことか?」
「他に誰が居る。」
未だ世情は赤穂の者たちに表立って同情的ではない。今の段階で、もし仇討の意向が確認された場合、本家浅野家を守るため内蔵助を亡きものにするという暗殺の命令なのだ。
「この依頼、ワシだけか?」
「い、いや。それは、わからぬが・・・。」
武太夫は申し訳なさそうに縮こまっている。
「この重大なことを、あの男がワシだけに頼むわけがなかろう。」
「もしそうであっても、そのようなことワシが知るわけがなかろう。」
多都馬に申し訳ない気持ちでいる武太夫は、半分泣いているかのような声で訴える。
― それもそうだ。武太夫に悟られるほど愚鈍な男ではあるまい。―
「とにかく、全てはお家のため、綱長様のためなのだ。」
「わかった、わかった。ご本家には御依頼の儀、確かに承ったと伝えろ。」
多都馬は藩主/綱長公のため、禄を失うかも知れぬ藩士たちのため、本意ではないが忠義の依頼を受け赤穂浪士の動向を探るという依頼を引き受けた。
忠義が多都馬を選んだのは、堀部安兵衛とは旧知の仲であり赤穂藩士との繋がりがあったからである。広島藩のため利用できるものは何でも利用しよう貪欲さがヒシヒシと伝わってきた。
― いちいち、癇に障る男よ。―
二人の声が聞こえたのか、須乃は不安な顔で台所に立っていた。
須乃は台所から、多都馬の表情を覗き込んだ。
部屋では多都馬に何度も頭を下げる武太夫がいた。
「多都馬。お主と御家老の繋ぎはワシが務める。報告はワシにすればよい。」
「わかった。」
武太夫は、疲れ切った表情で立ち上がる。
「須乃。」
多都馬に呼ばれ、須乃が台所から出てくる。
「武太夫が帰るそうだ。」
「あ、須乃殿。見送りなど無用でござる。」
武太夫は恐縮しながら調達屋を後にした。
武太夫と入れ違いに、三吉が息を切らせて訪ねて来る。
「旦那!てーへんだ!」
「いかがした!」
須乃の耳に入れたくない内容のため、多都馬に目で合図を送る。
「ちょ、ちょいと御耳を・・・。」
三吉が多都馬に耳打ちをする。
「何!それはどこだっ!案内せいっ!」
「へい!」
多都馬と三吉は、脱兎のごとく店を飛び出して行った。
多都馬の様子から尋常でない事態であることを感じた須乃は、駆けていく二人の姿を心配そうに見送った。
三
三吉に案内され、多都馬は旅籠の一室に入った。
長兵衛が障子の隙間から鋭い目つきで、外の様子を窺っている。
「どのような様子だ?」
「ひっそりと、息を殺して待ち伏せているようでございます・・・。」
「特に動きはないな?」
「へい。」
多都馬も視線を外へ向ける。
多都馬と長兵衛が見つめていたのは、小さな煮売り酒屋だった。三吉の報告では安兵衛以下五名の浪士が、煮売り酒屋に潜んで吉良上野介の行列を襲うというものだった。
安兵衛等が潜んでいる煮売り酒屋は、空き家のように静まり返っている。
「吉良様がお通りになるのはいつだ。」
「あと四半刻ほどかと・・・。」
多都馬は溜め息をついて、忠義の意向を静かに話し出した。
「長兵衛。ワシは今し方、大石の動向と浪士たちの監視を浅野本家から仰せつかってきた。」
「それは大変なお役目を・・・。」
「そうでもないさ、しくじればそれで終いだ。広島藩は知らぬ存ぜぬを通すだろうな。」
「何ですって!」
多都馬へのあまりの扱いに、長兵衛は憤りを隠せず体を震わせている。
「ま、それは追々考えておく。」
「・・・はぁ。」
忠義から大石暗殺の命を受けたことは言えなかった。
「目の前の店か?」
「はい、この旅籠の目の前です。」
「待ち伏せている者は誰か特定できておるのか?」
「堀部安兵衛様、奥田孫太夫様、高田郡兵衛様、赤埴源蔵様、中村清右衛門様、総勢五名ってとこですか。」
赤埴源蔵は馬廻役であり、安兵衛と同役である。馬廻役はいわば武芸に秀でた傑人たちの集団である。
「馬鹿な。たった五名で何が出来る。」
「吉良様のお行列に突っ込んで、潔く斬り死にでもしようとお考えなのでは?」
「犬死にだ。」
「堀部様たちは、そりゃ、もう慌ただしくあの店の者を避難させたようでして・・・。」
「追いやられた店の者は如何した。」
「途方に暮れていやしたので、アッシ等が匿っておりやす。」
三吉が長兵衛に代わって答えた。
― 馬鹿者共が。罪もない者たちを巻き込みおって・・・。―
三吉は部屋の隅で、これから始まるかも知れない斬り合いに震えている。
「多都馬様、どういたしやすか?あと四半刻もすれば、吉良様の御行列がお通りになります。」
多都馬は腕を組んで考え込む。
― 理屈を言うても分かるまい・・。―
「よし、わかった。ワシが参る!」
「多都馬様、そりゃ無茶だ。いくら多都馬様がお強くても、向こうは赤穂の手練れが五名もいるんですぜぃ。」
「迷っている暇はない!」
多都馬は、旅籠を飛び出して安兵衛たちが立て籠もる煮売り酒屋へ乗り込んで行った。
四
「安兵衛!孫太夫殿!」
多都馬が、煮売り酒屋の前の通りから叫ぶ。
中からの返事はなく、煮売り酒屋は静まり返っている。
「返事がないなら、こちらから参るぞ!」
戸を開け家の中に入ると、安兵衛たちが鬼気迫る表情で身構えていた。
「多都馬!何故、ここがわかった。」
安兵衛を中心に、孫太夫たちが左右に分かれる。
「お主たち、何をこれから始めようというのだ?」
郡兵衛が、立てかけてあった槍を手に取り多都馬に向け構える。
「お主には関係ない!出て行けっ。」
「ここを通る吉良様を襲うつもりか。」
「邪魔立てするか!」
赤埴源蔵が刀を抜く。
「笑わせるな、これで奇襲のつもりか。」
「何っ!」
郡兵衛の槍が多都馬を狙う。
「城詰めの連中は腰抜け故、我等で亡き殿の仇を討つのだ。」
清右衛門も抜刀して構える。
「仇討ちだと?何を戯けたことを・・・。」
「我等は、殿が上野介より受けた数々の恥辱を知っておるのだ。殿は・・・上野介によって武士の面目を潰されたのだ!」
源蔵が叫びながら刀を上段に構える。
「犬死だぞ・・・。」
「黙れ!事ここに至ってはどうでもよい!」
槍をしならせて郡兵衛が吼えた。
「お主たち、知らぬのか?吉良家の行列に上杉家の手勢も加わっておる。」
安兵衛たちは、多都馬の情報にたじろいている。
「安兵衛。」
郡兵衛が不安げに安兵衛を見る。
「多都馬殿。引いてくれ、頼む。さもないと・・・。」
「斬るか?」
孫太夫は、多都馬の問いに答えず鞘から刀を抜く。
安兵衛だけは、刀を抜かず微動だにせず立っていた。
「安兵衛!何をしている、もうすぐ吉良が通るぞ!」
興奮している源蔵が、苦悶に満ちた表情の安兵衛をけしかける。
「何を言っても無駄なようだな。」
多都馬の大小の刀が静かに鞘から抜かれる。
多都馬を挟んで左に孫太夫と源蔵、右に清右衛門と郡兵衛という具合に四人は左右に分かれ臨戦態勢をとった。
鞘から抜かれた多都馬の二刀は右の太刀を孫太夫と源蔵に向け、左手に持った脇差を清右衛門と郡兵衛に交差して構える。
向いの旅籠から長兵衛と三吉も出てくる。
多都馬が目を閉じて、四人の気配に集中する。
四人は一斉に多都馬に襲い掛かった。郡兵衛の槍が間合いの外から、多都馬の首目掛けて唸りを上げ襲いかかる。多都馬はそれより早く交差した腕を広げ、凄まじい剣気を孫太夫等四人にぶつける。雷鳴のような衝撃が四人を襲い、弾き飛ばされ壁に叩きつけられた。
「心の一方。」
安兵衛がボソッと呟く。
四人は壁に叩きつけられた衝撃で気を失っていた。
多都馬は、剣を納め安兵衛に向き直る。
「安兵衛。頭を冷やせ、このような闇討ちなど卑怯極まりない。第一、お主らしくないぞ。こんなことで武士の面目が立つのか。」
安兵衛は、多都馬の言葉に膝を落として項垂れる。
「済まん。」
五
気を失っている孫太夫等四人は、長兵衛達配下の者が安兵衛宅へ運び込んだ。
知らせを受け弥兵衛も駆け付けた。
「この大馬鹿者が!」
弥兵衛は、安兵衛等五人を殴りつけた。
弥兵衛の剣幕に五人とも項垂れ、拳による制裁を存分に受けていた。
興奮している弥兵衛は、さらに殴りつけようと掴みかかる。
「弥兵衛殿。もうその辺で勘弁なされては・・・。」
「いいや、多都馬殿。こ奴らの性根を叩き直すには、まだ殴り足らぬわ!」
多都馬は、振りかざした弥兵衛の拳を掴む。
「多都馬殿。」
「もう十分ですよ。」
「・・・かたじけない。」
弥兵衛は、肩を震わしてその場に膝を落した。
武士には、様々な面子がある。安兵衛等には、主君が果たせなかった義央を討つということ。弥兵衛には、赤穂藩の同志たちと揃って事を成すという面子がある。内蔵助には、長広を擁立し浅野家の再興をするという御家の面子がある。
面子が保てないということが武士の最大の屈辱なのだ。
「安兵衛。長矩様が果たせなかったことを家臣である、お主が討つという心情は痛いほど分かる。しかし、お主たちも何故長矩様が刃傷に及んだのか理由を知らぬであろう。」
「それは、上野介より受けた数々の恥辱が・・・。」
力なく源蔵が多都馬に言う。
「その恥辱とは真なのか。」
源蔵は勿論、その場にいた誰もが答えられなかった。
「遺恨と申すが、長矩様は吉良様を本当に殺す気だったのか?それさえも疑わしい。」
安兵衛を除く四人は、先ほどからずっと項垂れている。
「長矩様が使うた小さ刀は、本来ならば振り回すより突く方が確実に仕留められるのだ。」
主君の未熟さを指摘され、弥兵衛の顔が屈辱感で震えていた。
「事を成すには大義名分が必要だ。根も葉もない噂に惑わされおって何が仇討ちだ。」
安兵衛の表情は悔しさで引きつっていた。
「それから・・・。事を成す前にもっと周囲を見てくれ。吉良上野介を討てば、お主たちはもとより親族ならびに一族郎党まで罪が及ぶ。お主たちを失う我等のこともよく考えて欲しい。」
安兵衛は、多都馬の言葉をただ黙って聞いていた。
六
この騒動の後、多都馬は刃傷の真相を探るべく呉服橋にある吉良家を目指して歩いていた。以前、吉良家上屋敷は鍛冶橋にあったが火災で延焼したため呉服橋に移転したのだ。呉服橋の屋敷は、日本橋にある多都馬の店から左程遠くはなかった。
本来、一介の浪人である多都馬が高家筆頭の格式を持つ義央に目通りできることはない。しかし、吉良家で小姓をしている一学とは堀内道場で知り合って以来親しくしていた。多都馬は深めていた交流を利用し、予てより義央との目通りを願っていたのだ。
赤穂浪士が吉良邸に討ち入るとの噂が出ているというのに、屋敷の内外は警戒すらされていなかった。実際、安兵衛たちが襲撃しようとしていたのである。
「無警戒にもほどがあるなぁ。」
「多都馬様!」
吉良邸玄関より爽やかな声と共に一学が現れる。
「お待ち申しておりました。どうぞ、こちらへ。」
「待っていたとは、どういうことでござるか?」
「恥ずかしながら多都馬様のお話は随分前から上様に申し上げておりました。すると大変興味を持たれ早く連れて参れと催促されておったのでございます。」
― 一学は大分尾ひれを付けて話をしたに違いない。―
多都馬は、面倒なことになるのではないかと訪ねたことを後悔していた。
「上野介様は、大事ないか?」
「はい。傷は元々深くなく大したことはござりませぬ。」
一学に、屋敷内を案内され義央がいる奥の間に入る。
義央と対面した多都馬は、安兵衛の会話から聞いた情報とは違う印象を感じる。
「黛多都馬と申します。」
「上野介義央じゃ。面を上げてくれ。」
多都馬の思い描いていた義央とは実際に会ってみると大分違っていた。赤穂の浪士たちと親しかった多都馬は、勅使饗応役のお役目に横槍を入れてきた義央に狡猾な印象を抱いていたのだ。
しかし、目の前にいる義央は何の変哲もない年老いた老人だった。
「一学から常日頃聞いておる、日の本一の剣士だと。」
「一学殿は、若年の割に世辞が上手いと存じまする。」
「お主が使いよる二階堂平法。この日本において遣い手はそうおらんと聞き及ぶが。」
「遣い手がおらぬゆえ、比べる相手がございませぬ。」
義央は、多都馬の申し様に高笑いをする。
「多都馬と申したな?お主、剣の腕もさることながら頭の方も切れそうじゃの。」
一学が側で頷いている。
「此度の一件、義央様におかれましては思いもよらぬ災難でござりました。」
義央は、暫く多都馬の顔を見つめる。
「多都馬。」
「はっ」
「心がこもらぬ言葉というものは、よ~うわかるのぉ・・・。お主、ワシに何が聞きたいのじゃ?」
「は?」
「何か腑に落ちぬ点でもあると申すか?」
多都馬は、自身の心底を見抜かれ観念する。
「恐れ入ります。」
「此度の一件、このワシにも腑に落ちぬ点がいくつかある。」
「・・・と申されますと?」
「今までワシは、内匠頭殿は乱心故に斬りかかってきたと思うてきた。しかし、このところ城内で噂が飛び交っておってな。」
「噂?」
「そうじゃ。内匠頭殿は何やらワシに遺恨があったようなのだ。」
多都馬は、義央が勅使饗応役の所作に幾度となく横槍を入れてきたことを思い出していた。
「遺恨ですか・・・。」
多都馬は知らぬ振りをして答えた。
「ワシは、斬られるまで内匠頭殿が遺恨を持っていたことなど露ほども感じておらんなんだ。」
「遺恨を持たれる側というものは、得てしてそのようなものでございます。」
「多都馬様!」
側にいた一学が多都馬の遠慮をしない物言いに反応する。
「一学、よい。」
義央は、手で一学をなだめる。
「多都馬。そなた、強いばかりではないようじゃの。」
「無学な無法者故、無礼はお許しくださりませ。」
「肝っ玉とでも言うのかの。なかなかのものだ。」
義央は清々しいまでの多都馬の度胸に惚れ込んでしまう。
「多都馬。」
「はい。」
「この刃傷沙汰、何者かの作為を感じておるのであろう。」
「恐れ入りまする。」
「ワシは二月二十六日まで京都御所におったでな。内匠頭殿には一切会うはておらんのじゃ。」
「では、どのようにご指導を?」
「畠山義寧を通し書状にて指導をしておった。」
「では内匠頭様へ、直接の御指導はどなたが?」
「その畠山義寧じゃ。」
続いて多都馬は、浅野家からではない長矩の行動を吉良家側から聞いてみた。義央から聞いた長矩の様子は、勅使饗応接待役を二度もやった人物とは思えなかった。
「拙者。縁あって此度、赤穂藩へ勅使饗応接待に使う金屏風の手配をいたしております。」
「おぉ。あの土佐光起の金屏風はお主が目利きしたのか。」
「元は紀伊国屋文左衛門所有の物故、目利きは拙者ではありませぬ。」
多都馬は軽く頭を下げた。
「しかし、そもそも。上野介様におかれましては当初、墨絵の屏風をご指示いたされていたとか?」
「なんと!」
義央は多都馬の言葉を聞いて驚愕する。
「ワシは、始めから勅使お出迎えに飾る屏風絵は、縁起物の金屏風にと指示いたして居る。」
「内匠頭様には、そのような指示は届いておりませぬ。」
「どういうことじゃ・・・。」
「様々な行き違いが浅野家と吉良家に起きているようですな。」
「ワシの指示通りに義寧が伝えておらなかった・・・ということじゃな。」
「畠山様でなければ、浅野家の誰かが・・・。」
「江戸に戻り所作指導をしたおりも、どこか落ち着きのない様子。勅使出迎えのおりは左様なことでは困ると窘めたが。」
神妙な表情の義央は、長矩を窘めたことを後悔しているようだった。
「お役目のためなら、致し方ないと存じます。」
「初めて勅使饗応役を内匠頭殿が仰せつかった時は、所持万端何も問題はなかったがの。」
「その折は、大石頼母なるものが江戸家老を勤めておったと聞き及んでおります。老練にてなかなかの知恵者でござりました。」
「その者は如何したのじゃ?」
「数年前に亡くなっておりまする。」
義央は、残念そうにため息をついた。
「上野介様、もうひとつお尋ねしたき儀がございます。」
「なんじゃ。」
「内匠頭様が勅使饗応接待役を仰せつかるにあたり、上野介様は指導料として多額の賄いを要求するとか。」
側に控える一学は、多都馬の遠慮ない申し様に腹を立てる。
「多都馬様!無礼にもほどがありまする。」
「一学、よいのじゃ。」
「賂いと申しても、お上から十両と定められておる。これを指導と呼ぶか賂いと呼ぶかは受け取る側、つまり内匠頭殿次第じゃ。それにの、内匠頭殿はその十両も出してはおらん。」
「ま・・・まさか、そのような。」
「嘘は申さぬ。」
― 補佐役の藤井/安井の両家老たちは、いったい何をしていたのだ。―
この刃傷事件に大きな陰謀の影を感じた多都馬であった。
七
多都馬と須乃は、安兵衛の道場を訪れていた。
先日の一件から、さほど日数も経っていなかった。時折、安兵衛の大きな声が道場の外にいても聞こえてくる。
「仇討ちだ!吉良のそっ首、安兵衛が貰い受けるっ」
「三吉。済まぬが番所の連中が来たら面倒故、ここで暫く様子を見ていてくれぬか。」
「へい。畏まりやした。」
三吉を道場の扉の前に立たせ、多都馬と須乃は場内へ入って行った。
キチに案内され奥の座敷に入ると、安兵衛は酒に酔い荒れていた。
安兵衛の傍らには義父の弥兵衛がいた。
「下戸のくせに深酒しても美味くはあるまい。」
「下戸は飲んではいけぬのか。」
「飲んでもよいが、酒は楽しむために飲むものだ。」
「楽しんでおられるわけがなかろう!」
「安兵衛。声がでかい、近所に筒抜けじゃ。」
弥兵衛が安兵衛を窘める。
「構わんではありませんか!どうせワシは、噂に惑わされる戯け者よ!」
「何を言っておる。」
弥兵衛は部外者の多都馬の手前もあって、義央への仇討ちをごまかそうとする。
そして、弥兵衛の顔のしわが一層深くなる。
「吉良め、今に見ておれ!」
「ば、馬鹿を申すでない。先ほどから物騒なことを申しおって・・・。」
「おぉ、その通り。ワシは大馬鹿者じゃ!多都馬、お主も先日言うておったのぉ。」
安兵衛は、そう言ってそのまま眠ってしまった。
「旦那様。こんなところで眠ってはなりません。」
眠ってしまった安兵衛を起こそうとするキチを弥兵衛は止めた。
「キチ。そのまま寝かせてやれ。」
キチは眠ってしまった安兵衛に羽織をかけてやった。
弥兵衛は多都馬に向き直り深々と頭を下げる。
「多都馬殿。先日の一件、誠にかたじけない。」
「弥兵衛殿、よしてください。安兵衛はワシの数少ない友ゆえ、あのようにしたまで。」
弥兵衛は多都馬の言葉に再び頭を下げた。
「弥兵衛殿。詮索するつもりではありませぬが・・・。」
「何でござろうかの。」
「安兵衛のように妙な考えを持つものは、他にも居るのではないでしょうか。仇だ、何だかんだと騒ぎ立てては公儀からも目を付けられてしまいますぞ。」
多都馬は、弥兵衛の表情を読もうと覗き込む。
「いやいや仇討ちなど、御公儀に弓引くような真似を我等がするわけなかろう。今は、大学様をもってお家の再興を願うばかりでござる。」
弥兵衛は、多都馬の問いにとぼけて見せた。
「何か日々の生活で御苦労がございましたら、遠慮なく訪ねて来てくださいませ。私たちの店は、調達屋でございますから。」
須乃は、重くなった空気を振り払うように明るい笑顔を見せていた。