あなたとはお別れしたはずでした ~なのに、いつの間にか妻と呼ばれています~
得たものと失ったもの
ビルの三階にある和花の部屋は、玄関こそ狭かったが廊下を抜けると日当たりのよい広々としたリビングルームがある。
設備の整ったキッチンやゆったりとしたバスルームもあって、豪華なマンションと言っても通用しそうな規模だ。
玲生とふたりで暮らすには立派すぎるかもしれないが、ここが和花にとっての『我が家』だ。
家庭の温かさを出したくて、和花は小花柄のカーテンや暖色系の壁紙を選んでいる。
樹をリビングルームに案内したら、チェストの前で彼が急に立ち止まった。
そこには子どもと和花の写真が飾ってある。
いくつも並べた写真立てには、生まれた頃の真っ白なベビー服を着せられたとても小さな玲生や、つかまり立ちをしている姿や公園を歩いている様子が写っている。背景はすべて、ロンドンだ。
「和花。あの子は俺の子だな」
写真を見ていた樹が、和花が一番恐れていた言葉を口にした。
「樹さん……」
「あの夜の子だ」
樹は核心を持って口にしているようだが、和花は答えなかった。
肯定も否定もしない。
「どうしてなにも連絡してくれなかったんだ?」
「それは……」
何通りも考えていた理由が、和花の口からいざとなったら出てこない。
樹を前にしたら、なにを言えばいいのかわからなくなってしまうのだ。
いつもそうだった。
(この人は危険だ)
高校生の頃から彼が側にいるだけで和花の心は乱れてしまう。理性はどこかへ吹き飛んで、彼を求めてやまないのだ。
だが、玲生のために今は心を鬼にしなければならない。
樹の現在のことをなにもしらないのに、迂闊なことは話せないと和花はキュッと唇をかんだ。